第30話 切腹

 新たに現れた怪物はあの鬼女以上に人間離れした異形だった。


 両の目玉はなく眼窩はぽっかりと空洞で、その奥には青白い光がちろちろと燃えている。頭には無秩序に枝分かれした二対の角が伸びている。体躯は沖田よりも頭ふたつは大きい。そしてその巨体は灰色の長毛に覆われていた。


――SPGHRRRRRR!!!!


 そして、素早い。


 猿のように跳ねながら、沖田に向けて代わる代わる飛びかかる。振り回す指先には小刀のような太く鋭い爪が並んでいる。こんなものが直撃すれば人の身体など簡単にバラバラにされてしまうだろう。


 沖田は右に左に身をかわしながら加州清光を振るう。しかし、二度三度と斬りつけても怪物に堪えた様子はない。長い体毛は針金のように硬く、刃が肉にまで届いてないのだ。


「ヒャハハ! これがウェンディゴ憑きの成れの果てだ! 憑きたてとはものが違うぜェ!」


 交渉する新見に沖田は舌打ちする。確かに鬼女と比べると遥かに難敵と言えた。体格、身のこなし、耐久力。あらゆる面で上回っている。かつて戦った水怪ディープワンよりも上手うわてだろう。


 全力で撃ち込めば斬れる自信はあるが――


「ぁぁぁァァァアアアーッッ!!」

「勘吾っ! 邪魔をするなっ!!」


 ウェンディゴの隙間を縫って斬りかかってくる勘吾が邪魔だった。剣術を始めたばかりの勘吾の剣は素直そのものだ。基本の型に忠実に刀を振るう。一方のウェンディゴは野生そのもの。本能を剥き出しに滅茶苦茶な殺意をぶつけてくる。


「くそっ! やりづらい!」


 すべての攻撃が理合いに沿ったものならば、裏をかいてそれを崩す立ち回りができる。反対にすべてが本能によるものならば、拙さを突いてやればそれで済む。しかし、両方が組み合わさるのは厄介だった。攻撃の拍子が不規則で先読みがきかず、どうしても後手に回ってしまうのだ。


 一回、二回と爪をかわすと、今度は白刃が突き込まれてくる。体重の乘ったよい突きだった。しかし、突き技は放った後の隙が大きい。勘吾の身体が泳ぎ、首筋が無防備になる。沖田は上段に振りかぶった加州清光を――


「ソージ様ッ!」


 アーシアの声ではっと我に返る。

 勘吾は魔物に取り憑かれているだけなのだ。術者である新見を斃すか、あるいは慶喜の伝手つてを頼れば祓う手段もあるかもしれない。


(峰打ち……いや、下手をすると刀が折れる)


 真剣での手加減の手段として峰打ちはよく知られているが、実戦で使われることはほとんどない。日本刀は刃からの衝撃にはよく耐えるが、峰や横からの衝撃には脆いのだ。さしもの沖田でも、刀を失った状態で残りの怪物の相手は難しいと思われた。


――SPGHRRRRRR!!!!


「ぐあっ!?」


 背中から衝撃。凍った湖面に全身がうつ伏せに叩きつけられる。すぐさま立ち上がろうとするが息が詰まって身体が言うことを聞かない。再び背中に衝撃。そして沖田の数倍はあろうかという重量が圧しかかる。ウェンディゴが体当たりで押し倒し、そのまま馬乗りになったのだ。


「ぐっ……」

「ヒャハハハ! お仲間に気を取られたな、沖田ァ!」


 新見の鼠面が喜悦に歪む。


「お仲間を斬った動揺につけ込んで、てめえもウェンディゴにしてやろうかとも思っていたが……壬生の狼さんも案外甘っちろいんだなあ」

「お前のような外道と一緒にするな……!」

「ヒャハッ! 外道で結構。まあもともとてめえがウェンディゴに憑かれるようなタマじゃねえとは思ってたよ」

「お前なんかに褒められてもちっともうれしくないや……」

「くくく、どこまでも口の減らねえ野郎だ。なら、こういうのはどうだ?」


 新見は勘吾に向かって手招きをした。そして沖田を指差す。


「ぼんくら、沖田の首を刎ねろ。何、介錯の練習だ。新選組にいりゃあそのうち嫌でもやることになるんだぜ」

「…………」


 勘吾は無言のまま、ゆらりと沖田の脇に立つ。

 新見の言う通り、新選組では度胸をつけるために新入隊士に罪人の打首をさせることがある。しかし、入隊から日の浅い勘吾はまだその機会に恵まれていなかった。そして武士ではない勘吾は介錯の作法など知らない。いつか刑場で見た首切り役人の如く、無造作に刀を振り上げる。


「勘吾っ! 正気に戻れっ!」

「…………」


 沖田の叫びが虚しく響く。

 応えるのは鍔鳴り冷たい音。

 勘吾が手の内を締めたのだ。

 沖田の首に白刃が振り下ろされる。


「いけマセンッ!」


 白刃と沖田の間に白い人影が割って入った。

 両手を広げ、勘吾に向けて青い双眸を向けているのはアーシアだった。


「――――!!」


 勘吾の口から言葉にならない声が発せられる。

 振り下ろされた白刃は、アーシアの首筋に紙一重のところで止まっていた。


「……うう、うああああっ!」


 勘吾は虫でも払うかのようにめちゃくちゃに刀を振り回す。その顔はまるで溺れかけている者のそれだ。みるみる汗にまみれ、喘ぎ悶え、そして刀が手から離れた。硬質な音を立てて刀が湖面に転がる。


「……す……せん……すいや、せん……」


 勘吾はその場で膝立ちになると、雄叫びとともに脇差を抜いた。


「……一生の不覚っす……始末は……自分てめえで!」

「勘吾っ!!」


 逆手に握った脇差が勘吾の腹に向けて突き立てられる。

 真っ赤な血が、仄青く輝く湖面に静かに広がった。

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