09.市民プール

 玉津姫と別れた翌日、あれからうちには帰って来ず、今日から待ちに待った夏休みが始まった。

 朝食が並ぶダイニングテーブルには、ひと口サイズにこねられ焼かれたハンバーグが乗っている。僕の大好物なのにひと口食べては箸が止まり一向に食べ終わらない。

「珍しいわね〜、湊人の大好きなハンバーグなのに」

 お母さんに言われて、無言で食べ続ける。

「そういえば、たまちゃんまだ帰らないわね。何かあったの?」

「別に」

「ふぅん……」

 お母さんは見透かすように僕の顔をじっと見つめると、「もうお家へ帰ったのかしらね」と呟きながら、台所に引っ込んでいった。

 ようやく食べ終えると、部活の準備をして、玄関で靴を履いているとまたお母さんがやってきた。

「じゃあ行ってらっしゃい、しっかりね」

「うん」

「たまちゃんともちゃんと仲直りするのよ」

「……行ってきます」

 その言葉には返事をせず、僕は家を出た。


 今日の夏練を終え、部室で着替えてると佐和田が話しかけてきた。

「おいおい川瀬、昨日の調子はどこいったんだよ」

「うん、ちょっと寝不足でな」

「そっか、川瀬でもイマイチな時はあるんだな。それよりさ帰りにマック寄らねぇ?家に帰るまで腹が持たねえ」

「この後、市民プールに行こうと思ってるんだけど、さわちゃんも来る?」

 佐和田は若干引き気味で呆れた様子だ。

「お前ってやつは……ほんとに水ん中に居るの好きだなあ。俺はやめとくよ……けどマックはどうすんの?」

「あぁそうだな市民プール行く前に行こっか」

「おっ、珍しくノリいいじゃん」

 マックには行かないと思われてたのか、コロっと佐和田の態度がゆるんだ。

 そんなに普段の付き合いが悪いと思われていたのかと内心で反省しつつ、佐和田と一緒にお店がある駅前へと向かった。


 その後、佐和田と別れ、一人市民プールに来た。このビルには体育館やトレーニングルームなどが入った複合体育施設でその一つに屋内プールが入っている。高校生だと300円以下で利用できるからかなり便利だ。

 早速、50メートルプールに入り泳ぎ始めた。コースロープで区切った隣で泳いでる人たちをぐんぐん追い抜いていく。今日の部活とはえらい違いだ。50メートル、100メートル、200メートル……遠泳でもないのにただ無我夢中でずっと泳ぎ続けた……。

 しばらく泳いだら、競泳用ではなく遊泳用のプールに移った。時間帯のせいかあまり人のいない、温水で満たされたプールにぷかぷかと浮かんでいた。

 目をつむりながら浮いていると、泡沫のように、とりとめのない思考が浮かんでは消えていく。

 水の中にいるのは好きだ。この水難体質を抜きにしても、水の中にたゆたっていると不思議と落ち着く。それはまるで誰かに抱かれてるようで――


 ――遠い昔の記憶。まだ物心がつく前の子供の頃。暗い穴、今思えば井戸に落ちたことがあった。好奇心旺盛だった僕はどこまでも奥深く昏い穴を見つめてる内に、吸い込まれるように落ちてしまった。不幸中の幸いか、井戸の底には水が張ってたお陰で、怪我はしなくて済んだ。けれど、絶望的な状況だった。泣きじゃくる僕の声は井戸に響いても地上まで出ることはなかった。泣き疲れ、ずっとここで暮らすのかと落ち込んでいた時、声が聞こえた。

 ――なんじゃ、井戸に落ちてしもうたか。

 ――お主はほんに水と縁があるよのう。

 ――どれ、わしに任せい。

 声が止むと、足に浸る水面が波打ち、どんどん井戸の底から水が湧きはじめた。水のかさは勢いを増し、僕を包み込むと地上へ――噴水のように噴き出した。気がつくと僕は神社の境内へと生還した――そんな夏の日のことだった。


 おぼろげだった記憶の点と点がつながる。あの時、聞いた声、抱かれた感触、あれは玉津姫だったのではないか――

 あまりの衝撃的な確信に思わずバランスを崩し温水に沈んだ。水面に顔を出した時には頭は鮮明だった。

 ずっと――ずっとそばで見守ってくれていたのか。

 その考えに至ったらこうしていられず、手すりに手をかけ、プールを上がった。

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