◯渡会颯太の話 ペットショップ

 渡会颯太わたらいそうたは高校からの帰り道、そのショッピングモールに立ち寄っていた。


 特に何か用事があったわけではない。ただなんとなく――家に、帰りたくなかった。


「……別に、不満があるわけじゃねぇけどさ」


 そう自分に言い聞かせるように、スマホの画面に写った旧友たちの写真を見ながら、颯太は独りごちる。

 

 ――彼は一ヶ月程前から、とある事情により母方の祖母の家に、母と妹の三人で身を寄せている。元の住居にはいつ戻れるかわからなかったので、通っていた高校は転校せざるを得なかった。

 

 もう十七歳の彼は、未成年とは言え自分の身の回りのことは一通り出来る。一人で家に残る選択肢もあった。けれど、母親の憔悴と妹の状態を見ると、家族唯一の男手である自分が、二人を放っておく事はできなかった。

 

 選択したのは自分自身だ。それに、三つ歳下の妹は可愛い。新しい学校にもなんとか馴染みつつある。

 

 ――それでもやはり、苦労して受験した進学先から転校しなくてはならないのは辛かった。友人もいたし、部活にも力を入れていた。

 こんなふうに、かつての友人から「元気か?」なんてメッセージとともに皆の写真が届いた日なんかは特に、なんとも言えないやるせなさが募る。

 

 だからそんな日は、颯太は放課後の時間を祖母の家の近所にあるこのショッピングモールで潰すことにしていた。

 万が一にでも、転居の理由となった妹に八つ当たりなどしないよう、心を落ち着けてから帰宅するためだ。

 

 フロアの隅に備えつけられた休憩用の椅子に座って、時折聞こえてくる店内放送に耳を傾ける。来週から何かのセールが始まるらしかった。

 ここに座っているだけならタダで時間を潰せるのだ。小遣いの少ない高校生にはありがたい。


 ――とはいえ、そろそろぼんやりするのにも飽きてきた。

 

 ずっしりと重たい通学鞄を肩にかけて立ち上がると、そういえば現国のノートが切れかけていたなと思い出す。文具店に向かおうと振り返った颯太の目に映ったのは、フロア端に位置するペットショップの店先だった。

 ガラス貼りのケースの中で、数匹の子犬が展示されている。

 

 その左端の展示ケースの中身に、颯太の目は釘付けになる。


「……なんだ、あれ」


 それは遠目にも奇妙に見えた。

 

 ケースの中で、ピンク色をした小さなものが蠢いている。他のケージでは白や茶色の毛玉のような子犬たちが飛び跳ねているのに対し、それはじっと、微動だにもせずそこに居る。

 

 ペットショップから颯太のいる場所までは十メートルほどの距離がある。それなのに、それは颯太のことを見ているのだと、彼は確信できた。


 ――呼ばれている。のだとも。


 そろそろとケージに近づくと、その肉塊は子犬のような形をしているように見えた。

 

 しかし、ピンク色の肌には体毛がほとんど生えておらず、お世辞にも愛らしい容姿とは言えない。おまけに顔のパーツは人間のそれで、目にした瞬間から、颯太の身体は嫌悪感で粟立った。

 

 それは怯える颯太の表情を、人の形をした目で見上げると――にやりと笑う。口からは並びの悪い台形の歯が覗いた。


「おにがくるぞ」

「――え?」


 颯太は思わず聞き返したが、それはゆっくりと笑んだ口元と瞼を弛緩させ――ぱたりと、ケージの中に倒れた。

 先程まで呼吸に動いていた腹は、とたんにその動きを止め、光を映していた目は白く濁りだす。口はわずかに開いて――そこから長い舌がだらりと垂れていた。


 もう、命があるようには見えなかった。


「あら。あらあら」


 颯太が呆然と立ち尽くしていると、背後からパタパタと、軽やかな足音とともに間延びした声が近づいてくる。我に返って振り向くと、そこにはこのペットショップのロゴが書かれたエプロンをした中年女性が立っていた。

  

「あ、あの、こいつ、倒れて」

「まあまあまあ。仕方ありませんね。しょうがないです。こうなってしまってはね」


 中年女性はケージごしに、それの――死骸を見ると、中腰のままで傍らに立った颯太を見上げる。

 

「……何か、話しかけられましたか?」

「……え?」

「返事はされましたか?」


 どこまでも黒い二つの目が、颯太の顔を見上げている。

 

 小柄な中年女性だ。上背が百八十を超える颯太のほうが、肉体的には遥かに強いのは明らかだった。

 ――はずなのにどうしてか、彼女の発する威圧感に颯太は怖気づき、しどろもどろになりながら答える。


「え……と。なんか、言ってた気がします。『おにがくる』とかなんとか。よくわかんなくて聞き返したら……倒れて。すいません、俺のせい……ですか?」

「いいえぇ、そんなことはありませんよぉ。まぁ……それくらいなら大丈夫、かしら? 多分ですけどね。……たぶん。きっと大丈夫ですよ、うんうん」


 中年女性は何やら、一人で納得したようにブツブツと呟くと


「……にしてもおに、鬼かしら。鬼ねぇ。君も大変ねぇ。気をつけてくださいね」


 そう言ってケージの横のドアを開け、その裏手に消えていく。ビニル手袋を着けた指先がそれの死骸をつまみ上げるのを、颯太は呆然としながら見つめていた。


「ちゃんと、おかえししておきますから」


 そう、ピンクに塗られた口元だけを覗かせて、女は言うと――死骸を取り出して、小窓を閉めた。

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