第6話 天秤に乗せるもの

 深夜の校舎でボールを投げた、投げることができた、その翌日から、俺は忙しかった。

 まずは比較的真面目にやっている野球サークルに入れてもらった。

 それと同時に、イベントサークルを辞めた。

 暇つぶしにはちょうどいい、踏み込んでくる人間もほとんどいない、いいサークルだったが、俺にはもう暇をつぶすなどという贅沢は許されていない。

 身体も基本から作り直さなくてはいけないと思ったが、走っていたおかげか、体力自体は以前より上がっている。

 それは俺の暇つぶしと名づけた悪あがきが、みっともなく夢のかけらを追い続けてきたことが、無駄でなかった最高の証。

 ――そして、澪から、その言葉と姿から、逃げ続けた俺が。

 あるいは、正しかったのかもしれないという、最低の証拠。 


 だがそれでも、充実していた。

 澪の姿はなくとも、世の中が輝いて見えた。

 ボールが握れる。野球ができる幸せを噛み締めていた。

 いまや俺にとって絶望は無縁のものだった。


 瞬く間に一週間が過ぎた。

 幸運にもサークルが組んでいた練習試合で投げさせてもらえて、幾分か試合勘も取り戻せた。

 変化球も試した。キレは落ちているが、痛みはまったくない。

 完璧に治っていると言えた。


 二週間が過ぎた。

 リサはたまに顔を見せたが、本人も忙しいらしく、それほど会話を交わさなかった。

 正直遊んでいる時間も惜しかった俺は、聞き流していた。

 澪は姿を見せなかった。この二ヶ月と、同じく。

 それすらも気にしなかった。 

 俺はいつしか、野球ができることが当たり前の生活に戻っていた。当たり前ではないということを忘れて。

 そうして奇跡の価値が色褪せてきた、2007年11月25日、日曜日。

 俺は再び叩き落とされることになる。

 今度は、絶望なんて分かりやすいものではなく。それよりも深い底の見えない闇へと。

 蜘蛛の糸のように細く、頼りない、ごく僅かな希望をちらつかされながら。




 それは、1件の電話が運んできた。トレーニングを終えて帰宅した俺は、テーブルに置きっぱなしの携帯電話を取る。ディスプレイにはリサの名前が出ていた。


「はい」

「ちょっと仁! 聞いたでしょ!」


 リサの声は切羽詰まっていた。こんな声を聞くのは初めてだ。

 だが、俺は事の重大さを理解していなかった。


「落ち着けよ、何があったんだよ」

「あんた知らないの? 連絡来てないの?」

「だから何がだよ」


 リサが一瞬沈黙する。そして、その次に聞かされた言葉に、俺は絶句した。


「澪が、行方不明だって。半月以上、連絡がとれないんだって」

 

 ――秦野澪の依頼を完了しました――


 今まで頭の片隅に追いやっていた、その言葉を思い出す。

 

 ――あいつは、澪は、一体何をした?



 深い深い闇の底から、何かが顔を出そうとしている気がした。




 既に日は暮れて、常よりも明るい夜の街は、気の早いクリスマス用のイルミネーションで彩られている。

 電話を受けてすぐに、俺はリサと分担して澪を探しに走った。

 俺は文化公園、彼女は俺と出会った公園を中心に探し回ったが、成果は何もなかった。

 一度落ち合って情報を整理しようと、いつも待ち合わせに使う繁華街の駅で落ち合うことにした。

 どうやら先に着いたらしい俺は、駅前の広場で何を見るともなく、立っていた。

 頭は一つの疑問に支配されている。

 すなわち、澪はどこにいるのか、という疑問に。

 そこでふと、思い出す。そういえば、ここだった。

 あいつが、俺の前に現れたのは。



 突然現れたあいつは、俺の左腕を治したいという願いに頷き、あいつが触れただけで。本当にただそれだけで。

 俺の腕は治った。

 そしてあいつは言ったんだ。

 

 ――秦野澪の依頼を完了しました――


 何故忘れていた?

 何故考えなかった?

 その言葉の意味を――


「あいつを探す。あいつは絶対に何か知っている」


 自然と、決意が言葉となって出ていた。

 


 リサが、改札から出てきた。


「どうしたの?怖い顔して。まあ無理ないけど」


 本人も相当厳しい顔をしているが、それは指摘せずに、俺は別のことを言う。


「会わなきゃいけない奴がいる」

「だれ?」


 当然首を傾げるリサに、俺は説明しようとして――

 視線を感じて、振り返った。

 改札とは逆方向。駅前広場の中央に、そいつはいた。


 背はかなり高い。

 闇に溶けていきそうなほど、黒一色の服装。

 目深にかぶったフードの奥に、男とも、女ともつかない顔がある。


 俺が思わず振り返るほど強烈な存在のはずなのに――

 あの時と同じく誰からも注目されずに――

 そいつは立っている。


 こんばんは。腕の調子はいかがですか?


「調子いいよ。おかげさまでな」


 俺は平坦な声で答えた。それは間違いない。感謝もしている。だがもちろん、本題はそこではない。


「あんた、秦野澪の居場所を知ってるだろ?」


 ヒュウ、と一陣の風が吹き抜けた。突然の風に視界を奪われるその先で。

 そいつはゆっくりと、首を縦に動かした。



 そいつは澪のところへ案内する、とだけ言って歩き出した。

 訳がわからず混乱するリサだったが、説明する時間すら惜しかった俺は、無言でそいつの後をついて歩いた。

 繁華街の細い路地を進み、何度も折れ曲がる。

 それが30分ほど続いた。

 それなりに道を知っているはずの俺でも、今自分がどこにいるのかよくわからない。



 不意に、目の前に一件の店が現れた。

 気づかないはずがない距離で、不意に現れた、店。

 店の名前は掠れていて読めない。

 そいつがドアを開け、俺達を招く。


 どうぞ、中へ。


 得体の知れないものを感じたが、俺はごくり、と唾を飲み込むとそこへ踏み込んだ。




 中は、一見普通の喫茶店だった。

 だが、客は一人もいない。

 空っぽのカウンターにそいつが入る。


 いらっしゃいませ。


「澪はどこだ?」


 その定型句に苛立ちを覚えて、俺は自分の知りたいことを尋ねた。するとそいつはあっさりと、ある一点を指差した。


 そちらにいらっしゃいますよ。


 指された奥のテーブル席を見ると、確かにそこに、いた。

 さっきまで、誰もいなかったはずなのに。


 澪が、そこにいた。眼を閉じて、座っている。


「澪!」


 俺が行動を起こすよりも早く、リサが駆け寄っていた。


「澪! 澪ってば!」


 だがどれだけ呼びかけても、揺らしても、彼女は眼を開けない。

 最悪の予感が頭をよぎる。


「死んでいる、のか?」


 死んではいません。


 そいつの言葉に僅かに安堵する。だが――


 生きているわけでもありません。


 続いた言葉に頭を殴られたような衝撃が走る。

 振り返った俺の瞳に、今まではっきりしなかったそいつの顔が飛び込んでくる。

 いつの間にかフードを外していた。

 露になったその顔を見た俺は、そいつが男なのか、女なのか――

 そもそも、人間なのかすらわからなかった。

 顔も、身体も人間で間違いないが。

 そこにある瞳は染み出してくる闇にしか見えず。 

 とても人間とは、思えなかった。




 呆然とする俺にお構いなしに、そいつは喋り始めた。


 ここは、代償と引き換えに願いを叶える店です。

 心の底から望まない限り、見つけることはできません。

 しかし秦野澪はここにたどり着きました。

 彼女は言いました。

 大切な人の夢を叶えるために、左腕を治したいと。

 もちろん、それは簡単なことです。ここは願いを叶える店なのですから。

 要求された代償を聞いて、彼女は少し迷いました。そこで、一月の考える時間を与えました。

 そして、彼女は再び現れました。代償を支払うことに同意しました。

 

「代償、ってのは」


 俺は最悪の想像をし、それが当たっていることを半ば確信して尋ねた。


 彼女の命です。


 その言葉に、俺は瞬時に爆発した。


「ふざけるな! 俺はそんなこと頼んでいない! 望んでもいない!」


 そうですか?


 しかし激昂する俺に浴びせられたのは冷水のような問い返し。


 貴方は、この数週間、夢中ではありませんでしたか?

 左腕が動く幸せを、噛み締めませんでしたか?


 俺の怒りは強制的に静められる。

 容赦なく俺の醜悪さを暴露する言葉が続く。


 状況の不自然さを、省みましたか?

 秦野澪が何を依頼したか、考えましたか?


 俺は何も言えない。言い返す資格がない。ただ、唇を噛む。

 それでも、当然のように断罪の言葉は続く。

 口の中に血の味が広がった。


 ですが、貴方の言い分もわかります。


 言い返す言葉もなく、沈黙する俺に向かって、意外な言葉がかけられた。俺はわずかな期待を込めてそいつを見つめた。


 ですから、貴方が選んでください。

 

 しかし俺の期待を踏み潰して、そいつは、嗤った。


 秦野澪と引き換えに、左腕を治すのか。

 左腕を犠牲にして、秦野澪を生かすのか。


 まさしく、それは悪魔の質問。俺を絶望よりも深いところへ引きずりこむための究極の選択。

 



 ――量れ、と言うのか。


 俺の、心の中の天秤の――


 片側に、俺の夢を乗せて。

 もう片側に、澪の命を乗せて。


 ――どちらが重いか、量れと言うのか!




 今すぐ決める、それが最善であることはわかっていた。

 大概のことは時間が解決してくれる。

 だがこの選択は、時間が過ぎるほど、決め難くなる。

 時間を置いたところで、思うこと、悩むことが増え、考慮に入れるべきことを思い出し、まだ螺旋を描いていくだけだからだ。

 そんなことはわかっているが。

 もちろん、わかっているのだが。


 すぐに結論を出せとはいいません。

 12月25日、聖夜と呼ばれる日。

 その日に、決断を聞かせていただきます。

 

 その提案は決して善意からではない。そいつはそんなものを持っていない。

 それは豚をよく肥らせてから食べる行為と同じ。

 俺の心に乗せるべき重石を足していくためだけの、提案。

 理屈を超えた部分で、俺はそう確信して――

 それでも俺は、それに甘えた。


 ドアに手をかけた俺に向かって、最後にそいつはこう言った。


 もしかしたら、左腕を犠牲にしなくても、秦野澪は助かるかもしれませんよ?

 ――奇跡が、起これば。


 俺は反応しなかったが、隣の女性は振り向いた。


「あんた、澪にも同じようなこと言ったんでしょ?」


 その横顔に浮かぶ表情は今まで見たことがないほど冷たいものだった。

 そいつは答えず、またのご来店をお待ちしています、とだけ言った。

 俺たちが店を出ると、閉め出すように、扉が閉まった。



「お前、知っていたのか? あの店の存在を」


 尋ねる俺に、彼女は顔を向けずに答えてきた。


「あたしだからね。澪に教えたのは」


 ぴたり、と俺の歩みが止まった。リサの歩みは止まらない。

 彼女は振り返らずに続ける。


「理由は言えない。澪のためにも、あたしのためにも」


 少しずつ、距離が開いていく。声が段々と聞き取りづらくなっていく。


「でも本当にあるとは思わなかった。それに澪が命を賭けるとも……」


 彼女は言葉を切って首を振った。

 俺たちの距離はもう、ほとんど言葉を聞き取れないほどに開いていた。

 だから彼女が最後に何を言ったかはわからなかった。




 リサの姿が見えなくなって、のろのろと歩き出した俺は――

 暗闇の中で、普通なら見過ごすに違いないそれを、何故か見つけることができた。

 アスファルトに、小さな染みが、いくつも、いくつも、あった。

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