番外編 君が心を開いてくれたなら(もしも企画2023)

第16話

 月岡は若頭補佐として多忙な毎日を送るかたわら、休日はできるだけ珈涼を連れ出して二人だけの時間を作っていた。

 海の見えるレストランでのランチ、手をつないで古い町並みの散策、二人で日常から少し足を伸ばして小旅行に出かける。

 ある夜、月岡が珈涼をドレスアップして手を引きながらホテルのラウンジに入ったとき、珈涼が言いよどむ気配がした。

「どうされました?」

 珈涼が見上げた先には、長身痩躯をブラックスーツで包み、少し低めた甘い声で珈涼に問いかける月岡がいる。

 珈涼は一瞬彼にみとれた自分に気づいて、慌てて下を見ながら答えた。

「月岡さんは大人で……隣に立ってるのが私で、いいんでしょうか」

 月岡は苦笑して珈涼の目をのぞきこむ。

「珈涼さんは私の姫君です。私は姫君が当然訪れるところに、珈涼さんをお連れしているだけですよ」

「でも……私は普通の大学生で、もしかしたら、月岡さんと出会うこともなかったかもしれないんです」

 月岡は珈涼の言葉に目をまたたかせて、ふと思案顔になった。

「なるほど。もしも、そうですね。違う形で珈涼さんに出会っていたら、どうだったでしょうか」

 月岡は珈涼を席までエスコートすると、テーブルの向かい側について夜景に目を細める。

「たとえば私と珈涼さんの立場が逆だったら……」

 月岡はもしもの世界を、オードブル前のひとときの余興で話し始めた。




 月岡が龍守組の愛人の子で、珈涼が正妻の息子、真也に仕えてきた少女だったとしよう。

 月岡は日中は仕事をしていて、大人しく部屋にこもりがちの珈涼とすぐに顔を合わせることはなかっただろう。

 けれど初夏の香りの漂い始めた宵の頃、ほんのわずかな時間、真也の部屋から出てきた珈涼と、月岡は離れからの廊下ですれ違う。

 昼と夜の狭間のとき、昔の女中のような質素な着物に身を包んだ珈涼は、きっとざわつくような色をまとって月岡を惑わせただろう。

 珈涼は恐れた様子で、頭を下げて月岡の横を通り過ぎようとする。

 でも月岡は珈涼をそのまま見送ることなどできない。月岡は彼女の柔い面差しにも、甘いような髪の匂いにも、ひとめで焦がれてしまう。

 月岡は獲物をみつけたような高揚感と、彼女が出てきた部屋が自分の兄の部屋だったことへの嫉妬に挟まれて、押し殺した声でたずねる。

「袖が濡れているよ。何かあったの?」

 珈涼は声をかけられたことに少し怯えて、目を伏せながら言い訳のように言う。

「お茶をこぼしてしまって……」

「真也さんに怒られてしまった?」

「……いえ、まさか。そんな」

 珈涼は首を横に振って否定するが、彼女の赤くなった目が、月岡の想像したとおりなのだとわかった。

 月岡は思案して、そっと言葉を切り出す。

「この家は、君にとって居心地のいいところかな」

 珈涼は初対面の男に本音をこぼす少女ではない。でもとても素直な心を持っていて、たぶん沈黙の一つで月岡にはその隠した心が伝わっただろう。

「……そう。では一週間待っておいで」

 月岡はそう言って、その濡れた頬に手を伸ばす。

 月岡の手が珈涼の涙を拭ったとき、珈涼は震えた。でもその柔らかさを知った月岡を振り捨てて逃げなかったことが、珈涼のその後の運命を決める。

「私が君の望みを果たしたら、心を開いてほしいな」

 すぐにその身を腕の中に閉じ込めてしまいたいと思いながら、月岡は計画を練り始める。

 月岡の心は逸り、日に日に珈涼のことが心を占めるようになる。

 彼女の好きなもの嫌いなもの、欲しがるもの遠ざけるもの、それらを調べあげて、城を築くように彼女に居場所を与える。

 一週間の後、支度を整えて、彼女のためにあつらえたマンションの一室に珈涼を招く。

「欲しいものや足りないものがあったら、何でも言ってごらん」

 珈涼が驚く一方で喜んでくれたことは、月岡にとって何よりの報酬だ。

 一緒に取る初めての食事、月岡がその先を心待ちにしてざわついていたことは、珈涼に伝わっただろうか。

 コーヒーを飲み、彼女と二人きりなのだと実感したとき、月岡の心は止めることができなくなる。

「……珈涼さん」

 逃れようとした彼女の手を引いて、唇を合わせる。そのまま抱き上げて、寝室の方へと歩み始める。

 大人しい彼女には、少しずつ親しくなる方がいいとわかっている。たとえば一緒の食事を重ねて、何度もデートをして、手をつないで、それから……そういう積み重ねで彼女は自分を恐れなくなるだろう。

 けれどそれらを月岡は待てない。今すぐ彼女に触れて、一つになるのを待ち望んできたのだから。

「大切にするよ。……だから私のものになりなさい」

 ベッドに珈涼を下ろしてその上に覆いかぶさりながら、月岡は命じた。




 真っ赤になって恥ずかしがっている珈涼に、もしもの世界を語り終えた月岡はほほえむ。

「……実際あったことと、大して変わりありませんね」

 月岡が呼び鈴を鳴らすと、食前酒を下げにウェイターが入ってきた。

 代わりにオードブルを並べてウェイターが去った後、月岡はいたずらっぽく告げる。

「今日このラウンジは貸し切りです。呼ぶまで誰も入ってきませんよ」

「で、でも……」

 珈涼はまだそわそわしながら言う。

「そのもしもの出会いの方が、月岡さんが怖い気がします」

 月岡はうなずき返して笑った。

「お気づきですか。そうです。立場が上だったら、私は今より強引に珈涼さんを手に入れてしまったでしょう」

 月岡は少し目を伏せて声を落とす。

「そのせいで、珈涼さんが心を閉ざしてしまったかもしれない。実際に……珈涼さんが心を開いてくれるまで待っていたならと思うこともあるんです」

「月岡さん……」

 一瞬の月岡の沈黙は、彼の後悔の気持ちに見えた。

 口をつぐんだ月岡に、珈涼は勇気を出して言う。

「……私はどんなもしもより、彰大さんと辿ってきた時が好きです」

 月岡は顔を上げて珈涼を見る。珈涼はほほえんでうなずいた。

「ちょっと時期が早くなったり、遅くなっても、いいです。私は彰大さんと一緒の時間を辿っていけたら、それで」

 月岡は笑って、ふいにテーブルの上で珈涼の手を取る。

「あ……」

 珈涼が声を上げる前に、月岡はさっと立ち上がって珈涼の唇にキスを落とす。

「……私もですよ、珈涼さん」

 夏の宵はまだこれから、二人の時も続いていく。

 月岡は珈涼の頬をなでながらささやいて、またその唇に優しく触れた。

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