第6話

桃花をベビーカーに乗せ、大吉デパートに来た。このデパートは、商店街のすぐ真横にあり駅から徒歩一分もかからない好立地の建物だ。中に入ると、エスカレーターに乗り四階へと向かった。お目当てのベーカリー専門店へ向かうためだ。ベーカリー専門店には、パン生地の材料はもちろん、様々な具材や器具などが置かれている。とにかく種類が豊富で、日本製の製品の他に外国製品などのマニアックな具材や器具などが購入できる。

 私がなぜデパートを訪れたかといえば、高岡ベーカリーのパンが美味しすぎて真似して作ってみたくなったから。高校生の頃、家庭科の授業でクッキーやお団子を作ったことはあるがパンは一度もなかった。元々手先は器用な方ではないのだが、生地をこねて丸めるだけなら私にもできそうに思えたのだった。

 デパートに来る前に、市内の図書館でパン作りの本を借りてきた。初心者でもできるように写真を用いて解説してくれる。これなら、不器用な私もチャレンジできそうだ。

結婚した当初は、包丁で野菜を切ることもままならず、何度包丁で手の指を切ったことか。ひどい時は左手の指全てに絆創膏が貼られていたこともあった。さすがに主婦歴三年ほどになると指を切ることもなくなったが、家事全般において決して得意とは言えない。

 パン作りは、簡単だ。必要な分量の材料を混ぜて発酵させて焼けばいいだけだ。強力粉とドライイーストは必須のアイテムなので、購入しなければならない。幸運なことに、アパートには実家からもらったオーブンある。このオーブンは機能性がよくて、パンの他にピザやローストビーフなど多種多様な料理ができる。でも今までは、食品を温める機能しか使ったことはない。

「うわぁ、たくさんあるぅ」

 パン専門店の棚には、パンの材料が所狭しと並べられていた。スーパーには決して置いていない商品なので、じっくりと品定めする必要があった。商品を手に取ろうとした瞬間、後ろから不意に声をかけられた。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

 ピンクのブラウスを着た女性店員が、笑みを浮かべながら私の方へと近づいてきた。さっきから同じ棚の商品を凝視し続けていた私に声を掛けずにはいられなかったのだろう。

「あの、どれを選んでいいか迷ってしまって。初心者なんで」

「そうですか。それならいい商品がありますよ」

 女性店員は、棚に手を伸ばすとある商品を手に取った。

「この中には、一回分の材料が入ってるんです。試しにやりたいって人には、お手頃だと思いますよ」

 ビニールの袋の中には、小分けにされた強力粉やドライイーストが入っていた。クロワッサンのような形のパンを作ろうと意気込んでいたのだが、練習も必要かもしれないと思い直した。

「じゃあ、これにします」

「ありがとうございます。でもこれだけですと、物足りないじゃないですか? 例えば、トッピングにレーズンとか入れてみませんか? 少しだけゴージャスに見えたりしますよ。試してみませんか?」

 客引きのマニュアルがあるのだろうか、その通りに店員は追加の商品を勧めてきた。

「あそこにたくさん並んでますから、見てみるだけでもいいですから」

 そう言って向かって左の棚を指差した。そこにはレーズンやジャムやナッツ類、さらにはチップチョコなどが置かれていた。確かに店員が言うように、生地の中に別の食感があったほうが楽しいかもしれない。

「何か、たくさんあって迷うなぁ」

「これなんかいかがですか? アメリカ産のクルミが二十パーセント増量されていてお得ですよ」

 クルミはトッピングの中では最もポピュラーなものだ。私も嫌いではない。

「そう言えば、進ってクルミ好きだったかな」

 進がクルミを食べる姿を、結婚前も後も見たことがなかった。もし嫌いだったらどうしよう。進にも食べて欲しかったけど、もし嫌いだったら私だけで食べればいいか。というより、最初から何も入れなければ進も食べられるのだから、トッピングはまた今度にしようか。などと迷っていると、獲物を逃すまいとするハンターのように、女性店員は商品のアピールを続けた。

「これ、めちゃくちゃ美味しいです。真空パックなんで、新鮮さが違うんですよ。お客様には、ぜひ食べて欲しいです」

 私が持っているクルミの袋を指さしながら、女性店員は満面の笑みを浮かべた。

「えーっと……じゃあ、買います」

 店員の押しに勝てず、買うことに決めた。会計をしていると、再び店員が話しかけてきた。

「お客様は、クルミアレルギーをお持ちではないですか?」

「アレルギーですか? たぶん、ないと思いますけど……あの、クルミってアレルギーがでるんですか?」

 胸を真っ赤にした草間さんの姿が脳裏をよぎった。私自身、アレルギーとは無縁の生活をしてきたので、イマイチピンと来ていない。

「そうなんですよ。つい先日のことなんですが……」

 店員はある女性客の話をしてくれた。その客は、私と同じでパン作りが初心者だったという。今みたいにクルミを勧めたのだが、数日後に電話口でものすごい剣幕で激怒されたという。

「そのお客さんが、クルミアレルギーだったんです。症状がひどくて、呼吸困難で救急車に運ばれて、入院しちゃったんです」

「えっ、入院? アレルギーって、そんなに怖いんだ。知らなかった」

「最悪、亡くなったりするそうですよ。ですから、お子様には食べさせないようにしてください、念のため」

 店員は桃花を見つめながらそう言った。免疫力の低い子供だと、命を脅かす可能性もあるらしい。アレルギーというのは、侮れないようだ。親として、子供の健康に気を配らなければと、改めて気を引き締めた。

「ほとんどの患者は、突然アレルギーに襲われるそうですよ。ほら、花粉症だって突然発症するって言うじゃないですか」

「なるほどね」

 知らず知らずのうちに、自らがアレルギー体質になっているというわけか。今まで普通に食べていた食品が、突然自分に向かって攻撃してくるイメージだ。

「でも、大人より圧倒的に子供の発症が多いそうですよ。特に多いのが卵や牛乳ですね。そのほとんどが大人になると症状が治まるらしいです」

「随分と詳しいんですね」

「実は、今回の件があって、自分なりに調べてみたんです」

 店員は苦笑いを浮かべた。

「ご心配でしたら、やめても構いませんが……」

 店員は気を使って私にそう言ってくれた。でも、桃花には食べさせないように気を付ければ大丈夫だろう。

「いえ、これでお願いします」

 私はクルミの入った袋を、店員に差し出した。


 アパートに帰り着いたのは、午後四時過ぎだった。進は遅番のため、帰宅は深夜になる。タイミングがいいとはこのことだ。今日は夕食は作らずに、冷凍庫にあるチャーハンの残りを温めて食べよう。余った時間で、パン作りに集中できる。しかも幸運は続くもので、桃花はスヤスヤとベットの上で寝てくれている。

 私は手を洗い、台所の棚からボールやはかりなどの器具類を取り出し、テーブルの上に置いた。更に鞄の中から『パン作りセット』を取り出した。これで全ての準備が整った。

「さて、始めるか」

 腕まくりをして気合いを入れると、パン作りの本を手に取った。ボールの中に強力粉やドライイーストなどの材料を入れこね始めた。生地を丸く形作ると、発酵させるために冷蔵庫の中に入れた。

「どんな形にしようかな」

 発酵を待つ間に、パンの形を何にするか決めなければならない。本には円形状や食パンなどの、様々な形の写真が載っている。折角だから、単なる丸い形だけでじゃなくて、別の形も作りたかった。

「これだけあると、迷っちゃうな」

 美味しそうなパンの写真を見ていると、全部のパンを作りたくなってくる。動物の顔を形作っていたりとか、パンに切れ目を入れて模様を描いたりとかチャレンジしたくなった。上級者向けと本には書かれていたのでやめた。簡単そうに見えて、やって見ると難しいのだろう。私としては明日の朝食にこのパンを食したいと思っているので、なるべくなら失敗はしたくなかった。

「やっぱり、これにしよう」

 ここはやはり、初心者でも失敗が少ない丸型に決めた。均等に分割した生地を丸めるだけなので、いくら不器用な私でも作れるだろう。美味しいか不味いかは別にして。

 発酵が終了した生地を取り出し形を作ると、トレーの上にパンを乗せた。それをオーブンの中に入れて、スイッチを押した。

「えっ、もうこんな時間」

 時計を見ると、パンを作り始めてから三時間近く経過していた。テーブルの上は、白い粉がついたふるいやスプーンで散乱していた。

「こんなこと、毎日続けてるなんてすごいな」

 高岡ベーカリーの店主である高岡奈美は、この作業を朝から晩まで続けている。作って分かったが、かなりの体力が必要だった。私が店を訪れた時、彼女は一人で作業していた。生地をこねる動作だけでも腕は相当疲れるだろうし、それにパンを置くプレートもオーブンの中に何度も出し入れしていた。なかでも一番キツそうなのは、厨房の蒸し暑さだ。過酷な環境の中でそれらの作業を一日中、何十回も繰り返すというのは、もはや重労働に匹敵するのではないか。

 その時、オーブンがピッ、ピッ、ピッと鳴った。

「うわぁ、おいしそう」

 扉を開けると、パンの香ばしいにおいが鼻に振ってきた。においは最高だがパンの形は歪なものがあったりと、全てが均等ではなかった。

「うん……まあまあ、かな」

 一口食べてみると、食感もしっかりしているし味も悪くはない。でも、生地にしっとり感はなくパサパサしているので、ジャムをつけて食べないと味が薄い。当たり前だが高岡ベーカリーのパンには、到底及ばなかった。

「まぁ、彼も食べてくれるでしょう」

 私の手作りパンが食卓に出てきたら、進はどんな言葉を発するだろうか。それは想像がつく。不味かったとしても笑いながら誤魔化すにちがいない。彼は本当に優しい男なのだ。

夕食を食べようと、解凍しておいた冷凍チャーハンをレンジで温めた。その間にパソコンの電源を入れた。この数週間、どうもネットニュースを見てしまう癖がついてしまっていた。

「……あっ、あった」

 ひったくり犯が捕まった件は、地元版での小さな記事になっていた。この記事を読んだだけで分かったことは、犯人の名前は村岡という男性だということ。扱いが小さいということは、事件性が確認できなければすぐに釈放されるだろうということだった。

「主任、何してるんだろう」

 高岡ベーカリーに主任と同行してから、何の音沙汰もない。必死に証拠を集めているのだろうか、それとも諦めてしまっているのだろうか。それさえも連絡がなかった。

「都合のいい女みたい」

 正直なところ、主任には幻滅していた。勝手に事件に参加させといて、いらなくなったらすぐに手を切る。警察がやりそうな常套手段だ。元刑事という肩書きがあるが故のジレンマだった。

「ただいま」

 急に耳のそばで大きな声がした。

「うわぁ」

 私は大声をあげると、右耳を押さえて後ろを振り返った。そこには、進が不思議そうな顔で私の方を見つめていた。

「おい、そんなに驚くことないだろ。お前、最近、驚きすぎだぞ」

「だって、こんなに早く帰って来るって思ってなかったから」

 私はパソコンの電源を切りながら、おもむろに立ち上がった。

「早くって、もう十時過ぎだぞ」

「えっ、もうそんな時間」

 パン作りに夢中になっていたら、五時間以上が経過していた。どんなパンを作るか迷っていたら、そんなに時間が経っていたようだ。

「ていうか、今日は深夜になるって言ってなかったっけ?」

「えっ?……いや、そんな話したっけ?」

「うん、確かそう言ってたけど」

 私が聞き間違えたのだろうか。

「それより、お腹空いた。飯は?」

 進はお腹を押さえながらそう言うと、紺色の上着を近くにあった木製の椅子の背にかけた。

「夕飯、用意するね」

 私は台所に行き冷蔵庫の扉を開けると、刺身の切り身が盛られた皿を取り出した。

「何かさ、小麦粉の匂いがしないか?」

 進は、鼻をクンクンと嗅ぎながら周囲を見回した。

「パンよ。焼いてみたの」

「へー、珍しいな。そんなの作ったことなかったじゃないか」

「まぁね……何か、作ってみたくなったの」

 高岡ベーカーリーのパンを真似てみたかったからとは、どうしても言えなかった。そこから主任に繋がってしまいそうで、口には出したくなかった。

「クルミのパンを作ったの。明日の朝食で出すから」

「クルミのパンねぇ……美味しいの?」

 進は痛いところを突いてくる。

「それは食べてからのお楽しみよ……ねぇ、ちょっと、聞いてもいいかな?」

 私は夕食の準備をしながら、進にアレルギーの話をした。すると、あっさりとした返事が返ってきた。

「俺は、ないよ。アレルギーは」

「今まで、一度も?」

「ないね。喘息もなかったし、何かを食べて発作が起きたこともない」

「そう」

 どうやら私の杞憂だったようだ。明日は、自信をもってクルミパンを食卓に出すことが出来る。

「アレルギーかぁ……そう言えば、昔、高校の同級生が、キュウイアレルギーで学校休んだことがあったな」

「キュウイアレルギー? 何それ、食べるキュウイ?」

「そう、緑色の卵の形したやつ」

「へぇ……アレルギーってそんなに種類があるんだ」

 金属にクルミに、今度はキュウイか。皮膚が痒くなったり、入院したり、最悪の場合は死亡してしまうこともある。この数日間で、アレルギーについて勝手に専門家になったような気分になる。

「何? 詳しいの? アレルギーのこと」

「いや、そんなこと、ないわよ」

 何言ってんのよ、と言ってごまかした。ヤバい、ヤバい。気を付けなきゃ。変に勘繰られないようにしないといけない。

「でさ、キュウイアレルギーなんて本当にあるのか? と思ってさ、図書館で調べたんだ」

「どんな症状が出るの?」

「今でも覚えてるのは、そいつの唇が赤く腫れてたんだよ。うわっ! て思ったね、それ見た瞬間」

 たかがアレルギーと侮るなかれと言うことか。私は、急須にお湯を注ぐと、湯呑みにお茶を注いだ。進はお茶で喉を潤すと、口の中を空っぽにしてから話を続けた。

「そう、今思い出した。そいつさ、呼吸困難になって、救急車に運ばれたんだった。救急治療室に入れられて間一髪だったんだってさ」

「へー、そんなに大変だったんだ」

「本人は、自分がキュウイアレルギーだって知らなかったんだってさ」

 症状が出てからすぐに病院に向かったため、大事には至らなかったという。

「ちなみにさ、ご両親は、どうなの?」

「何が?」

「お義父さん、お義母さんは、アレルギーとか持ってないの?」

「いや、持ってないと思う」

 進は、首を振りながら答えた。

「じゃあ、親戚は?」

 再び首を振ると、口の中をモゴモゴさせながら私に質問をし始めた。

「何でそんなに熱心に聞きたがるんだよ」

「桃花のためよ。そういうのって遺伝もあるかもしれないでしょ?」

「桃花のためか……まあ、そうだな」

 進は娘の名前を出すと、急に何も言えなくなる。かわいい娘のためだと言うと、イチコロなのだ。

「じゃあ、今度お袋にさ、詳しく聞いておくよ。親戚にアレルギー持ちがいるかどうか……ふー、ごちそうさま」

 進はそう言うと、空の容器を流しに置き、ゆっくりとした足取りで浴室に直行した。私は、進の食べ終わった容器を手に取って、蛇口をひねった。

「アレルギーねぇ……何か、気になるな」

 今まで身近に感じていなかったアレルギーという言葉が、頭から離れないでいる。でも、いまいちピンときてないのも事実だった。

 進が浴室の扉を閉めた音と同時に、私の携帯が鳴った。主任からだった。

「布谷か」

 主任の声は、私を無視し続けた日々を帳消しにするような、あっけらかんとしたものだった。本当に警察というのは、勝手で自分本位な職業だ。それが妙に空しくもあり腹立たしくも思えたので、嫌みに似た言葉が口からこぼれ落ちた。

「主任、もう連絡ないかと思いましたよ。見捨てられたかと思った」

「すまんな、こっちも忙しくて。連絡できなくてさ。ちょっと、今、いいか? 話があるんだ」

「ちょっと待ってください」

 私は念のため寝室の方へと移動した。進に聞こえないとは分かっていても、勝手に体が密室へと動いてしまう。襖を閉めると、壁際に背中をもたせかけた。そうしないと落ち着かない自分がいた。何故なら、この瞬間だけ主婦を忘れて気持ちだけ刑事になれるからだ。身が引き締まる思いを隠せない。

「もしもし、お待たせしました」

『解剖の結果が出たんだ、鳥居明美の胃の中を調べた』

 やはりそうか。次に主任から連絡が来る時は、何となくその件じゃないかと思っていた。

「死因は何だったんですか?」

『死因はな、心臓発作じゃなかった』 

 やった! と心の中で叫んだ。心臓発作でなかっただけで、鳥居明美の死について疑問が残るはずだ。

「じゃあ、死因は何だったんですか?」

『それが、まだ特定できてないんだ』

 主任は残念そうに言った。

「どうしてですか? 特定できない理由は何なんですか?」

 私の口調は、自然とキツくなっていた。現役時代も、特定できないとか曖昧な答えが返ってくると、ムキになった。事件の行方を左右する場面において、自然と体に力が入ってしまうからだ。主任も何となく昔の私を思い出したように語りだした。

『懐かしいな、お前がそうやってムキになるところ。何だか現役時代に戻った気がするな』

「そんな言い方してました、か? 私」

『俺が『無理だ』って言うようものなら、『何で、無理なんて言うんですか、やってみないと分からないじゃないですか!』って食ってかかってきただろ。覚えてないか?』

「えーっと、まあ、そうでしたっけ?」

 仕事となると、ムキになってしまうのは玉に瑕だ。それは自分でも自覚している。

『まあ、そんなことはどうでもいいか。それより、お前に聞いておきたいことがある。鑑識課の桜井さん、覚えてるだろ?』

「桜井さん……もちろん、覚えてますよ。だって、何度もお世話になりましたから」

 懐かしい名前を聞いて、思わず声が高くなった。桜井さんと言えば、口ひげがトレードマークの強面な人相が特徴的な人だった。

『あいつも、お前のこと、ちゃんと覚えてるぞ。しつこいお嬢さんだったってな』

 そう言われて、現役時代の記憶が蘇ってきた。桜井さんの苦虫を噛みつぶしたような困った表情が、脳裏をかすめる。私が仕事の依頼をしにいくと、いつも必ずといっていいほど眉根を寄せる。無理難題を突き付けられると分かっているからだ。『そんなことをして何になる』とか、『無駄なことはやりたくない』と私の意見をいつもつっぱねた。それに対して反論する私とは、喧嘩口調のやり取りが続き、それを主任に諫められるのがいつものオチだった。逆に言えば、桜井さんとは真剣勝負そのものだったのだ。

『桜井さんが言うには、鳥居明美の胃の中には少量のパンが残っていたらしい』

「パン、ですか……少量の」

 少量のパンが胃で消化されなかったことは、食べてすぐに亡くなったことを意味している。そこで思い浮かぶのは、それが試食のパンではないかということだった。

『おっ、流石に鋭いな。俺も、高岡ベーカリーのパンじゃないかと思ったよ』

「そのパンが、死因に関係しているのでしょうか」

『いや、分からない。今、詳しく調べてもらってるところだ。それと、もう一つ。遺体の首元に何か引っ掻いた痕が残されていた』

 彼女の首元は何かにカブれたかのように、真っ赤に染まっていたという。

「搔きむしった、ですか……確か、彼女、呼吸困難を起こしてましたよね」

『そうだ。倒れた後も苦しそうだったらしい』

「これは私の勝手なイメージなんですけど、呼吸困難って胸が苦しくなるんじゃないですか? 痒くなるって感覚は想像できないんですけど」

 私の問いに、一瞬言葉を失った主任は、うーんと唸ってから話し出した。

『さぁ、俺は医者じゃないからなんとも……まあ、その件は桜井の分析が出たらにしよう。それより、引ったくり犯が捕まったことは知ってるか?』

「はい。確か村岡、でしたっけ」

『そうだ。でも、このままだとヤツはあと数時間後には釈放されそうだ』

「今回の件が故意じゃないと確定しそうなんですね?」

『まぁ、そういうことだ。盗んだ物も金銭じゃないしな。村岡には窃盗の経歴はあるんだが、今回は見逃されるみたいだ』

 つまり、盗んだ品物が安価な品物だったためなのと、窃盗を犯した時期が約四年前のことなので、初犯扱いになるということらしい。

「でも、彼が引ったくりをしたことで、鳥居明美さんは亡くなったんですよ。それは、危害を加えたことにはならないんですか?」

 いくら初犯だとしても、被害者が亡くなっているのだ。軽い罪になるとは思えない。

『遺族が、鳥居明美の夫が異議を申し立てれば話は変わってくるんだが、事を荒立てたくないようでさ』

 鳥居益男は、家政婦と愛人関係にあるという。ほとぼりが冷めれば再婚するのではないかとのことだった。

『だから、こっちも動きようがないんだ』

 主任は、残念そうにつぶやいた。被害者の遺族が告訴をしないということは、ほぼ不起訴が決定的ということになる。決定的な証拠がない限り、法には争えないのだ。

「でも、それで本当にいいんですかね……なんか、スッキリしないですよね」

 私の問いに、主任はすぐさま反応した。

『お前の気持ちも分からなくないさ。俺も、どうにかならないかと思って、村岡と鳥居益男との関係を洗ってみたんだ。共謀罪が適用できればと考えたんだが、二人には接点は見当たらなかった……残念だよ』

「でも、まだ鳥居明美の死因が残ってるじゃないですか。心臓発作ではないことは確かなんですから」

『まぁな……お前も気づいてるんだろ。それが簡単じゃないってことをさ』

 主任の声は、随分と先細りになっていく。そうなのだ。たとえ、死因が特定できたとしても、事件性がなければ元も子もない。

「まぁ、村岡が釈放されるのは確実ですね」

 私の声も、ため息混じりになっていく。

『桜井の尻を叩いて、解析を急いでもらうよ。どちらにしても、現状は厳しいことに変わりないけどな』

 主任はポツリと言った。その言葉に何も言い返せなかった。現状の厳しさを受け止めるしかなかった。

「そうですね……それでは、進展があれば連絡してください」そう言うと、私は電話を切ろうとした。

『ちょっとさ、もう一つ言っておきたいことがあってさ』

「何でしょう?」

『まあ、大したことはないんだが、鳥居益男が不倫をしてると言っただろ? 実は、鳥居明美も不倫をしてたらしい』

「誰とですか?」

『それが不特定多数で、短い付き合いを、繰り返していたようだ』

 プレイボーイならぬ、プレイガールだったようだ。

『とっかえひっかえさ、着せ替え人形みたいに脱ぎ捨てていったようだ。まぁ、お互い様というか、因果応報というか』

「因果応報?」

『鳥居明美は、結婚する前、鳥居病院の看護師をしてたんだ。そこで、二人は出会って結婚したんだが、どうやら略奪婚だったらしい。鳥居益男には、当時妻子がいた』

「えっ、ちょっと待ってください。彼女、看護師だったんですか?」

 鳥居明美が、まさかの看護師だったとは。正直、驚いた。

『心臓に持病があることも、看護師になった理由だったらしい。毎日の食事も、かなり気を使ってたっていうしな。高岡ベーカリーに通ってたのも、有機野菜や小麦を使ったパンだったからだってさ』

「そうだったんですね。高岡ベーカリーは、安価なパンもあるんですけど、素材にこだわったパンも置いてあるんですよ。少々値が張るんですけど、美味しいんです」

『そうか……まぁ、俺の話は以上だ。夜分遅くにすまんな』

「いえ、それでは」

 携帯を耳元から離すと、フーっと息をついた。そして自然と笑みがこぼれた。主任は私をハブにはしなかった。それが嬉しかった。とりあえずは、主任の連絡を待つとしよう。

寝室を出ようと襖を開けた。すると目の前に、タオルを頭に被せた進が現れた。

「やだ! ちょっと、びっくりするじゃないのよ! ここで、何してんのよ」

 思わず大きな声を出していた。だが、それには動じず、進は真顔で私を見つめていた。というより、睨んでいた。

「おい。今さ、誰かと話してただろ。誰と話してたんだよ」

 私の体は、金縛りに遭ったかのように硬く固まっていった。主任との会話を、いつから聞かれていたのだろうか。それを進に問いかけることはできない。余計に怪しまれそうだからだ。かといって、正直に本当のことを話す気にはなれなかった。バレたら主任にも迷惑をかけるし、捜査にも影響を及ぼすかもしれない。今回の件は、内密な捜査だからだ。ここは嘘を突きとおすしかない。でも、どうやって話を切り出そうか、と思案していると、進から思ってもいなかったことを告げられた。

「お前、もしかして……男がいるのか?」

「はっ?」

 思わず吹き出しそうになった。確かに主任は男だ。男性と話をしていたのは間違いないが、まさか不倫を疑われるとは思ってもいなかった。

「や、やだ、何言ってんのよ。そんなことあるわけないでしょ」

「じゃあ、見せてみろよ、携帯」

 そう言って私に向かって右手を差し出した。ここで拒否することは、彼の疑念を加速させるだけだ。とうとう、追い詰められてしまった。まさかこんなに早くその瞬間が訪れるとは。もう言い逃れはできなかった。

 私は、恐る恐る携帯を進に手渡した。進は携帯画面をにらみながら、真面目な顔で指を動かし続けた。それに比例するように、私の心臓は破裂くらいにバクバクと音を立て続けた。

「非通知か……」

 念のため、主任からの電話は非通知にしておいてよかった。

「非通知のヤツと何を話してたんだ?」

「それは……」

 どうしよう。頭は真っ白になり、言葉が続かなかった。何か言わなければ、このまま黙ってしまえば逆に怪しまれてしまうのは分かっていた。分かっているからこそ、辻褄が合わないことを口走ることができない。

「おい、何とか言えよ」

 進の顔つきが硬くなっていく。怒りが頂点に達する前兆だった。優しい進からは想像できない表情で私を問い詰めていく。何かこの場にふさわしい嘘がないだろうか。私は、懸命に頭の中をフル回転させた。

「た、宅配便の人と話してたの。再配達のお願いをしてたのよ」

「宅配便?」

宅 配便が非通知にするはずがない。言ってすぐにそのことに気づいた。進も気づくだろうか? 一気に緊張感が増してきた。

「それにしちゃ、長い話だったよな。宅配便だったら、そんなに時間はかからないだろ」

 もしかしたらこの人は主任との会話を全て聞いたのを隠して、私に鎌を掛けようとしているのだろうか……でも、それでも今は、嘘を付き続けるしかない。

「それは、その……住所が間違ってたみたいで、教えてたのよ。それが、その……、その電話の相手が年配のドライバーでね、何度も聞き返してきて時間がかかったの」

 バカ、と心の中でつぶやいた。どこに荷物を送ってんだ? と逆に突っ込まれるじゃないか……お願い、どうか私の話を信じて欲しい。もう、祈るしかなかった。進、お願い。お願い、どうか信じて……。

 進はふーんとため息交じりに息を吐き出すと、腕を胸の前で組んだ。

「お前最近、ちょっと変じゃないか?」

「へ、変って、何がよ」

 声が震えだし、喉の水分が急激に渇いていった。声も小さくなっていく。

「だって、パソコンで何か調べてるみたいだしさ。俺の知らないところで、コソコソしてるしさ」

「それは……」

 やばい。私は完全に追い詰められていた。更に進を納得させる答えを言わないと、彼はずっとこの場所を離れないだろう。警察官という職業が、白黒をハッキリさせるまで諦めさせないからだ。他に何かしっくりくる理由が欲しい。探せ、何かあるはずだ。

「えっと……じ、実は……」

「何だよ。なんで、しどろもどろになってんだよ。ハッキリ言えよ」

「……来週の水曜日って、進の誕生日でしょ?」

「それが、どうした?」

「ほ、ホントはね、サプライズでプレゼントしたかったんだけど、バレちゃった」

「えっ?……」

 目の前の進の顔つきは、みるみるうちに笑みへと変わっていった。そこには、普段見せる笑顔の進がいた。

「いつも私たちのために頑張ってるから、お礼しなきゃと思って、さ」

「な、何だ、そうだったんだ。それは、その……なんて言うか」

「あーぁ。驚かそうと思って内緒にしてたのにな」

 私はわざと大げさにため息をついた。

「いや、ごめん、ごめんな。俺が悪かったよ。疑って済まなかった」

 そう言うと、進は申し訳なさそうに頭を下げた。そして右手の中指でこめかみをポリポリと搔いた。気恥ずかしい時の進のポーズだ。どうやら、私の話を信じてくれたようだった。

「そんなこと、お前が考えてるなんて思ってなくてさ。本当にごめん」

 進は真面目な顔で私に謝り続けた。彼にそこまで謝られると、こっちが恐縮してしまう。だって、全て嘘なのだから。

「い、いいのよ。こっちもごめんなさい、疑われるような真似して」

「いいんだ……じゃあ、明日早いから先に寝るわ」

 進は笑みを浮かべ私の脇を通り過ぎると、そのまま寝室に入り扉を閉めた。

「はー、よかった」

 とりあえず、信じてくれたみたいた。胸を撫で下ろしたが、心臓のバクバクという音と、足と手の震えが止まらない。主任のことがバレなくて本当によかった。

 私は深呼吸を二回ほどすると、ゆっくりと襖を開けた。そこには、布団に寝ている進と桃花が寝ていた。

「もしかして……」

 進が今日、帰りが遅くなると言ったのは、私の行動を探りたかったからだろうか。私を油断させるために、嘘をついたのだろうか……。

「でも……そんなわけないか」

 進への疑惑を、一息でろうそくを吹くように打ち消した。第一、彼は嘘が嫌いな人間だ。そう断定できるのは、彼と結婚した一番の理由だからだ。たとえ疑惑を向けられたとしても、主任との関係を知られることは避けられれば問題ない。

「さぁ、あと少し、仕事しなきゃ」

 パソコンの検索画面で、「アレルギー」と入力した。アレルギー関連の記事が出てきた。まずは、アレルギーがどんなものかを知らなければならない。

「えーっと……アレルギーとは、アレルゲンと呼ばれる物質によって、免疫機能が過剰に働いてしまうために起こる症状……主な物質は、ダニやハウスダスト、花粉や食物などがある」

 草間さんの金属アレルギー、ベーカリーの店員が言っていたクルミアレルギーと進のキュウイアレルギー……。全てが、アレルゲンによる症状だ。食物アレルギーは、二十種類以上もあるらしい。

「大豆に、牛乳、小麦、鶏卵、そば、甲殻類……症状としては、じんましんや湿疹や嘔吐……か」

 金属は皮膚が赤くなり、クルミは呼吸困難、キュウイは唇が赤く腫れ上がる。アレルギーの症状は、物質や人によっても違ってくるらしい。

「多くは症状が軽く、十代の幼少期に発症する……成人になると大部分の患者は完治するが、そうでない人もいる……重篤になると、アナフィラキシーショックを起こし、死亡することもある、か……ふーん、なるほどね」

 アナフィラキシーショックとは、重度のアレルギー反応のこと。意識の低下や失神などの症状が出たら、早急に処置しなければならない。

「アナフィラキシーショックねぇ」

 初めて聞く言葉だし、アレルギーの種類がこんなにも多いことに正直驚いていた。

「へぇ、ピーナッツもアレルギーがあるんだ」

 ピーナッツアレルギーは、重症な症状が出やすく、少量でも反応が出るという。ピーナッツと聞いて、すぐに立花ベーカリーが思い浮かんだ。あの美味しいピーナッツパンが食べられない人がいるなんて、可哀そうに思えてならない。

 大きなあくびが口を突いて出てきた。睡魔で脳味噌が洗脳されそうだ。

「さあ、寝ようかな」

 私はパソコンの電源を切ると、立ち上がった。

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