第7話 白髭翁の正体


「失礼いたします」


 こういう時、どうしたら良いかなど教えて貰っていなかった。来客があったとしても、美桜は裏方の仕事ばかり命じられていたし、正しい作法など学んでいない。


「おお、美桜さん。来たか。入りなさい」

「はい」


 嫁である百合に対しても優しいという庄屋の声は、その妹で使用人である美桜に対しても穏やかだった。


 障子の向こうに誰が居るのか分からなかったが、どうやら庄屋と客だけでは無いらしいというのが、多くの気配で感じ取れる。


 水の上を水鳥が静かに進むかのように、血の気を無くした手を掛けた障子は、するするとなめらかに開いた。


「お呼びでしょうか」


 部屋に入るなり畳に手を付きこうべを垂れた美桜は、緊張から声が震えてしまったのを恥じて、なかなか視線を上げられないでいる。

 先程チラリと映った視界には、庄屋夫妻と息子、そして百合の姿もあったように思う。

 客が座る床の方まではよく見えなかった。


「顔をお上げ」

「はい」


 庄屋の声掛けにそろそろと視線を上げると、やはり座敷には庄屋夫妻と息子夫婦が揃っている。

 

 そして立派な掛け軸や壺が飾られた床の間の前には、見るからに相当な歳だろうと思われる翁が一人座っていた。眉毛も顎髭も真っ白で、どちらもかなり長い。

 

「椿さんはまだ見つからないのか?」

「申し訳ございません。ただ今マツさんが懸命に探しております」

「ふむ。どうしようか、百合? このお方をあまり長く待たせる訳にもいくまい」


 庄屋がこれ程までに気を遣う相手という事は、もしかするとこの翁はどこかの武家の御隠居かも知れない。そう考えた美桜はマツが探す椿が、一刻も早くこの場所へ来るようにと心の底から祈っていた。


「不出来な妹が失礼をしまして、申し訳ございません。椿には私から後で話しておきます。このままどうかお話の続きをお願いいたします」


 庄屋の問いに対して心底申し訳なさそうな百合が美しい仕草で頭を下げると、庄屋は困ったような表情で口元に笑みを浮かべ、頷く。


「……という事です。多忙なあなた様をお待たせするのも申し訳ない。どうかこのまま百合と美桜さんに、先程の話をしていただけませんか」

「まあワシは一向に構わんが。それなら続きを話すとしよう」


 真っ白な着物を身に付けた翁は、顎髭を手で摩りながら笑った。皺だらけだが優しげなその面持ちに美桜はほんの少しホッとしたけれど、それでもシャンと背筋を伸ばし耳を澄ませる。


「実はのぅ、お前達の父親である弥兵衛はとある場所で床に臥せっておるんじゃ。そう、あれはもう三月くらい前になるか」

「おととさんが⁉︎」


 思わず大きな声を上げてしまった美桜に気を悪くした様子を見せる事なく、翁はうんうんと頷いて見せた。百合が小さな声で窘めると、美桜は無意識に浮かせていた尻を下ろす。


「そうじゃ。そこでこの所になってやっとこさ口が聞けるようになっての。まだ身体は到底まともに動ける状態では無いんじゃが、どうしても娘に会いたいと言うておる」

「おととさんは病気なのですか?」


 美桜はすっかり言葉を失って、顔色が悪い。反対にいつもと変わらず冷静な様子の百合が尋ねると、翁は髭を弄びながらこくりと頷いた。


「倒れてから、片手片足が上手く動かせん。幸いにもだいぶ口は聞けるようになったが、はじめはそれも出来なんだ」

「そうですか。それではあなた様か、またはどなたかが、おととさんのお世話をしてくださったのですね。ありがとうございます」

「礼には及ばん。暇な奴らが多いのでな、順番こに面倒を見とる。すぐに死んでもおかしく無い状態だったというのに、娘が心配で死に損なったと言うておったわい」


 カッ、カッ、カッ、カッ! と喉の奥から笑い声を上げる翁は、じっと黙って話を聞いていた庄屋の方を見る。

 翁と目が合った庄屋はわずかに口元を緩ませると、ゆっくり瞬きをしながら頷いた。


「そこでな、ワシは娘を探して弥兵衛に聞いた村へと向かったが、家はもぬけの殻。その辺におる野良仕事をしていた男に聞いてみれば、姉妹は寛太郎の家におると言う。これは何かの縁じゃと思ってのぅ」


 ここにいる人間で美桜以外の者は、寛太郎というのが庄屋の名前であると知っている。家長の名前を軽々しく呼び捨てるこの翁は、相当な立場の者だという事だ。

 美桜だけは未だ事態が飲み込めずに、困惑した表情を浮かべた。


「百合、美桜さん、このお方は代々この家を守ってくださっているありがたいお方で、産土神うぶすながみ様だよ。ここにおいでになったのは数十年ぶりで、思えば寛司も会った事は無いな」


 美桜も百合も、庄屋の言葉で目の前の翁が産土神だと知って、畳に額を擦り付けるほどの勢いで頭を下げた。

 すると産土神は眉間に皺を寄せ、ひらひらと手を振りながら「やめてくれ」と言う。

 

「ワシは歳ばっかり取った、ただの老いぼれじゃよ。それよりも百合に美桜、お前達には頼みがあってのぅ。うーん、しかしのぉ……これはなかなか……難しい頼みでな」

「私達姉妹に頼みとは……一体何でしょうか?」


 珍しく動揺を隠せない様子の百合が尋ねると、産土神は皺だらけの顔をなお一層くしゃりとさせて笑った。



 五体の自由が効かない父親の面倒を三月の間も看てもらったのだから、それ相応の対価を求められるのでは無いかと不安になる。

 難しい頼みと言うくらいだ。それが姉妹に払えられる物ならば良いが、そうでなければどうなるのだろうか、と。


「百合はこの家に嫁いでおるし、今は腹に子がおるから無理じゃろう。その代わり二番目の椿か、三番目の美桜を弥兵衛の所へ来させてくれんか」


 産土神の意外な言葉に、美桜は驚いて声を上げてしまいそうになる。子を宿している事は知らなかった。

 

 けれどそれよりも先に、廊下と部屋を隔てる障子が破裂したような音を立てて勢い良く開かれたので、そこに居た皆が自然とそちらに顔を向けたのだった。


「美桜を行かせてください!」

 

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