愛猫の世話係
第9話
剣の風斬り音が幾度となく部屋に響く。シンシアはイザークから振りかざされる剣の刃をなんとか交わして逃げ惑っていた。
呪いで猫の姿になったせいで扉は自力では開けられず、退路は断たれてしまっている。
できることと言えば調度品の物陰に隠れて攻撃を躱すのみ。その度に高価な陶器の壺が粉々に割れ、高級木材のテーブルや椅子が破壊される。
質素倹約がモットーな教会で暮らしてきたシンシアにとってこの行為は罰当たりの何ものでもない。
(ああ、ベッドの金細工が! ベルベットのソファが!)
紫の瞳を吊り上げるイザークはどこからどう見ても極悪非道だ。その顔面凶器が悪い意味で良い味を出し、血も涙もない雷帝らしく薄ら笑いを浮かべている。
「逃げるな。ちょこまかと動かれては一発で仕留められないじゃないか。苦しい思いをするのはおまえだぞ?」
(あれれ~? 射止めるって言ってたからてっきり弓かと思っていたのに処刑方法は剣に変えたんですか? って、そんなことはどうでもよくって!!)
長剣が頭上を掠め、一部の毛がぱらりと床に落ちる。振り下ろされた剣をどうにか躱したが遂に部屋の隅にまで追い込まれてしまった。
ゆっくりと近寄ってくるイザークはペロリと己の剣を舐めた。シンシアの足は恐怖で竦んでしまい、微動だにしない。
「これで終わりだ――」
そう呟くとイザークはシンシア目掛けて剣を振り下ろした。
嫌だ! 死にたくない。殺さないで――。
『……ひぎゃああっ!!』
シンシアは悲鳴を上げて飛び起きた。
どうやら悪夢を見ていたらしい。部屋は荒らされた様子もなく調度品や家具は連れてこられてきた当時と変わらない状態だ。
この状況も夢ならばさっさと覚めて欲しいし、早く教会へ戻りたい。
今ならヨハルの小言もリアンの説教も嬉しくて落涙しながら真摯に聞くだろう。しかし、教会へ今戻るのは賢明な判断ではない。何故ならイザークが血眼になって探している。
(見つかったら最後。私は柱に括り付けられて弓矢の的にされて死ぬのよ)
イザークの怒りが静まるまでは大人しく彼の愛猫として生活し、ほとぼりが冷めたら隙を見て教会に戻るしか策はない。
(嗚呼、ごめんなさい。討伐部隊の皆さん、そして修道院の皆)
多大なる迷惑を掛けてしまっている彼らに何度も頭の中で懺悔する。
せめて悪いものから身を守れるようにとシンシアがティルナ語で祝福のまじないを口にしていると、ベッドが突然沈み込んだ。
「ユフェ、魘されているようだが大丈夫か?」
声がして後ろを見れば、顔面凶器がそこにある。
「ニャアアアアン!!」
シンシアは悲鳴を上げると慌ててイザークから距離を取る。気づかないうちに尻尾の毛がぶわっと膨らんで逆立っていた。
「大丈夫だユフェ、俺だ。怖くない」
(そんな顔面凶器で見つめられたら怖いに決まってるじゃないの……)
シンシアの心の内など知らないイザークは落ち着かせるために優しい言葉を掛けてくれる。
「新しい環境で不安だろう? 慣れるまではできる限り側にいる」
(いえいえ、そんな気遣い結構ですから。できる限り側に来ないでください。一生来ないでください)
ぶんぶんと首を何度も横に振るとイザークは「痒いのか?」と言って人差し指で優しく顔や耳後ろを撫でてくる。
そうじゃない、と猫パンチをお見舞いしてやろうと思ったが、彼の指先が絶妙に気持ちの良いポイントを押さえてくるので戦意は削がれた。
「すっかり日も暮れているし、腹が減っただろ? ユフェのために食事を作った」
シンシアは目を丸くした。雷帝自らが料理を作るなど前代未聞だ。
抱き上げられてテーブルへ移動するとそこにはできたての料理が置いてあった。
野菜や鶏肉をみじん切りにしてしっかりと炒め、風味付けにハーブが使われている。とても良い香りがして食欲をそそった。
イザークはシンシアを抱いたまま椅子に腰を下ろすと、もう片方の手でスプーンを持ち料理を掬って口元へと運んでくれる。シンシアはギョッとして身じろいだ。
(私、イザーク様に食べさせてもらうなんて絶対無理! こんなシチュエーション、心臓が縮み上がるわ!)
腕の中で暴れたが却って力を込められて尻尾の付け根をぽんぽんと叩かれた。
「大丈夫だ。俺が作ったから毒は入っていない。初めてだから自信はないがユフェのために作った。食べてくれると嬉しい」
目元を優しげに細めてくる。ちょっぴり自信のなさが窺えるその表情は普段の凶悪な顔つきとも、陶酔した顔つきとも違って、どこにでもいるただの青年だった。
あまりの豹変ぶりにシンシアは動揺を隠せない。
吸い込まれるほどに美しく輝く紫色の瞳に至近距離で見つめられ、たちまちシンシアの顔に熱が集中した。
(な、なな何これ。すごく心臓がドキドキしてる。こんなにも動悸が激しいなんて、もしかして私……。私まさか――――病気かな!?)
貧民街上がりで教会育ちのシンシアは一度も重い病気に罹ったことはなく、風邪すらひいたことはなかった。
猫になって初めて病気になるなんて災難だったが、思い当たる節は一つあった。
それは月に一度シンシャとして参加している、ハルストンの広場にて行われる慈善活動だ。
そこでは治癒の魔法は極力使わず、修道士や修道女が院内で栽培した薬草で作った薬を提供している。リアンを筆頭にもともと薬師だった修道士と修道女によって作られた薬は良心的な値段かつ効能が高いので評判がとても良い。
先月、やんごとなき身分の初老のご婦人がやってきて、動悸と息切れが激しくて助けて欲しいと頼まれたことがあった。あのご婦人の症状と自分の症状は少しだけ似ている気がする。
(確かリアンが適度な運動と栄養バランスの取れた食事をするようにアドバイスしていたわね。私もあのご婦人と似たような症状だし、言うとおり実践しないと)
シンシアは意を決して口元に運ばれた料理を一口食べた。
猫用だから味付けはされていない。しかし、宮殿で使用される食材とあってどれも素材が生き生きとして非常に美味しい。
鶏肉は噛めば噛むほど肉汁が溢れ、炒められた野菜も甘みがある。
聖女といえど聖職者同様に慎ましい生活を送っているため、普段食べているものといえばパンとレンズ豆のスープに干し肉だ。ここまで質の良い食材を食べたのは久しぶりかもしれない。
感動して目を輝かせると、イザークはシンシアの様子を見て目を細めた。
「気に入ってくれたみたいで良かった。まだたくさんあるからゆっくりお食べ」
純粋な気持ちを口にする彼はやはりいつもと違ってどこにでもいる青年だった。威厳溢れる皇帝とは対照的な一面に、シンシアは一安心する。
(イザーク様もなんだかんだ血の通った人間てことね。猫にここまで優しくできるなら、人にも優しくしてくれるといいな)
しかし、その安堵は一瞬で消え去ってしまう。
「ユフェの側にいるためにも仕事は速く終わらせないといけないな。側に……。――シンシア」
イザークは眉間に皺を寄せ焦慮を露わにした。
シンシアはどこにいるのだろう。きちんと食事は取れているのだろうか。
怪我はしていないだろうか。ユフェを見ていると何故かシンシアを思い出して消息が気になってしまい、名前が口を衝いて出てしまった。
突然名前を呼ばれた当の本人は心臓が縮み上がる。
(な、なななんでいきなり私の名前を!? もしかして、捜索中の聖女が一向に見つからないから苛ついているの? 一刻も早く処刑したいと!?)
猫には優しくても人間にはとことん容赦がないことを思い知る。
やっぱりイザーク様は怖い!! とシンシアは再認識した。
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