6, 襲撃
シャルが目覚めた場所は村の集会所であった。奇妙な事に七色に光る灼熱の泉に全身を晒してもシャル達は無事であったようだ。彼らを泉に落とした群青の軽業師、泉の正体。不可思議な事象に多くの疑問を感じながらもシャルは再び眠りにつく。しかし、それがシャルにとって村で過ごす最後の安息の時間となる―
「…ル。…シャ…ル、…シャル!」
はっと目を覚ますとそこは集会所の大部屋だった。見上げると、広い集会所の天井の他に心配そうにシャルの顔を覗き込むセナとチム、そして何人かの村人の顔が見えた。シャルは集会所で村人達に見守られながら寝かされていたようだ。
「あぁ、良かった…!」
安堵の声を漏らしながらセナは自分の顔を息子の胸に埋める。チムと他の者も安心したように大きなため息をつく。
「俺…何を…何で…泉に落ちたのに…」
「泉に落ちたってどういうことなの!?私はあなたが村の入り口で全身真っ赤になった状態で倒れているって聞いた時は生きた心地がしなかったわ!てっきり商隊さんたちを襲った賊に見せしめで殺されたのかと…!」
シャルの声を聞いた途端セナはがばっと起き上がり、顔を真っ赤にしながら話し始めた。余程心配していたのだろう、過呼吸になりかけている。そんなセナをチムは優しくなだめた。
「まぁまぁ母さん、無事だったんだからよかったじゃないか。それよりもシャル、父さん達が広場にいる間に何が起こったのか聞かせてくれないか?今日は異常なことが起き過ぎている」
「そ、それは…」
シャルは一瞬山で見たことを話しそうになったが、泉のことは村の皆には話さないことを誓ったのを直ぐに思い出し、何とかその場をごまかそうとした。
「う、うぅん。よく思い出せないんだ。た、確か、そう湯場の様子を見に行こうとして、そこまでは思い出せるんだけど…」
「じゃあこの服については何か思い出せることはないか?」
そういってチムは後ろに置いていた服を取り出した。その服は先程までシャルが着ていた仕事着だったが、その服はまるで血まみれの者が着ていたかのように真っ赤に染まっていた。
「そ、そんなの知らないよ!そ、そうだ思い出した!今朝硫黄の匂いが強かったから今はどうか気になって湯場に行ったんだ。そしたら急に頭がぼうっとしてきて、そして気づいたらここにいたんだ。俺が分かるのはここまでだよ!」
「だがそれで服が真っ赤になったりはしないだろう。それにこの服の赤色は血や顔料のものじゃない。血だったら臭いがあってべたつく。そして赤い顔料もこの付近ではまず採れないものだ。なのになぜ…何より泉に落ちたというのは…」
質問を繰り返すチムを、今度は少し落ち着きを取り戻したセナがなだめた。
「あなたも落ち着いて。シャルは今起きたばかりなんだから頭が回らずに混乱していてもおかしくないでしょう?それなのに今すぐ色々聞き出そうとするのは良くないわ。今は行商さんたちと一緒に安静にするのが一番よ」
「母さんありがとう。それよりも俺がどうやってここに運ばれたか教えてくれないかな?そしたら何か思い出せるかも」
「えぇ勿論よ」
そう言うとセナは事の顛末を話してくれた。彼女の話によると、一旦行商達の様子が落ち着いたため、チムと一緒に家に戻ったところ、シャルが家にいないことに気づいたという。するとショウの父ケムが、息子が村のどこにもいないと告げたため、同じように探し回ったところショウも見つからず、一体どこに行ったのかと途方に暮れているところに、村人の一人が二人が湯場の入り口で倒れているのを見つけたそうだ。皆は当初またろくでもないことをしているのだろうかと考えていたが、二人の異様な様子を見てすぐに集会所に運び込んだ。というのも二人は先程から言うように身に着けている衣服を全て真っ赤に染めた状態で倒れており、しかもその服はまるで先程まで熱い湯に浸けていたかのようにぐっしょりと濡れ、温かかったというのだ。
「服と一緒にあなたたちも濡れていたわ。でも赤く染まっているのは服だけであなたたちの髪とか肌は一切色がついていないの。不思議よね…どう?なにか思い出せそう?」
セナは優しくシャルに尋ねた。
「うーん…。やっぱりダメだ、よく思い出せない。もしかしたら気を失った時に湯場に落ちたのかもしれない。でも服が赤い理由は本当にわからないんだ」
「そう…」
シャルはまたしても記憶が曖昧なふりをしてごまかし、本当に自分に起こった出来事について考え始めた。
(服が真っ赤なのはきっとあの泉の赤い所に落ちたからだ…。じゃあ俺達は本当にあそこに…ん?『俺達』…?…そうだ!ショウは!?)
今までショウの存在を忘れていた。ショウも共に泉に落とされたのなら彼は今どうなっているのだろう。シャルは慌ててセナに尋ねた。
「そうだ、ショウは!?ショウはどこにいるの!?湯場には二人で行ったんだ!」
「大丈夫。ショウ君もきちんといるわ。彼はまだ目を醒ましてないけど心臓もしっかり動いているし、いずれ目を醒ますわよ」
セナはシャルが横になっている布団とは反対の布団を指さした。見ると確かにショウが寝ており、そのそばではケムが膝をつき心配そうに彼の顔を眺めている。シャルは母に立てることを告げると布団から出てショウの布団に歩み寄った。
「あ、あのケムおじさん…」
シャルが声をかけると、ケムはゆっくりと顔を上げた。目が少し赤くなっている。どうやら先程まで泣いていたようだ。
「あぁシャル君、目を覚ましてくれて本当に良かった。君が無事ならショウもきっと無事だろう。…それに簡単に俺のせがれが死ぬはずがねぇ。こいつはこれから都に行って、うんと出世するんだ。そうだ、だからこんなところで死ぬはずがないんだ…。なぁそうだろうせがれよ、だから頼む、目を開けてくれ。俺を置いていかないでくれ。母さんに続いてお前まで死んじまったら俺は一体どうすれば…」
そこまで話すとケムは再び顔をショウに向け手で顔を抑えて嗚咽を漏らし始めた。その様子を見たチムが静かに歩み寄り、ケムの肩を取る。大の大人が人目もはばからずに泣く様子を見て、シャルはどうすればよいのか分からなくなってしまった。
「さ、もういいでしょ。あなたはもう寝て」
その様子を見ていたセナがおたおたしているシャルに優しく声をかけ、再び床に入るよう促した。
「なんとなく気づいていると思うけど、ケムさんってとても不器用な人なのよね」
シャルが布団に入ると、セナは枕元に座り、反対側で屈みこむ二人を見てそっと告げた。
「そう?俺にはショウにいつもゲンコツ入れている頑固おやじにしか見えないけど…」
「あらあら、自分の叔父さんに随分辛辣ね。でもシャルの言う通りでもあるわ。彼の奥さんはショウ君を生んだ後すぐに病気でなくなっちゃったでしょ?それ以来ケムさんは男手一つで彼を育ててきた。けどその分自分は子供に弱い部分を見せちゃいけないって思いが強くなっちゃったんだと思うのよね。それで普段は息子に対していつも難しい顔していたり、いたずらをすればきつく叱るようになっていっちゃったの」
「確かに前ショウは『あんな親父じゃなくて母さんが生きていたらいいのにな』ってぼやいてたっけ。何かやっても褒めてくれない、それどころかいつも水を差してきやがるって」
「ふふ、相変わらずなのね。でもね、兄弟二人っきりで酒を飲む時は『あいつは酔うと自分の息子の事しか話さない』ってお父さんが前に話していたわ。『あいつの彫刻のおかげでガキどもの遊び場が増えたんだ。あいつは天才だ』だとか、ショウ君が都に行くって言ったときなんて本人の前では『勝手にしろ、バカ息子』とか突っぱねていたのに自分の兄の前では『今に見ていろ、俺の息子は東ノ国を揺るがすような偉業を成し遂げてみせる』なんてまくし立てていたみたいよ。けど今までずっと厳しく接していたせいで、それを本人に直接伝えることなんて出来なかったんでしょうね。そのせいでショウ君はひねくれてますますいたずらっ子になっていっちゃったのね。もしあなたがいなければショウ君はとうの昔に村から出ていっちゃったと思うわ」
「…でも俺には良く分からないな。ああやって泣くほど心配しているってことはそれだけショウの事を大切に思っているってことでしょ。その気持ちを少しでもショウに伝えてあげれば良いだけだと思うんだけど…」
「父親っていうのは特に息子に対しては素直に気持ちを伝えられないものなのよ。彼みたいな人なら特にね。あなたも父親になればきっと分かるわ」
「そんなもんかな。あ、でも俺は父さんも母さんも好きだよ。父さんは仕事の時は厳しいけど褒めてくれる時はしっかり褒めてくれるし、母さんは父さん以上に俺のことを気にかけてくれるし」
それを聞いたセナは優しく微笑みながらシャルに語り掛ける。
「ふふ、あなたって本当昔から思っている事をすぐに口にだしちゃうわね。その年になっても素直に親の前で親のことが好きって言える子、中々いないわよ」
「そ、そうかな…」
母親にそう指摘されるとシャルは少し自分の発言が恥ずかしくなった。
「さ、寝てって言っておきながら変な話に付き合わせちゃったわね。今日はもう遅いからここでおやすみなさい」
そしてセナは優しくシャルの頭を撫でたあと大部屋の明かりを落とすと、他の村人達と一緒に集会所から出ていった。チムとケムはその後もしばらく残っていたが、チムがケムに何か言うと、二人は静かに集会所を後にした。今夜は昨日と違い月が雲に隠れているようで月明かりが殆ど入ってこない。シャルは暗い大部屋の中で今日起こった様々なことを思い返した。湯場の不調、商隊の襲撃、虹色の泉、そして自分達をそこに落とした群青の軽業師…
(そうだ、俺達は確かにあの泉に落とされたんだ。あんなに蒸気を出している熱水泉なら全身に大火傷を負って当然なのに何故俺達は無傷なんだろう。それに俺達を落とした軽業師は確か俺達を…何て言っていたっけ?けど確か『敵からこの地を守れ』とか『この地に危機が迫っている』とか言っていたのは覚えている。危機、敵、…商隊を襲った奴らがその敵なんだろうか。けどそんな奴らから俺達がこの地を守る?いやいや、都の兵士ですら勝てない相手だぞ、俺なんかに敵う相手じゃない…。でもそしたら何で俺達なんかにあんなことを…?)
色々思案したシャルだったがあまりにも非現実的な出来事ばかりで、明確な答えが見つかるはずもなく、そしてシャルは疲れから次第に深い眠りに落ちていった。
ドンッ!!バキバキバキッ!!
突然の大きな音にシャルは驚き目を覚ました。共に大部屋で寝ていた行商達も同じ音に起こされたようで何事かと目をぱちくりさせている。窓の外は明るい橙色に染まっており、どうやら既に夜が明けたようだ。
(もう朝か、それにしてはまだ随分と眠たいな。それよりも今の音は何だ…?)
そう思ったシャルは寝起きの重い体を引きずり集会所の入り口に近づいて外を見た。そして目の前に広がる光景に頭が真っ白になった。
「襲撃だーッ!!」
誰かが村の入り口のほうで叫ぶのが聞こえる。シャルが朝焼けだと思っていた橙色は村の入り口、村の下方にある家のいくつかが燃やされ、そこから出る炎によって生まれたものだった。シャル達を起こしたのも火災で家屋が倒壊する音だったのだろう。広場に留められていた馬達も驚き、嘶いている。そして襲撃を知らせる声の後、すぐに同じ方向から悲鳴と怒号が聞こえてきた。
「相手は一人だ!怯むんじゃない…ぐわぁ!!」
「でりゃぁ!!…って、おいおいなんだよ嘘だろ…むぐぅ!!」
「こ、こいつ槍が効かない…に、逃げろ!殺されるぞ!」
「や、止めろ、助けてくれ…ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
人の声に混じり、カーンッという金属がぶつかり合うような音とドカッ、バキッといった鈍い殴打音が聞こえてくる。どうやら村の男達が戦っているようだが、かなり形勢不利なようだ。
バーーンッ!!
凄まじい破裂音と共に石造りの家の一つが激しく火を噴いた。どうやら敵はただ家に火をかけるだけでなく、火薬も使っているようだ。既に入り口から集会所前の広場に至る道には火の手が回り、道に沿って建てられた家のほぼすべてを焼いている。そしてその燃え盛る家と火に照らされた道から人々が広場に向けて駆け出して来る。泣き叫ぶ子供、その子供を庇いながら必死に逃げる女、そしてついさっきまで襲撃者を迎撃していたと考えられる、ぼろぼろになった男衆が、皆恐怖に顔を歪めながらこちらに近づいてくる。特に男衆達は皆、ちょうど商隊達と同じような怪我をしており、足を折られ半ば這うようにして歩く者、腕が異常な方向に折れ曲がり恐怖と痛みで涙を流しながら逃げる者等、ひどい有様だった。
「な、何事だ!?」
目の前の凄まじい光景に立ち尽くしていると、シャルの後ろから行商達が外を覗き込んできた。同じようにシャル達の家屋がある村の上方からチムやセナ達がやって来る。集会所の扉の前で茫然と立ち尽くしているシャル達を見つけたチムは真っ先に息子の前に飛び出していった。
「シャル!大丈夫か!?怪我は無いか!?」
チムはごつごつとした手で心配そうにシャルの肩に手をかける。
「だ、大丈夫だよ父さん。さっきの爆音で目が覚めたんだ。怪我は無いよ」
「それは…良かった。しかし一体なにが起こったというんだ!?」
「襲撃です…!恐らく商隊をやった者かと思います…!」
チムのすぐ背後にいた一人の村人が息も絶え絶えに答えた。彼もその襲撃者に攻撃を受けたのだろう、左側の頬が赤く腫れ上がっている。その者に対し、チムが更に質問を投げかける。しかし村人に対して体を向けることはなく、依然としてシャルの肩をがっしりと掴んでいた。
「見張りの者はいたのだろう!?気づかなかったのか!?」
「そ、それが…相手は一人なのです!たった一人で闇の中から攻めこんで来て、ものの数分で皆を死傷させ、村の半分を破壊しているのです!!」
村人がそう言った瞬間、再び大きな爆発音が後方から起き、皆思わずその方向を見た。シャルも釣られて音のする方向を見ようとしたが、それよりも早くチムがシャルを庇うように彼の身体に覆いかぶさった。おかげでシャルはその場で倒れこみ、更にチムの胸板に顔を押し付けられ目の前が真っ暗になってしまった。
シャル以外の者の視線の先には燃え盛る家々と、そしてその炎に照らされた道を進みこちらに近づいてくる人影があった。その人影は口元を布で、目元を身に着けている鼠色の外套の頭巾で完全に顔を隠し、遊牧民が夏場に身に着ける薄手の布服を纏っていた。身に着けている服と外套はきっと村人達の攻撃を受けた際に出来たであろう裂傷がいくつもあったが、傷ついているのは服ばかりで裂かれた箇所の剝き出しの肌には切り傷一つなかった。そして炎によって生じた風で外套をバサバサと揺らしながらしゃなりしゃなりと、まるで獲物を追い詰める猫のような足取りで近づいてくるその姿には細いくびれと膨らんだ胸が見て取れる。相手は明らかに女であったのだ。その姿を見た途端、先程チムに報告を行った村人が悲鳴を上げた。
「ひぃっ!あ、あいつです!あの女です!我々がどれだけ槍で突こうが怯むどころか傷一つ受けず、鎧も何もつけていない素肌で槍の切っ先を叩き割り、拳の一撃で我々を殴り殺します…!に、逃げましょう!我々ではとても敵いません!」
これまでケハノ村を襲撃しようとした賊はいくつもいた。交易上重要な役割を担うこの村を抑えれば山を挟んだ両国に揺さぶりをかけることも容易いからだ。しかし厳しい環境にあるケハノ村は山そのものが自然の砦として機能しており、盗賊程度の者が生半可に近づけるものではない。更に普段からこの山の中で生きている村人は皆腕っぷしが強く、襲撃に備えそれなりの武術の心得がある。しかし今の状況は完全にそれが悪く働いていた。目の前の、たった一人の華奢な女に村の男総出でも敵わないのでは太刀打ち出来る者はいない。更に村から逃げようにも山から怪我人や女子供を連れて降りるのは至難の業だ。皆そのことに気づいているのだろう。村人の悲痛な叫びに賛同する者はおらず、皆その場に立ち尽くしてしまっていた。
そんな彼らをよそに、女はついに広場の入り口までたどり着く。
(こ、殺される…!)
村人達に緊張が走った。が、しかし女はすぐさま襲い掛かろうとはせず、何故か少し視線を落とし村人達に向かって両手の人差し指と親指をそれぞれ合わせまるで焚火に当たるかのように掲げ始めたのだ。
(な、何だ一体…?)
村人たちはその奇妙な動きに更に動揺した。今まで殺戮の限りを尽くしていた者が急に奇妙な仕草をし始めたのだから無理は無い。
「よ、よく分かりませんが今のうちに逃げましょう…!ほら、早く!」
先程まで皆に逃走を促していた村人が、今が好機と見たのか、よろめきながらも広場からゆっくりと離れ始めた。これをきっかけに一人、また一人と後方で佇む女を気にしながらもまだ火の手が回っていない村の上方へ向かい始める。だが村人達が離れていくにもかかわらず、女は依然として視線を落としたまま、両手を掲げ続けている。
(一体何が起こっているんだ…?)
一連の流れが起こっている間もチムに抱きしめられていたシャルは息苦しさも相まって視界の外で何が起こっているのか全く把握出来なかった。しかし
「…シャル、お前も母さんと一緒に逃げろ。ここは父さんが抑える」
頭の上で父親がそう言うのが聞こえると、シャルは静かに父の抱擁から解放された。慌てて立ち上がると、そこには先程よりも強く燃え上がる家々とそれに照らされた、一人の女が両手を掲げながら静かに佇んでいるのが見えた。
(え、襲撃してきたのは女…?)
襲撃者を直接見てそう思った刹那、シャルはあの時泉で軽業師に掴まれた腕と同じような温かい感触が全身に伝わってくるのを感じた。
(何だ急に…。あの時と同じ感覚だ…)
不思議に思ったシャルは自分の身体を見る。すると今回はただ温かい感触があるだけでなく、全身が陽炎のような、ばんやりとしたゆらめきに包まれているのが分かった。まるで自分の身体が一つの炎になったかのようだ。
(こ、これは一体…)
突如身に起こった不可解な現象に困惑していると急に横から腕をガシっと誰かに掴まれた。見ると村人達に混じって様子を見に来たムイじいさんがいつの間にかシャルの目の前に来ており目を見開いて彼を凝視していた。
「ムイさん!?あなたも早く逃げてください!ここは私が何とかします!!」
これまでシャルに注意を向けていたせいでムイがこの場に留まっていたことに気づかなかったのだろう。チムは慌ててムイにこの場を離れるよう促すが、ムイはこれを無視しシャルの腕を握りながらシャルに話しかける。
「お、お主やはり…。な、なぜじゃ、なぜこの村の者が選ばれるのじゃ…。じゃが、そうだとしたら、もしやあの女はお主を…」
「爺さん…お、俺、体が変なんだ…!い、一体なにが起こっているの!?」
しかしムイは恐怖と困惑で声が上ずったシャルの声をも無視し、村人達に向かって叫んだ。
「奴の狙いはシャルとショウじゃ!二人を守れ!!決して奴の手に渡してはならぬ!!!」
その声が炎の上がる音に混じった刹那、女も自分の狙う者がシャルであると断定出来たのだろうか。手を掲げるのを止め、シャル達に向かって全速力で走ってきた。しかし今まで虎を目の前にした時の逃走方法のように恐る恐る後退を続けていた村人は女が走り出したのを見た途端、シャルを守るどころか恐怖に慄きその場にへたり込んだり、悲鳴を上げて全速力で村を駆け上がっていってしまった。
「何をしておる!?お主は逃げるんじゃ!!」
ムイじいさんは逃げることはせず、シャルに逃走を促した。が、シャルも状況が全く整理出来ず、その場でぺたんと両膝をついてしまう。
「お、俺は…え、…え?」
しかしその瞬間、逃げる皆の中から一つの人影が飛び出してきて、シャルの前に立ちはだかった。
「シャル!!逃げろ!!ここは俺達が守る!!」
「せがれたちに手はださせねぇ!!かかってきなくそ野郎!!」
それはケムだった。見ると武器も持っていない。チムとケムは素手で、武装した村人が束になっても敵わない敵に、たった二人で挑もうとしていた。
「父さん!!ケムおじさ…!!」
その様子を見て思わず二人の名前を呼ぼうとしたシャルだったが、その言葉を言い終える前に強い力で肩を掴まれ無理やり立たされた。
「か、母さん…!」
「振りむいちゃダメッ!!逃げるのよ!!」
セナはそう言うとシャルを抱えるようにして二人で村を駆け上り、自分達の家にそのまま転がり込んだ。家に着くとセナは玄関に鍵をかけ、さらに近くにあった戸棚を扉に向けて倒して外から開けられないようにするとシャルに向かって語り始めた。
「いいシャル、あいつはすぐにも私達を追ってくるでしょう。その間私が時間を稼ぐからあなたは裏口から外に出て山を下りなさい。裏の道ならすぐに歩きやすい東ノ国に繋がる行商路に出られるし、何より大きい岩が沢山あるからあいつに追われても上手くやり過ごせるはず…」
「いやだよ母さん…。母さんも一緒に逃げよう…」
シャルは瞳に涙を滲ませながら必死に母に訴えかけた。しかしセナはこれを否定する。
「あなたと一緒には行けないわ。母さんじゃ暗い中で裏の道は進めないから足手まといになるだけ。それに一人でも大丈夫よ、あなたは強い子よ…。そう、大丈夫…」
そう言いつつもセナは次第に涙声になり、ぎゅっと強くシャルを抱きしめた。シャルの耳元で「どうか女神様、シャルを守って…」と呟いている。チムもセナもこんな状況になっても、自分を想い、守ろうとしてくれている。しかしそれが返ってシャルの感情を乱れさせ、離れがたくしてしまう。
「嫌だよ、母さん。嫌だよ…。あいつは俺なんか殺しにきやしないよ…。きっとじいさんがおかしくなったんだ…。そうに決まっている…」
シャルは懇願するようにそう呟いた。しかしその儚い願いは扉から響いたバキッという音に壊された。既に女はチム達を倒し、ここまで追ってきたらしい。本当に女の狙いはシャルのようだ。
「行きなさい!!」
セナの叫びとともに背中を押されたシャルは歯を食いしばって母に背を向け裏口から家を飛び出した。裏の道は行商や旅人が一度に村に訪れてしまい、村に入れられない際に使う臨時の道だが、斜面が緩やかとはいえ、人の手ではどかすことの出来ない大きな岩が沢山あるため、あくまで人を通すためだけの道だ。そんな道を、シャルは死にもの狂いで降りていった。
(何でこんなことに…母さん…!父さん…!死んじゃ嫌だよ…嫌だ…嫌だ…)
シャルの頭の中は残してきた父と母の安否で頭が一杯になっていた。しかしそんな半分錯乱した状態で降りて行ける程、裏の道は安全ではない。無我夢中になる余り、シャルは普段ならまず避けられる岩にけつまずいてしまった。
「え、う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
シャルはそのまま前のめりになって倒れこんでしまう。そしてその先にはシャルの頭にぶつかる形で尖った岩が顔を覗かせていた。こんなものに頭をぶつければただでは済まない!
(ま、まずい…!)
瞬時にそう思った瞬間、シャルは再び全身が熱くなるのを感じたがそれに疑問を覚える間もなく、シャルはその尖った岩に勢いよくぶつかった。
「……ッ!!」
凄まじい激痛が額に走ったシャルは目の前が真っ白になり、そのまま意識を失った。
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