第3話

 今日だけで一体、何回気絶したのか。涼佑が再び目を覚ました時、神社の外はとっぷりと暗くなっていた。また同じ布団に寝かされており、またゆっくりと起き出すと、一瞬、家に帰らなくちゃという帰巣本能が働きかけたが、すぐにまた気絶する前のことを思い出し、意気消沈する。帰りたくても帰れないのだ。自分の置かれた状況を思うと、どうしようもない不安が込み上げてくる。


「オレ、これからどうなるんだ……?」

「別にどうもならん」


 最初に気絶した時と同じようにまた巫女が障子を開けて入ってくる。今度は鬼も一緒だ。部屋の電気を点けて、巫女は涼佑に問うた。


「そろそろ夕飯にしようと思うんだが、食うだろ?」

「え? あ……うん」


 帰れないと思うと、急に母が作る夕飯が恋しくなってきた。昨日まで母の言うことがあんなに煩く感じていたのに、母の小言に調子に乗った妹のみきが余計なことを言って怒られる光景が、そこに帰ってくる父の姿が、もう見られないのだ。

 泣くまい、と涼佑は思った。もう高校生なんだから、男なんだからと微かに滲む涙を無いものとしようとした。そんな彼に巫女は「泣きゃあ良いだろ」とだけ言った。ついそちらを見ると、彼女は当然のように言ってのける。


「耐える必要がどこにある? お前は何も悪くないだろ。むしろ、ただの逆恨みで不当な扱いをされてるんだ。泣きたくなったって良いだろ」


「むしろ泣いた方がすっきりするぞ」と言われたが、涼佑は泣かないことにした。同い年くらいの女の子の前で泣くのは恥ずかしいし、何よりここで泣いてしまったら、自分が無力な存在だと心身共に認めてしまうような気がして、嫌だった。微かに滲む涙を袖で拭い、「ううん、大丈夫だよ」と若干、震える声で巫女に返す。泣いたって仕方ないのだ。そう思って耐えていると、巫女が「あ、そうだ」と何か思い出したように声を上げて、鬼へ言った。


「童子、夕飯食べたら涼佑に浴衣出してやれ。制服じゃ寝づらいし、皺になるからな」

「は……? ですが、主人。ここには主人と己の着物しか……」

「うん。何とかしろ」

「こぉの……っ!」


 怒ろうかどうしようか少し悩んで、意気消沈している涼佑が目に入った鬼は、昂った感情を落ち着かせようと深く息を吐き、「分かった。何とかしてみせよう」と承諾した。しかし、次いで放たれた言葉に巫女は「えー」と不満を露わにし、今度こそ怒られるのだった。


「その代わり、夕食は遅くなりますよ」




 鬼が退室し、再び涼佑と巫女だけとなった和室の中で、彼女はまだ何かあるらしく「さて」と話題を切り替えた。


「それで、お前に掛かっている呪いのことだが」

「何か分かったのか?」

「いや、それはこれから探るんだよ。お前、夕方ここに来てまた気絶しちまったから、何もできてないんだ」

「あ……ごめん」


 特に悪くないのに、涼佑は思わず謝ってしまう。その言葉に巫女は「別に、気にすんな」と軽く言って、ちょいちょいと手招きする。不思議そうな顔で近寄ってきた涼佑に、巫女は「ん」と廊下側の壁を指し示した。そちらに目を向けると、そこには丸く壁がくり抜かれ、嵌め殺し窓が填まっている。涼佑が窓を認識した頃を見計らって、彼女は説明した。


「呪いをどうするかはまだ『あれ』を見ていないから、どう扱って良いのか分からん」

「『あれ』、っていうのは……?」

「あれはこの神社を建てる時、覚達に造らせた特殊な窓でな。私は『サトリの窓』って呼んでる」

「それが……?」

「特定の人物を思い浮かべながらあの窓を覗くと、そいつの心が読めるんだ。つまり、あの窓から樺倉望の心を知ることができる。ある意味では、お前にとっての真実の一部が見られるという訳だ」


『真実』という単語に涼佑は、はっとして巫女に詰め寄った。その眼差しは大きすぎる期待に満ちている。


「え、え、じゃあ! どうしてオレにこんな呪いを掛けたのかってのも!?」

「あ、ああ。少しだけだが、分かる。覗いてみるか?」

「もちろん!」


 何かこの呪いを解くヒントが見付かるかもしれないと思った涼佑は、巫女に飛びかかる勢いで迫っていたことに気が付き、はっと我に返って「ごめん」と少しだけ身を引いた。今の彼の状況を考えてみても仕方がないと、巫女は「いや」と言い、「んじゃ、見てみるか」と涼佑に立つよう言った。

『サトリの窓』を覗く時は必ず、巫女か鬼と一緒に覗くように言ってから、彼女は涼佑を窓へ導いた。巫女と手を繋いだ状態でひょいと気軽に涼佑が覗き込むと、外の景色が見える。すっかり日が落ち、庭にある柊の葉が風に揺れていた。なかなか外の景色以外のものが見えてこないので、訝しげな顔をする涼佑に巫女がぼそりと言う。


「お前、今、望のこと考えてるか?」

「あ」


「考えないといつまで経っても出てこないぞ」と言われ、少々嫌だが、涼佑は樺倉望のことを思い浮かべてみる。大人しそうだが、その実、物凄い執念の持ち主で、涼佑が現世に帰れなくなった原因で、はた迷惑な女だ。彼女自身を思い浮かべるというより、彼女への不満を募らせていく。それでも良かったのか、やがて窓の表面が曇っていき、段々とある像を結んでいった。霧の中に浮かび上がるようにして見えてきたものをよく見ようとして顔を近づけた涼佑は、にゅっと窓から伸びてきた手に顔を掴まれて引きずり込まれそうになる。それを見た巫女が慌てて彼の手を引っ張るが、何故か涼佑の体はそのまま窓の中へと吸い込まれてしまった。


「涼佑!?」


 こんなこと、今まで前例が無いことだ。流石の巫女も驚き、慌ててどうすればいいのか分からず、とにかく助けを呼ぼうと鬼を呼びに和室を出て行った。




 宙に浮いている感覚に、涼佑は自分が生きているのか、死んでいるのか、よく分からなくなる。体があるような、無いような、不思議な感覚だ。ふわふわとしながら、彼は無意識に手に触れたものを掴んだ。その途端、吸い込まれるようにそちらへ引っ張られ、錐揉み状態で涼佑は何かに吸われた。

 ふわふわとした感覚は無く、しっかり地面に足がついたと分かると、涼佑は目を開く。そこは厭に薄暗く、狭い部屋の中だった。置かれている学習机や通学鞄から、女の子の部屋なのだと分かる。しかし、いつから掃除されていないのか、部屋の中は随分荒れて汚れていた。


「なんだ、ここ……」


 状況がよく分からない涼佑が戸惑っていると、突然部屋のドアが開かれ、一人の少女が入って来た。涼佑と同じ学校の制服に身を包んだ少女は、入って来るなり、ベッドに倒れ込んで毛布を被った。部屋の惨状は目に入っていないのか、そのまま寝入ろうとした時、バンッと閉められた部屋のドアが勢い良く開け放たれた。現れたのは一人の男だった。涼佑より背が高く、神経質そうな痩せた体型なのに、どこか威圧感を覚える男だった。男は入ってくるなり、少女が包まっている毛布を無理矢理剥ぎ取り、まるで敵を睨み付けるような目で少女を見て言った。


「オメェ、さっきのはどういうつもりだ? ええ?」


 男の問いに少女は答えない。否、恐怖で竦んで答えられないようだった。身を固くする彼女の髪を男は鷲掴みにし、無理矢理ベッドから引きずり下ろして、そのまま部屋の外へ連れ出そうとする。


「てめぇには躾が必要だよなぁ。親に舐めた態度を取るような奴はうちの娘じゃないもんなぁ!」


 そう言って男は少女を足蹴にしようとした。事情はよく分からないが、暴力は良くないと涼佑は少女を守ろうと二人の間に入ろうとしたが、呆気なく彼の体はすり抜けた。何の手応えも無いことに一瞬戸惑い、もう一度蹴られている少女を守ろうと男に手を伸ばすが、やはりその手もすり抜ける。そこで涼佑は巫女が言っていたことを思い出した。

『サトリの窓』を通して見る景色は対象者の心を映したもの。心の一部を覗くことだと彼女は言っていた。だから、今の自分は彼らに触れることはできないのかと涼佑は考える。今、彼が見ている光景は所詮幻に過ぎないからだ。しかも、涼佑は先程助けに入ろうとしたところで、少女の顔を見た。見てしまった。

 今も廊下に引きずり出されて足蹴にされている少女は、樺倉望の顔をしていた。助けるべきかどうしようかと考えているうちに、男は気が済んだのか、蹴るのを止めて「部屋片付けておけよ」と吐き捨てて行った。自身のことを『親』と言っていたので、おそらく今の男が望の父親なんだろう。廊下に丸虫のように縮こまっている望の手や足には痛々しい痣がいくつも出来ていた。それから目を逸らした先の壁に、涼佑は何やら血のように赤い文字が現れていくのを見付けた。


 辛かった。苦しかった。誰かに気付いてもらいたかった。


 その一文が現れると、涼佑はちくん、と心の奥底が痛むような気がした。

 彼がその一文を読み終わると場面は変わり、望達家族が夕食を食べている光景が映る。望の父、母、望自身と家族全員で食卓を囲んでいることから「なんだ。何だかんだ言って仲が良い家族なんだな」と言いかけた時だった。並べられた夕食を見つめていた父親が突然、酒を注いでいた母に向かって言う。


「あのさぁ、オレ前に言ったよね? サラダの上に肉乗せんなって。三十年間ずぅっっっと言ってるよね? なのに、なんで乗せちゃうんですか? 頭悪いんですかぁ? 悪いんだろうね」


 小馬鹿にしたような態度と口調で望の父親は彼女の母をなじる。それにびくっと怯えたように震えて彼女の母は「す、すみません」と頭を下げた。その頭に手を乗せたかと思うと、そのまま父親はテーブルの角に妻の額を思い切りぶつけさせた。ごんっと激しい音が響き、望が小さく悲鳴を上げて思わず立ち上がる。


「お母さん……っ!」


 今度はその態度が気に入らなかったのか、父親は望へ視線を移し、「おい、なんだ? その目つきは。オレが悪いとでも言いてぇのか?」とチンピラのように望に迫った。そのまま望も為す術無く平手打ちをされ、その勢いで床に倒れてしまう。そのまま彼女の腹を蹴り付けながら父親は喚いた。


「オレがっ! 誰のために働いてやってると思ってんだ!? 全部、全部、テメェらの為だろうが! なのに、なんでこんなことがいつまで経ってもできねぇんだよ! このクズ! 低能! ゴミが!」

「やめてぇっ! やめてくださいぃ!」


 望を守るように彼女の母が望に覆い被さって庇った。そのまま父親に蹴られ、踏みつけられている母を望は悔しげに見つめていた。ふと、涼佑の目の前にあるダイニングテーブルの表面にまた文字が浮かび上がる。


 夕食の度にお父さんはお酒を飲んで暴れて、殴られたり蹴られたりした。

 自分の無力さが恨めしかった。なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないんだろうと思わずにはいられなかった。


 その一文だけで涼佑はまたぎりり、と心が痛くなる。けれど、やはりそれ以上見ていられず、目を逸らした。

 また場面が変わり、今度は学校の廊下に移る。そこでは移動教室へ移動するらしく、筆記用具と教科書を持った望が教室から出てくるところだった。しかし、後から出てきた女子グループのうちの一人とぶつかり、望は転んでしまう。あっと思った涼佑は咄嗟に手を差し伸べようとして、そんな自分に我に返り、伸ばしかけた手を引っ込めた。そんな彼と同じように誰かが望の前にすっと手を差し伸べる。その人物を見た瞬間、涼佑はひゅっと軽く息を呑んだ。

 そこには自分がいたからだ。「大丈夫?」と当たり前のように手を差し伸べ、落ちた教科書を拾ってあげている自分。いつ頃の記憶なのか、涼佑自身にもよく分からない。分からないが、この時既に自分は彼女と出会っていたのかと胸の内に衝撃を受けていた。幻の涼佑は拾った教科書を望に渡して「じゃあ」とすぐにその場を立ち去る。至って普通の対応だ。けれど、望の視線はその胸のネームプレートに注がれていた。


「新條、涼佑くん……」


 あんな家庭環境を思えば、この時の望が薄ら頬を染めていた光景を見ても、涼佑は戸惑いより複雑な感情を覚えていた。




 涼佑が窓に吸い込まれて暫くした後、巫女は鬼ともう一人、猿の面で目隠しをしている法被を着た柳のような人を連れて再び涼佑がいた和室に戻ってきた。『サトリの窓』へ近付くと、巫女は柳のような人へ「ここだ」と指し示す。柳のようとは体格がその通りの印象で、全体的に細身でなで肩なシルエットからは男なのか女なのか判別がつかない。その人は窓に近付き、「ほほう」と一言呟いて、手をかざした。少しの間そうしていると、その人は巫女へ向き直り、言った。


「こりゃあ、『心移し』に遭っちゅう。ちっくと厄介かもしれんぜよ」

「『心移し』……?」


 巫女にもその単語に覚えが無いのか、その人は「う~ん……」と何事か考えつつ、言おうかどうしようかと逡巡して、彼女に座るように手招きする。巫女と鬼が横並びに座ると、その人は「実は巫女には縁が無いと思いよったが」と『心移し』について話し始めた。

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