第33話

「うわぁーーーっ!」


 ステージを終え、控室に戻った睦美は、壁に向かって発狂していた。まさか動画を観た母親が、実際にステージを観に来るなんて聞いてない。しかも、沙耶と一緒ってことは姉は事前に知ってたくせに連絡もしてくれなかったってことだ。動揺と怒りとがごちゃ混ぜになり、とりあえず意味不明に叫ぶしか心を落ち着ける術を知らない。


「ど、ど、どうした⁉︎」


 運営側との打ち合わせを終わらせて、遅れて戻ってきた香苗がツインテールを解きながら目をぱちくりさせている。部屋に入った途端、壁に向かって頭を抱えている睦美の姿が目に飛び込んで来たのだから、驚いて当然。


「母が、来てた……」

「ああ、姪っ子さんは今日はお婆ちゃんと一緒だったんだ」

「……みたい」


 香苗には母親がピアノの先生だったことも、睦美がピアノに苦手意識があった原因が母であることも話したことはある。だからすぐに睦美がなぜ壁に向かって唸っていたのかを察してくれたみたいで、それ以上の詮索はしてこなかった。

 その後、香苗はツインテールを下した髪をあのパール付きシュシュで一まとめしてから、メイクはそのままでもう一度控室を出て行った。何も言わずだったから、お手洗いかなくらいしか思ってなかった睦美は、再び戻って来た香苗がドアを開けた時に、後ろに沙耶と母の姿を見つけて、椅子から転げ落ちそうになる。


「え、何で……?」

「せっかく遠方からわざわざ来て下さったんだから」


 香苗は悪びれる風もなく言った後、二人を部屋の中へと促していた。控室には何度か入れたことのある沙耶は物応じせずに入って来たが、母は少し戸惑っている風に「いえ、あの……」と言っていたが、孫に手を引っ張られて仕方なく睦美のところに歩み寄り、香苗が気を利かせて用意してくれたパイプ椅子におずおずと腰を下ろしていた。


「……今日は二人だけで?」

「ええ。里依紗は淳史のお昼寝の時間があるからって」


 髪は下ろしてまとめ直していたものの、睦美もまだステージ用の目元はラメてんこ盛りのメイクなままだ。久しぶりに顔を合わせた娘がこんな派手で濃い化粧をしていて驚かない親はいない。母も一瞬はギョッとした表情になってはいたが、すぐに感極まった声で口元をハンカチで抑え始める。


「お母さん、嬉しかったわ。睦美があんなに楽しそうにピアノ弾いてる姿が観れて。あなた、練習する時はいつも嫌々だったから、音楽が嫌いになったんじゃないかって心配してたのよ」


 長女から送られてきた動画を観て、最初はとても戸惑ったみたいだったが、姉は母へ妹の活動のことを詳しく説明してくれたのだという。


「ここに来る途中もね、さーちゃんが一生懸命に話してくれたのよ。睦美みたいに弾けるようになりたいからって、今度ピアノ教室に通うんですってね」

「ああ、うん。音大出たばかりの評判のいい先生なんだって」

「そうみたいね」


 隣で香苗のメイクボックスを見せて貰って大はしゃぎしている沙耶へと視線を送り、母は少し照れたような笑みを漏らした。


「私の教え方ではダメだったみたいだけど、沙耶にはずっと楽しんでピアノに触れていて欲しいわ」

「私はまた弾くようになってるけど?」

「本当に、それは私にはとっては奇跡みたいなものよ。こないだの動画は、睦美の勤務先のイベントなんでしょう? 仕事でピアノを演奏させてもらえるなんて、すごいじゃないの」

「あれは、たまたま……」


 演奏すること自体が本業というわけではないけれど、それでも母はそれを誇らしいと思ってくれたようだった。決して技術を評価されて選抜されたわけではないが、それでも実際に観に行ってみたいと思ったのだと言う。


「でも、今日も何ヵ所か弾き間違えちゃってたし……」

「それは睦美が練習不足だからよ。でも、観に来てた子供達はそんなことは気にしてなかったわ。そもそも発表会じゃないんだから、楽しさが伝わっていたらいいのよ」


 母から弾き間違えが許されるような発言が飛び出て来るとは思わず、睦美は驚き顔になる。改めて見上げた母の顔は以前よりもずっと老け込んでしまったように思えた。歳のせいで気性も少しは丸くなったのかもしれない。


 「お邪魔しちゃったわね」と言って沙耶の手を引いて部屋を出て行った母の後ろ姿を見送って、睦美はハァっと大きく安堵の溜め息を吐いた。観客スペースに母親の姿を見つけた時から、またヒステリックに小言を浴びせられるのかと身構えていた。だからまさか、あんな風に嬉しそうにステージを褒めて貰えるとは思ってもみなかったのだ。


「完全に、怒られると思ってた……」


 そう呟いた睦美のことを、香苗は「ふふふ」と楽し気に笑っていた。彼女の目にはステージを観ていた母が、とても嬉しそうに写っていたのだと言う。


「お姉さんから送られてきた動画を観て、嬉しくて飛んで来てくださったのよね」

「私がピアノを弾いてるのは、母にとっては奇跡なんだって。大袈裟だよね」


 自虐的に言いながらも、睦美は心の中がとても軽くなっているのに気付く。リンリンお姉さんとの出会いは、ピアノや母へとずっと抱えていたわだかまりをすっかり消し去ってくれたみたいだった。

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