第15話「遠い夢」

 瑞端は新聞を読んでいた。


 アメリカの騒動が一面だ。


 内乱と分断寸前であったが、原因はアメリカ合衆国がアメリカドルを崩壊させたことによる恐慌だったと書かれて、アメリカドルの信用を支える為に“新参”ソヴィエト帝国が金の一部をアメリカドルに、という流れが簡単につらつらと。


「大丈夫。人間は冷静さを取り戻せば社会的になれる。少しだけ、混乱から立ち直る手助けをすれば……」


 瑞端は煎茶の葉を炙りながら呟く。


 きっと、大丈夫、立ち直れる、と。


 人類、ホモ・サピエンスを高く見る。


 瑞端にとって、ホモ・サピエンスは宇宙に出る資格が充分にあると考えている。日本人だから大日本帝国航空宇宙軍を開いたが、もし仮に、彼がスペイン人であればヒスパニア航空宇宙軍を目指しただろう。


 日本人である、という自覚はない。


 ただ瑞端は世界戦争を引き起こせるだけの人類のエネルギーで、宇宙の先を目指す、その足掛かりを作りたがっていた。


 急須に葉と湯を混ぜて、湯呑みへ。


「まだ寒いな。それなりに高い葉だぞ」


 瑞端は言いながら客人へと茶を出す。


 瑞端は自分の湯呑みに注ぎ、考える。


 アメリカの混乱は、世界に広がった。


 疫病のようにそれは経済に蔓延る。


 破滅的、ではない。


 だがより高い再生産を望む資本家にとっては、経済活動の縮小は利益を少なくする。利益が少なくなれば損害であるし、余分な経費は止めなければならない。


 ロンドン海軍軍縮会議の背景だ。


 軍拡に圧迫されて共倒れする前に、国際的に海軍の枠組みを厳密にすべしというのが本筋である。1922年のワシントン軍縮会議では主力の大型艦が対象であったが、ロンドン海軍軍縮会議では『海軍そのもの』を条約で統制するという大胆なものだ。


 1930年1月──。


 ロンドンで海軍軍縮会議が始まる。


「天皇はもう戦争へは干渉しないよ。統帥権の侵犯を乱発されないように。天皇を口実に政争を、戦争に関わらせるということは、穢れを吹きかけるに等しい。嘯けば、どういう人間がなお続けるかわかるさ」


 瑞端は、個人的には皇族を戦争に関与させたくはなかった。日本国民の最高指導者に天皇を置いている。


 戦争に勝てればよろしい。


 だが、敗戦となれば大きな責任だ。


 歴史のつね、直近ではロシア革命では皇帝の一族が次々と殺害された。アナスタシアの家族であり親族達の悲劇的な末路は世界中を震撼させた。


 共産主義者が残虐なのではない。


 であれば、と瑞端は考えていた。


「しかしもめているそうじゃないか」


「軍縮会議は海軍の命運を決める。まあ、海軍さんも、軍縮会議に陸軍や航空宇宙軍の将校を送ることをよしとはしない程度に死活問題と力んでいるね」


「条約派と艦隊派だね。条約派は軍縮に前向きだが、艦隊派は否定的だね。妥協点は英米ドイツの7割の排水量だと聞いているよ」


「えぇ。ただそれも問題なんだよ。犬養くんや鳩山くんは政治の道具に使うだろうね。憲法を盾にするのは目に見えているよ。軍の整備と予算は天皇が決めるとある。天皇のうかがいなく軍縮条約を結んで艦隊の整備を確定させてしまうのは統帥権を毀損している、と。皇族が近衛連隊にいるのにも反対な僕とは真逆で、戦争に皇族、天皇を干渉させようと言うばかりか、濱口内閣を潰すためだけの政治の道具に扱う光景が!!」


「まあそう熱くなりたもうな瑞端くん」


「……失礼。しかし軍縮条約と同時に、陛下を軍の都合の悪いことに対しての切り札に利用しないよう、絵を描いていたのが大論争です。軍縮条約以上に。陛下が軍への干渉を精神的に拒絶する、統帥権の実質的な放棄にも等しい宣言は……航空宇宙軍による叛乱であるとまで広まっています。幸い、今日までの内外の地盤固めが功を奏してはいるが」


「統帥権の剥奪。天皇の手綱を外れた軍人による戦争に沿わせる政治のための決定的な一打を工作したと言われても仕方がないね」


「まったくです。しかし、そうではないとごねる必要があるのも事実です。鬼札だ。だが絶対に、2つの軍縮条約で艦隊整備を抑制して──」


「──瑞端くん」


 瑞端の言葉はさえぎられた。


「犬養くんも命拾いしたでしょう。もし彼が内閣を組んだとしても海軍を宥めることはできず、己の放った言葉で暗殺される末路しかありませんから。今回の泥というか溶岩を被って大火傷は航空宇宙軍で被ります。航空宇宙軍に入隊した将兵らにはもうしわけないけどね」


「酷い『宇宙軍大臣』なものだ」


「まったくそのとおりで笑える」


「で……三井の総裁と井上くんへの暗殺未遂の件、宇宙軍は自作自演をしたわけではないんだね?」


「事実無根です。非番の兵がたまたま、三井さんの悲鳴を聞きつけて、たまたま、命を救えた。全ては偶然だ。正直、僕も驚いてる。ソヴィエトや清国側との商談が増えていたし、アメリカから伝播してきた不況に狂わされた、哀れな人間が考えなしに動いた程度のことだろう」


 瑞端は時計を見た。


「時間か。では、件の英雄殿への見舞いに軍病院へ行ってくる。部屋は好きに使って良いし、通路にいる身辺警護組にも楽にさせて構わないが鍵は閉めておいてくれよ──親友」


 と、瑞端は客人を残して扉を開ける。


 扉の先には厳つい風貌の背中が2人。


 客人が煎茶を飲みながら言う。


「午後からは馬車が出る」


「ちゃんと間に合わせる」



 虎ノ門を通り桜田門を馬車がゆく。


 桜田門近くでは、天皇の馬車のため警官が交通整理をおこなって一般人との壁を作って万が一の安全を確保している。だが天皇の馬車を見ようと大勢の人垣が作られていた。


 これだけであれば日常の景色である。


「大人気なものだよ」


 瑞端は私服姿で、数人の供回りという名の護衛であり監視役でもある者を帯同して馬車を見送っていた。最近はすっかり敬愛精神が足りていないのではないかという自戒を込めていた。


 馬車から民衆に手を振っている御仁らだ。


「韓人愛国団で不穏な動きがあります。あまり安全とは言い難いのではと忠告はいたしましたよ」


「陛下が傷つくときのが大事だろう?」


 と瑞端はのほほん相貌を崩さない。


 だが内心では小さな緊張があった。


 韓人愛国団による暗殺計画。可能性が無いわけではない。韓人と日本人は本質的に異民族という感であるし、朝鮮での悪いことは全て日本人の策略という理論が通るものだ。であるというのに、韓人と日本人の区別は一見では難しいことも多い。


 瑞端は目線を素早く動かす。


 大勢の人垣でよく見えない。


 銃で撃つのは不確実性が高い。ロシア皇帝への暗殺未遂事件のように投擲爆弾を使うならば、人垣から何歩も飛び出す必要がある。


 男は両手をコートのポケットに入れたまま人垣を飛び出た。警官隊が慌てて駆け寄ろうとする。ポケットの膨らみは、男の手だけでなく、卵よりも大きなものを握っているようだ。


 民衆は男にぶつかられて怒る。


 だが──それだけだ。


 瑞端の目の前で何かが起ころうとする。


 瑞端は飛び出した男の腰を掴んでいた。


「爆弾だ!」


「クソが、二又爪野郎!」


 馬車から手を振っていた夫婦がことに気がついて驚愕の表情に固まる。警官隊も決死で守ろうと走る。


 男がポケットから手を抜いた。


 握っていたのは手榴弾だった。


 ピンは抜かれていた。


「爆弾だ!!」


「爆弾よ!!


「おい、さっさとどけよ!」


 人垣が蜘蛛の子を散らして逃げる。


 瑞端は何も聞こえなくなっていた。


 瑞端の目の前では上半身と下半身が、手榴弾の爆発で真っ二つに千切れて人体だったものが飛び散った肉と火薬の臭い。そして瑞端自身の体も、その吹き飛ばされた肉片に酷く傷つけられ、暗殺を狙った骨が喰い込んでいた。


 瑞端は血の泡を吹きながら口を開く。


「友を見にパレードに出て失敗したね」


「傷は深いです。お喋りになられるのは……」


 1932年1月8日のことだった。



「……日に日に醜くなるね……」


「か、閣下の相貌は勇ましさが!」


 瑞端は縫合跡だらけの顔を鏡で見ていた。その鏡を持つ女性は瑞端を少しでも励まそうと言う。


「内務省から感謝状と勲章が届いていますよ。式典は閣下の容態がよろしくないと言うことで省略されましたが……」


「式典の肉は美味いのに損した気分だね?」


「閣下に、そんな豪勢な式典は無いですよ」


 瑞端の長い入院生活のなかでも、航空宇宙軍はよく回っていた。そのことに瑞端は、僅かに落ち込んでしまう。


 必要とされる男ではなかった。


 瑞端という男がいなくとも問題ない。


 その事実が瑞端を少し傷つけていた。


「朝鮮は独立させる予定だが、半島の連中は日本への天誅しかない。親日朝鮮人へのリンチもあって朝鮮人同士でも溝は深まっている」


「今、独立は不味いですね」


「うん。天皇への暗殺未遂の成果で、肝を冷やした日本人が朝鮮を手放し独立を勝ち取ったという宣伝をするだろうね。上手く『そうではない』と誘導しつつ独立を果たそう。今までと変わらない。日本が国家を育てて、民族としての自治を委託する、友愛の精神にあふれた、日本人以外にも手助けをする国家像を作りたいからね」


 瑞端の話を聞きながら、藤原寅子は花瓶に花を活けたあとで水を入れようとしていた。花を伝って水がこぼれ病室ではちょっとした騒動が起こる。


 瑞端は「まったく」と思いながらも、ボルチモアのエアレースで優勝した有名人の女性とは思えないようなおっちょこちょいさに、心が和らぐのを感じていた。


 藤原寅子と言えば航空産業界では有名人だ。


 シュナイダートロフィーエアレースで、欧州や米国の白人ではない、アジアの日本人が優勝した。それも他のメーカーと比べれば歴史の浅い日本メーカーの技術でだ。


 カーチスをはじめとして、瑞端の個人的な交友関係から一部の技術的な援助は得られてはいた。だが、それだけで優勝ができていれば苦労はない。


 加速度計は、レース中に藤原寅子にかかったプラスマイナスのGは人体の限界と想定されてきたものを超えていた。人体は想像よりも頑丈だったし、耐G服も着込んでいたが、未踏の加速度に公式に晒されたのは藤原寅子が初めてだろう。


 人類の可能性を広げたと言って過言はない。


 瑞端の夢に『必須の素質』が目の前にいる。


「サラエボに続き桜田門ですか」


 と、寅子は床を拭き終わる。彼女は濡れた雑巾をバケツに絞り、大きな水音を響かせつつ言う。


「体を張りすぎです。閣下はまだお若いと言うのに、随分と身体能力が低下しておられます。勿論、傷の後遺症です。傷は元には戻りませんよ」


「知っているとも、藤原くん。小さな傷も、機能を小さく下げる。回復したと言ったところで、日常生活に復帰できる程度でしかない。……まあ、だからこそ傷痍軍人の退役後の保証に力を入れている。肉体的にも精神的にも、尽くしてくれた彼らを放り出して路頭に迷わせたくないしね」


「他人を、我が子のようの気にかけますね」


「そう言えば昔、教師が言っていたな。僕が結婚して子供を作らないのかと訊くと、教師は言った。生徒が子供のようなものだ、と」


「閣下にとっては航空宇宙軍の将兵が、と、言ったところでしょうか?」と藤原寅子は固く絞られた雑巾を窓枠に干す。


「……日本人だけではないさ」



「朝鮮独立など断じて認められぬ! 海軍大臣殿も志は同じ筈! 我らが日露戦争でどれほどの血を流して得た権益だと考えておるのだ、あの男は!!」


「陛下も何故、ご采配してくれぬのか。誰が帝国のことを第一に考えているかは明白だと言うのに、統帥権を放棄なされるなどありえぬ。それではいったい誰が、陛下の為に動いてくれると言うのだ!?」


 高級料亭で海軍の制服が口から唾を飛ばす程の大声で、現在の政治を熱く語っていた。もはや語ると言うよりも殴りあいか、はたまた、石合戦のごとき様相ではある。


 陸軍以上に海軍の兵が大陸に熱くなる。


 大陸での目覚ましい活躍は陸軍、次いで航空宇宙軍がはくしており、海軍は冷遇されていると感ずるものは少なくないことからの反動であった。


 だが「まあ熱くなるな」と制する男がいた。


「陛下を傀儡にすること許し難し。であるが、果たしてきみらの言う天誅とはクーデターとは違うのか? 今一度、思案したい。正しきをなすため銃をとることの意味、果たして、安易に突き動かされて良いものかと──」


「──悠長を言っている場合か!」


「しかしね、きみらの慕う『北先生』とやら……私は危険思想だと思うのだよ」


「北一輝ですか? 慕ってなどおりません。あれは猶存社の国家改造論者であり確かに現状を憂う気があるという点においては同様ですが、恐れ多くも帝国そのものを破壊したい意思など我々の誰にもありません!」


「……」


 料亭の一触即発の雰囲気。


 多くの将校が、過激な行動と鬱憤を繋ぎ合わせて正当性を強調し、坂道をくだるがごとくあれよあれよと誰も彼もを巻き込むなか、男はなお言う。


「クーデターには反対だよ」


 男──豊田副武少将がきっぱり言う。


 忌憚のない席である。


 豊田と同じ参謀本部将校らが慎ましく声を荒げながら、彼の説得に弁舌を振るう。しかし豊田は「クーデターやそれに近いことはいかん」の一点張りで譲らない。


 海軍将校らは戸惑う。


 豊田少将が、元は海軍大学校の教官であり多くの将兵とも繋がりがあると言うこと以上に、将官であるが場の空気に流されやすく、それを隠して自分のものだと誤魔化し意固地となる“添え物”であるからこそ懐柔が容易い筈だった。


 しかし豊田少将は添え物らしからぬ物言い。


「ならぬものはならぬ」


 と、決起一色の場に冷水を投げるのだった。

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