第21話・幼児教室のイベント

 主催である幼児教室の先生がイラスト入りのカードを使って、レッスンのデモンストレーションを行った後、ようやく睦美達の出番が回ってきた。背筋を伸ばし、気持ちばかり口角を上げて、睦美はステージ脇から現れて客席の方へ笑顔を振りまきながらピアノの前に座る。そして、肩をゆっくり上げて一度だけ大きく深呼吸する。あらかじめセットしておいた楽譜を確認してから、鍵盤へと静かに指を置いた。


 三階まで吹き抜けになっているイベントスペースに、睦美が奏でるピアノの音が流れ始める。市民センターの狭い会議室とは違い、複雑に反響しながらどこまでも通り抜けていく。

 音色に気付いた二階や三階の買い物客達が、こちらを見下ろしているような視線を感じる。誰もが知っているアニメの主題歌は、睦美が子供だった頃からずっと変わらない。強くて優しいヒーローを励まし応援する曲に、観覧席で親の膝に座っていた子供達が目を輝かせながら立ち上がったり、ピアノの音に合わせて自由に歌い始める。


 教室のデモレッスンの時よりもステージの周辺には徐々に人が集まってきている。遠巻きに見ている人もいれば、先に気付いて駆け出した子供を必死で追いかける母親の姿もあった。国民的ヒーローの人気は絶大だ。

 子供達の様子を確認しながら長い前奏を弾き終えると、ワイヤレスマイクを手にした香苗が、リンリンお姉さんとして歌いながらステージへと上がってくる。睦美と目配せし合った後、透き通った穏やかな声をそのメロディーへと乗せていく。


「みんなー、こんにちわー」


 一曲目を終え、子供達に向かってリンリンお姉さんが声をかけると、「リンリンおねえさーん。むっちゃーん」とそれぞれの名前を呼んでくれる子が何人かいた。見てみると見覚えのある顔が観覧スペースの前列にはちらほらあって、これまで何度かステージを観に来てくれていた子達だった。その中にはちゃっかりと姪の沙耶も混ざっていて、パイプ椅子が置かれた観覧席には淳史を抱っこした姉の姿もあって少しばかり焦る。


 もう慣れた気でいたけれど、さすがに実姉にツインテール姿を見られるのは恥ずかしい。リンリンも沙耶のことに気付いたらしく、ちらりの睦美の方に視線を送ってくる。からかうようなその目に、わざと口を尖らせてムッとした表情を作ってみせると、香苗は小さく吹き出していた。


 事前に主催側と打ち合わせしていた曲を順に歌い終え、リンリンお姉さんが子供達とお別れのタッチをし合っているのを横目に、睦美はステージ脇の小さなテント型控室へと先に戻る。外ではまだ残っている観客に、幼児教室の案内チラシを先生達が説明しながら配っている声が聞こえていた。


「ゼロ歳の親子教室は月曜日。一歳児さんは水曜日。二歳児さんのクラスは火曜と木曜の朝十時からです。あちらで無料体験レッスンのご予約も受け付けております」


 控室のすぐ横に長机を出して、順に無料体験への申し込みをしているらしく、その会話は丸聞こえだった。子供を宥めながらも先生へと質問を繰り返している熱心な母親。その声には何だか聞き覚えがある気がして、睦美は耳を澄ませた。


「幼稚園へのお受験を考えている場合、どれくらいから始めるのがいいんでしょうか?」

「そうですねぇ、今おっしゃった園だと考査での母子分離は必須ですよね。積極性とお友達との関わりが重視されるかと思いますし、早い内から対策された方がお子さんへの負担は少ないと思います」

「ええーっ、母子分離ですか。うちの娘、ママっ子なんだけど大丈夫かしら……?」


 甲高くて甘えた声。まさかと思い、テントの隙間からそっと外の様子を覗き見る。


「……げっ」


 即効で慌てて顔を中へと引っ込めた睦美は、ちょうど反対側の入口から戻って来たばかりの香苗へと、無言のまま外を指差して示す。「どうしたの?」と不審そうな表情で言われるがまま覗き見た彼女も、睦美と同じように眉間に皺を寄せた渋い顔になる。


「……佐山さん、だね」

「もしかして、ステージ中もずっと居た?」

「分かんない。照明が結構眩しくって前の方しか見えてなかったし、後ろで立ち見してる人も多かったしね……」


 声の主は、睦美の売り場の前任者で、香苗からすれば元同僚でもある佐山千佳だった。夫とそっくりな顔の娘を乗せたベビーカーを片手でゆらゆら揺らしつつ、真剣な表情で頷きながら無料レッスンの内容を確認していた。

 彼女の夫は今も睦美達と同じデパートに勤務している。フロアは全く違うから滅多に顔を合わせることはないが、たまに社員食堂の手前にある喫煙室で煙草を吸ってるのをちらっと見かけた。


 千佳のお腹は以前に売り場で見た時よりもさらに大きくなっていて、もう今すぐ生まれてもおかしくなさそうに見えた。最近はあまり店に来ないと思っていたけれど、あのお腹では電車を乗り継いで移動するのが大変なんだろう。


 地域を限定しての活動だから、いつかは知り合いと鉢合わせることもあるだろうとは思っていた。現に今日だって実姉、里依紗が子供達を連れて観に来ていたくらいなのだから。


「……私、佐山さんの旦那さん、ちょっと苦手なんだよね」

「奥さんの方じゃなく?」

「うん、旦那の方」


 溜め息まじりに香苗がぽつりと呟いた。


「奥さん以上に、独身三十路女に対しての態度が露骨っていうか……前にちょっと、ね」

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