第一章 303号室 夕羽 ~帰る場所がない女性の話~7②

 ヴィレッジ岩屋に帰らなくなって、二週間以上過ぎた。十一月も下旬になるとずいぶん冬を感じる日が増えてきた。トレンチコートにライナーを付けて何とか過ごしているが、もうすぐ寒さが厳しくなるのだろう。

 夕羽は帰らなくなってから不在時の郵便物が気になり、数日に一回はポストを覗くようにしようと考えた。お守りを手に入れて落ち着いたこともあり、近くでクライアントに訪問した後、帰社の前の時間を使って明るいうちにマンションに行ってみることにした。


 マンションへの道を歩いていると、前方に警官が数人立っているのが見えた。どう見ても夕羽の住むのマンションの前だ。

(え、何かあったの……?)

 急いで歩いて行くと、ニュースなどで見る黄色いテープまで貼られていた。近くに立つ警官の一人に、恐る恐る声を掛ける。

「あの、ここの住人なんですけど、何かあったんですか?」

「昨日の事件をご存じないんですか?」

 制服姿の警官が怪訝な顔をする。

「仕事でしばらく帰宅してなくて……。郵便物を取りに寄ったんですが。三〇三号室の安西と言います」

「三〇三号室。じゃあ同じ階の女性はご存じですか?」

「あ、卯月さんですか? 引っ越してきた時に挨拶をして、出勤時などに少し話したくらいですけれど」

 少し前に会った卯月を思い出しながら話す。それを聞いた警官は、夕羽を少し離れた場所にいるスーツ姿の男性のところに案内した。


「あなたが三〇三号室の安西さん? 私は中野警察署刑事課のたきと言います。ちょっとお話させていただけますか」

 滝と名乗った刑事は二十代後半くらいに見えた。簡単に警察手帳を提示してきたので、乞われて夕羽も免許証を見せる。おもむろに滝が口を開いた。

「実は昨夜、卯月さんが自宅で襲われて暴行を受けてしまいました」

「え? このマンションで⁉」

 予想もしなかった言葉に、夕羽は上ずった声を上げる。夕羽が青ざめたのを見て、滝は落ち着かせるようにゆっくり話した。

「ご安心ください。犯人はすでに捕まっています。近隣からの通報で警察がその場で確保しました。卯月さんも、怪我はしましたが無事です。今病院で治療のため入院していますので。――少しお伺いしたいのは、これまで、マンション内で何か騒ぎのようなことはありませんでしたか?」

「そうですか……卯月さんが無事でよかった」


 すでに犯人が捕まった、卯月も無事という言葉にホッとする。そう思った夕羽は、続いた言葉に首を傾げた。

「騒ぎって……誰かが大声を出したとかですか?」

「そうですね、煩い音が聞こえたとか、張り紙がされたとか、何でもいいのですが」

 マンションの中で(自分に起こったこと以外で)気にしたことなどなかった夕羽は、正直に言うことにする。仕事が忙しくそれほど自分の部屋で過ごすことがなかったし、ここ二週間くらい帰っていないこと、他の住人に会ったこともなく、在宅時も特に気になったことはないと伝えた。

「そうですか……。その他に、何か気になることはないですか? 何でもいいのですが」

 手帳にメモを書き込みながら滝が訊いてきた言葉に、夕羽はどこまで話すか迷う。今回の事件とは関係ないにしろ、警察なら、このマンションで、例えば他に事件が起こって事故物件だったとか、何か知っていることはないだろうか?


「……あの、このマンションって、以前に何か事件が起こって事故物件になったりしてませんか?」

 そう言われた滝は、怪訝そうな顔になる。

「事件ですか? 何か気になることでも?」

「いえ、あの。そういうことではないのですが……。内見で部屋を見た時にお線香のようなお香のような匂いを感じたことがあって、だからもしかしてそういう話があるのかと思って心配になって」

 しどろもどろになる夕羽に、黙って観察する視線を向けていた滝は、

「いえ、そう言った話は少なくとも自分がいる数年は聞いたことがないですね。部屋で線香のような匂いを感じたと?」

 そう質問してきた。夕羽は頷きながら、「そういう話はない」という言葉を頭の隅に置いておく。――では、あの影はなんなのだろう?

「そうですか。匂い。――参考になりました。ありがとうございました」

 滝はそう言うと、夕羽をマンションの集積ポストへと誘導してくれた。

 これから会社に戻るという夕羽に名刺を差し出した。

「何か気になったことがあれば、いつでもご連絡ください」

「はい。ありがとうございます」


 郵便物を回収した夕羽は、現場検証中の警官たちをあとに、ひとまず会社に戻ることにした。

 同じ階の卯月が事件に遭った。これはどういうことなんだろう? ――そう考えながら駅への道を行こうとして、ふと振り返る。ここからだと、マンション前にいる警官が見えた。

 その道に、白っぽい服を着た少女が立っている。

 明らかに目立つところにいる子供に、周囲の警官は誰も注意を払わないのを不審に思っていると、

 夕羽も不思議に思って少女を見る。手足が出ていて、よく見ると白い着物を着ているようだった。

 少女は手を伸ばして「ヴィレッジ岩屋」を指さした。

(……?)

 意味がわからず、眉をひそめて見ていると、少女は遠目にわかるくらいに大きく口を開いて笑った。

 夕羽が驚き凝視すると、唐突に少女は消えた。

 ぞわっと全身に鳥肌が立つのがわかった。

 夕羽は後ずさり、慌ててその場から逃げる。駅に小走りに向かいながら、少女はこの寒空の下、裸足だったことを思い出していた。

(人間じゃない)

 あんなにはっきり見えていたのに。昼間だったのに。

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