第3話 コルネオーリ・ハワード

 仲良くしてくれ、なんて先生は言ったけれど、それが無用の気遣いであることは言うまでも無い。


 コルネオーリ君は休み時間になると、男子女子問わず机に群がった生徒達に囲まれて質問攻めにされていた。ぼくはというと、机に向かって授業の復習と予習をしながら、後方で繰り広げられる問答に、耳だけを向けていた。もちろん、全然勉強に集中できなかったんだけど。


「ね、コルネオーリ君って日本語上手だよね!どこで練習したの?」

「母親が日本人で、家では日本語と英語を喋ってたから」

「イギリスって、どこに住んでたの?ロンドン?」

「バークシャー」

「スポーツとかやってるの?」


 矢継ぎ早に繰り広げられる質問に、端的明瞭に答えていくコルネオーリ君。毎度毎度、繰り返される質問に、ぼくはコルネオーリ君がちょっぴり不憫に思えた。その声だけを聞いていたぼくとしては、コルネオーリ君の応答からは、厭だとも嬉しいとも感情が読み取れなかったから、ぼくは何かをするわけじゃなかった。仮にコルネオーリ君が会話を億劫に感じていたとしても、ぼくが颯爽と彼を連れ出すことが出来たかというと、それは怪しい。


 お昼になった。

 いつもの場所で昼ご飯を食べようと席を立ったぼくは、これまたいつものように、右腕をむんずと掴まれた。いつだって耶衣子ちゃんはぼくを自由にさせてくれないのである。

 一緒に行こうか、と誘い文句を耶衣子ちゃんに投げかけようと振り返るより先に、ぼくの腕は引っ張られていた。


「待っ」


 待って、と言いかけたぼくは、その言葉をひっこめた。この場面で正しいのは、なんで、とか、どこへ、だったからなんだけど、ぼくはどんな言葉が正しいのかすぐに分からなかったから、結局何も言えず引っ張られるがままになった。


 ぼくの腕を引っ張ったのは、他ならぬコルネオーリ君だった。

 それはそれは凄い勢いで、どれだけ凄いかというと耶衣子ちゃんがぼくを掴み損ねるくらいの勢いだった。


 彼はすたすたと勝手知ったるように――人気のない方へと歩いていく。階段を登って、食堂からも生徒たちの教室からも遠くなって、人の居ない三階まで来て屋上へ続く階段の踊り場で、彼はようやく止まった。


「はぁ、はぁ……」


 ぼくは呼吸を荒くして、コルネオーリ君を見た。彼の方は、息一つ切らしておらず、涼しい顔をしている。その表情少ないところは、どことなく耶衣子ちゃんに似ている。背丈の方だって、こうして並んで立ってみるとぼくより小柄だ。


「名前は」

「ぼく?」


 コルネオーリ君はこくんと頷いた。そういえば、自己紹介をしていない。


「比米島凛音だよ。宜しく……じゃなくて!急にどうしたの?」

「りおん。ボクは疲れた」

「へ?」


 一言どころか二言も三言も足らないのも、耶衣子ちゃんに似ている。


「ボクを助けて欲しい」


 小さく首を傾けて、コルネオーリ君は言った。その仕草があまりにも――これは男性に使うには適切ではない修飾だと分かっているけど――綺麗だったから、ぼくは不覚にもどきどきしてしまった。


 しかし、助けて欲しいだって。質問攻めから助けてってことだろうか。


「そりゃ、ぼくができることなら何でも手伝うけど……お!」


 今日は、まだまだ短いぼくの人生の中でも、類まれなる一日だと言わざるを得なかった。

 ぼくだって、清廉潔白にして品行方正な健全な男子高校生なので、可愛らしい異性に目を惹かれることだってある。だから束の間、その彫刻のような美しさの生徒に寄りかかられて、思わず上気してしまうことを、誰が責められよう。ただ、はっきりさせておかなくてはならないのは、ぼくは男性よりも女性が好きという嗜好の性的マジョリティであるということだ。


 それでも、コルネオーリ君がぼくの懐に顔を埋めて、ぼくを抱擁したことには、すっかりぼくは慌ててしまった。


「ちょ、ちょっと⁉」


 デジャビュ。

 幸いなことにここに人目が無い――いやそうではない、人目があろうがなかろうが、公の場所でこういうのは些かまずかろう。ぼくはコルネオーリ君を引き剝がそうと思ったのだけれど、そのか細い身体を無理やりにしまうのはなんとなく躊躇われて、とにかくどうにもできない。欧米人はこういうのが当たり前なんだろうか。無防備すぎやしないか。


 気ばかりが焦り、そうしている間にもぼくの身体はコルネオーリ君の抱擁を嗅覚で、触覚で認知し始めていて――あぁどうかぼくを気持ち悪いとは思わないでほしい。ラベンダーのような、ハーブのような香りがして、コルネオーリ君はあまり筋肉質でなく、どちらかというと柔らかい――


「え。え⁉」


 そう。やわらかい。


ぼくを抱き留めるその腕は、細くて、それでぼくの胸の肩あたりに彼の頭があって、それでぼくの胸からお腹のあたりが、なんだか、やわらかい感触を受容している。


「ふふ」


 彼は――いや、それはぼくの認知に誓って適切ではない。ぼくは言葉を扱う時には、いつだって適切さを重んじるのだ――彼女は、小さく笑った。


 ここに耶衣子ちゃんはいない。突然出て行ったぼく達を探しているだろうか。とにかく、あの少女の時のように、この永遠のように感じられる抱擁を止める人はここにはぼく以外居ないのだ。


「あの、コルネオーリ……ちゃん?」


 おそるおそる、だけど確信をもって、ぼくはそう言って、彼女をゆっくりと引き離そうとした。この無限に思われる抱擁は、ぼくの言葉を合図に永遠性を失ったようで、彼女の腕からは力が抜けて、ぼくが触るよりさきに彼女の身体はぼくから離れていった。


「ネリー」

 余程ぼくがぽかんとした顔をしていたからだろう、彼女はもう一度、

「ネリーって呼んで」

 と言って、それから今度こそ、彼女は可愛らしく微笑んだ。


「ボクは性的特徴から言えば、女性だ」

「……なんで、ネリーは男子の振りなんて?」

「だって楽しいじゃないか! ボク、日本のサブカルチャーが好きでね。イギリスに居た頃に読んだ漫画のなかに、こういうのがあった。男装した女子が、男子と偽って男子校に入学するんだ。ハラハラドキドキ、それでいて甘酸っぱい――ボクはその漫画が大好きでね、いつか日本に来たらやってみたいと思ってたんだ」


 ネリーは声を弾ませて言った。それは休み時間に淡々と一問一答を繰り返す彼女からは想像できない、心から楽しんでいる声だった。


「なるほど、良く分か――るわけないでしょ‼というか、もうぼくにバレちゃったけど⁉」

「漫画の主人公には協力者が居たんだ。ひとりだけじゃあ、男子の振りは難しいからね。だから君には、ボクの騎士になってボクと秘密を守ってほしい」

「騎士だなんて、そんな大仰な……。なんでまた、ぼく?」

「ふふ。それはね……ボクが君を一目見て」


 ネリーはそこで声を潜めた。俯きがちになって、まるで恥じらう乙女のように。窓から指す陽の加減か、ネリーの顔は少し熱っぽく見える。

 その小さな唇が、言葉を紡ぎ出そうと控え目に開いた時だった。


「あっ~~‼」


 大きな声で、ぼくは飛び上がらんばかりにびっくりした。実はちょっと飛び上がって、声のした方、階段の下を見た。


「オー!同じ学校だったのデス‼リオーン!」


 階段を勢いよく駆け上がってきたのは、ネリーにそっくりの、今朝通学路で出会った少女だった。ぼくの記憶は間違ってなかった。おさげの髪以外、本当にネリーと目の前の少女はそっくりだ。

 少女は満面の笑みで、ぼくの横に立った。


「アイム、ソーハッピー‼ また会えて嬉しいネ!」

「君は……今朝はごめん。挨拶も途中のまま、急に」


 ぼくはずっと引っかかっていた事を謝った。


「ノープロブレム! 学校に急いでたので。私、マーガレット・ハワード‼ 皆、私の事はメグって言います。宜しくデスね!」


 メグはぼくの手を取って、目を細め破顔した。メグとネリーはよく似ているけれど、性格はまるっきり対称的だ。さしずめ、太陽と月のように。

 ぼくの手をぶんぶん握っていたメグは、その時ようやくネリーに気付いた。


「おや、ネリー?こんなところで何してるデス?」

「ちっ」

「何故舌打ちデス⁉」

「なんでもないよ。いや、あるか。ボクは凛音と同じクラスだからね。相談に乗ってもらっていたんだ。邪魔をしないでよねっ」


 ネリーはそう言うと、ぼくの右腕に抱きついた。


「わお!私もするデス‼」

「ふ、二人とも! 頼むから落ち着いて‼ 離れて‼」


 今度は左腕にメグが抱きついて、ぼくは成す術も無くただ声を上げることしかできなかった。ぼくは男子だし、力を振り絞ればもちろん二人を放り出すことだってできるんだけど、それはあまりに暴力的に思えたから、何もできなかった。何もしなかったんじゃない、ということは切に訴えたい。


「楽しそうね。やじろべえごっこ?」


 氷柱のような鋭さと、ぞくりどころか凍結しそうな絶対零度の冷たさを伴った声は、決して大きな声ではなかったけど、ぼくの耳は聞き逃さなかった。


「耶衣子ちゃん……?」


 お弁当のポーチを手にぶら下げた耶衣子ちゃんが階段の下から、ぼくを睨みつけていた。耶衣子ちゃんの瞳は、気の弱いマンボウなら目線を一秒間くれてやっただけで殺せそうな、そんな鋭さを放っていた。両腕の二人はというと、まったく気が付かないようでぼくの両腕を引っ張りあっている。


「あの、耶衣子ちゃん。ぼく、困っててね。できれば助けて欲しい」

「ふぅん。困ってるの。私の目にはそう見えないけど。これはやじろべえというより――あぁ、大岡裁き。私が大岡越前で、凛音は手を引かれる幼子。あの話、もし大岡越前が二人の母親を止めなかったら、幼子の腕はどうなったのでしょうね?」


 口元を歪めて、そんなぞっとすることを言う。

無論人間の腕だ、しかもぼくは高校生の男子だ。か弱い二人の少女の力が掛かったとしても、そんな簡単に痛たたたあ!


「ストップ!ギブアップ‼ヘルプミー‼ご勘弁‼」


 ぼくは大岡越前にもソロモンにも二人の少女にも分かるよう、幼子のごとく助けを求めた。

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