09 第3会議室に閉じ込められて
振られた翌日、というビッグイベントはなんとか乗り越えることができた。
というわけでその翌日。火曜日。
今日の放課後は運命の第3会議室への呼び出しだ。
嫌な予感がする。
英語の授業は2回――英語コミュニケーションと英語論理表現の2科目を受けたが、珍しく俺は一度も指名されることはなかった。
放課後に待ち受ける美人教師からの呼び出し。
「いいな~、アッキーは。やっぱ帰宅部ってモテんのかな?」
「帰宅部は関係ないだろ」
「おれも卓球辞めて帰宅部入ろっと」
「いやそれは日本が困るって」
人生最大の決断を安易にしようとした壮一を慌てて止める。
彼は中学時代、卓球シングルスで全国2位という成績を残している。
日本の強化指定選手でありながら、そのアホさも強化指定されている、未来の希望だ。
それを考えれば、壮一だけじゃなくて
小学6年生の時点で英検1級を取得したそうだし、中学時代には数学オリンピックへの出場経験もある。
ある意味彼が誰よりもまともに思えてきた。
「はいはい、流石に卓球は辞めないさ。最近調子いいんだよね。オリンピック狙えるかな?」
素人の俺に聞かれても知らん。
「狙えるんじゃないの。頑張って」
「え、今めっちゃ適当だったよね。そういうとこいいよね、アッキー」
「お前はドМか」
「なーんてな。それじゃ、急がないと
栗山というのは、卓球部の顧問の女教師だ。
俺とは関わりが皆無なので、どんな先生かはわからない。
アホの日本代表を指導しているくらいなので、きっと頭がおかしいんだろう。うん、そうに違いない。
壮一は猛ダッシュで教室を出ていった。
第3会議室は長い廊下の行き止まりのところに存在していて、職員室からも少し距離がある。
滅多に使われることはないため、こうした
噂によれば、昨日は千冬が本当にここに来て、松丸先生と
噂の発生源は壮一なので、あんまり信じない方がいいのかもしれない。
「やっと来てくれたのね、
教室の前で入るか入らないか考えていると、背後から色っぽい声がかけられた。
もう逃げられない、ということらしい。
形式上は英語の話ということで、松丸先生は形式的に英語の資料を持ってきていた。他の先生から疑われているんだろうか。やけに周囲の目を警戒しているような……。
こんな教師に童貞を奪われるのだけは御免だ。
無論、そんなことがあれば即警察に通報するけど。
席に腰掛けるよう促されたので、椅子に何か変な細工がしてないか確認した上でゆっくりと腰を下ろした。
松丸先生が口紅を堂々と塗りながら、机を挟んで俺の正面に腰掛ける。
近くで見ても、やはりこの人は美人だ。
桃のような香りがする。近距離で凝視しても、肌はきめ細やかで美しい。
それだけに、この状況がとても残念だ。
「秋空君、昨日は
やっぱり話してたんだ。
壮一の噂は事実だった。
「詳しい話、ですか?」
「知りたい?」
なんだその小学生みたいな煽り。
俺はそもそも当事者だから知ってるだろ。
「別に大丈夫です。そろそろ部活があるので失礼してもいいですか?」
「あら、部活? 秋空君、何も部活は入ってないはずよね?」
「いや、帰宅部に所属しています」
「帰宅部は部活じゃないのよ。知ってた?」
「そんなはずないと思いますけど」
なんか茶番っぽくなってきたので、本当に帰ってもいいですか?
「私ね、最近彼氏に振られたの」
始まった。
聞いてもないし、望んでもない。でも第3会議室に来た時点で覚悟はしていた。
松丸先生は俺から絶妙に視線を逸らし、いたいけな恋する乙女の表情を作った。確かに可愛いが、それだけだ。
「彼との日々は凄く充実してて、毎日が幸せだった。ほら、教師っていう仕事って、ストレス溜まるでしょう? 彼は私の心の安定剤だったの」
「そうですか」
「特に夜はもう凄かったの。彼ったら――」
「そこの部分は割愛していただけると助かります」
「……秋空君、今16歳? 15歳?」
「まだ15です」
「あら可愛い。昨日も言ったけど、もし秋空君が18歳になって私に告白してきたら、とりあえずホテルに行くっていうことでいいかしら?」
なんで俺が告白する前提なのか。
それに、映画からホテルにグレードアップしてやがる。
この会話を録音して警察に提出すれば、この人の教員人生はもう終わりだな。とはいえ、俺は別に松丸先生のことが嫌いってわけじゃない。
「告白したりしませんから。もう帰ってもいいですか?」
「釣れない子ね。それで、元カレの話に戻るのだけど、彼ね、最近になって紅茶を飲み始めたらしいの」
「はぁ」
話が読めない。
「秋空君聞いてる? 紅茶よ、紅茶」
「紅茶って何かの隠語ですか?」
「そんなわけないじゃない。紅茶は紅茶よ」
「ですよね」
「私がコーヒーが好きなのは知ってるのよね?」
「いや、初耳ですけど」
「嘘。だってこの前もスタマで会ったじゃない。私がスタマに通うのは新作を追いかけるためじゃないのよ。そんなミーハー教師じゃないの、松丸
そういえば、松丸先生とはたまに五番街のスターマックスで会う。
俺は勉強と読書のために利用しているが、松丸先生は本気でコーヒーを楽しみに来ているらしい。
でも本当にコーヒーが好きなら、世界チェーンのカフェじゃなくて、その地域にしかない老舗の喫茶店とか、そういうところに行くのではなかろうか。
コーヒーの楽しみ方は人それぞれ、か。
俺が気にすることでもないし、口を挟むことでもない。とりあえず帰りたい。
「つまり先生は、コーヒー至上主義、そういうことですか?」
「よくわかるじゃない。やっぱり秋空君はいい男ね」
「でも先生ってイギリスに留学経験があるんですよね? だったら紅茶の方が――」
「イギリス留学は3日だけだったから。そこまで紅茶に思い入れなんてないの」
3日だけの滞在は留学と呼ぶのか。
「それ、ただの旅行じゃないですか」
「ううん、違うの。ちゃんと3日間勉強したから留学。留学っていうのはね、海外で何かしらの勉強をすることなのよ」
「語学留学じゃないんですか?」
「イギリスでは、主に漢文を勉強したの」
もうこの人が理解できない。
だったらあの発音の良さは、ただ日本で頑張って練習した成果ということなんだろうか。
たまに授業で、イギリスに留学したという経験を使って話に権威性を持たせてくる時があるが、事実を知った俺からすればその見せかけの権威はもはや恥だ。
「……わかりました。それで、彼氏が紅茶を好きになったからどうしたんですか?」
「もう、もっといっぱいお話させてちょうだい。それに、
こんなくだらない話に付き合うのはもう嫌だ。
「……」
「むー秋空君ったら強情ね」
可愛らしく頬を膨らませて愛嬌を見せてくるが、すまない、もう俺には通用しない。
この人にはがっかりだよ。
「私はコーヒー至上主義者だから、紅茶が好きな人とはお付き合いできないのよ。体質的な問題ね。だから彼にはコーヒーを飲むように強制したのだけど、それが原因で振られたの」
「どれくらい続いてたんですか?」
「4日くらいだったかしら」
付き合って4日。
紅茶を飲んでいたら、コーヒーを飲めと価値観を押し付けられました。
そりゃ別れたくなるよ。
「それは大変ですね。そろそろ失礼します」
うんざりした態度を隠さず、椅子から立ち上がる。
「まだ行ったらダメ、秋空君。大切な用事があるの」
「今までのは全部プロローグだったってことですか……?」
「余興も大事なのよ」
松丸先生が立ち上がると同時に、ふわっと桃の香りが空気中を舞う。
流れるような長髪が、少しだけ俺の肩に当たった。
「少し待っててちょうだい。職員室に資料を取ってくるから」
最初から資料くらい用意しておけ、と言うところだったが、今言葉を発すれば暴言になりそうだったので控えた。
あの人も一応は教師。
生徒の俺は、それ相応の言葉遣いで接する必要がある。
松丸先生はその無駄に整った顔で微笑むと、がらがらっと会議室の
――ガチャリ。
その微笑みの中に、悪戯な意味が込められていたということを、この音で察した。
《次回10話 元カノと二人きりはやめてくれ》
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