上杉君に気をつけて

小鳩 春猫 (こばと はるね)

第1話 プリン

 スポーツバッグに雨除けのビニールカバーをかぶせて足元の水溜りを気にしながら、大きな透明の傘越しに前を見るようにしてポクポクと家に向かう。駅から家まではそんなに遠くないけれど、晴れている日は普通なのに雨降りの日はもの凄く遠回りをしているかのように感じてしまう。僕が通う学校は中高一貫校で、いわゆる小学六年生の時からお受験をして入る私立の学校だ。本の虫ではあったものの両親はそんなに教育熱心という訳でもなかったが、小学校で他の子どもたちとあまり馴染めなかった……というよりイジメの標的になってしまっていたことから



「近所の公立中学校に行くよりは環境を変えた方が良いのではないか」



 両親の意向を受けてここ、私立白鳥南中学校に通っている。父は貿易の仕事でよく海外に行っているのでほとんど家にはおらず、家族でキャンプや旅行に出かけた記憶も今のところない。仲が悪いというわけではなく、たまに父が帰って来ても



「お父さんが仕事でほとんど返ってこられない分、竜星がお母さんを守ってやってくれ」



 そして家に居る母も



「あなたが自分で考えて、優しく正しいと思った道を選択しなさい」



 などと言ってくれる、わりと人間味のある温かい環境で生活している。


 私立の中学校というのは公立のそれと比べるといろいろな事情を抱えた子どもが集まるもので、子役としてテレビに出ている子もいれば、スポーツで将来を期待されている子もいる。どちらにも共通する点は出席日数が一般の子に比べて少ないということか、あとは全体的にお金持ちの家庭が多い様な気がする。私立の学校だけに地元の公立中学校のような集団登校とか集団下校といったものは無く、親に車で送り迎えしてもらっている人が多かったのでそう感じたのだと思う。自分は定期券を持たせてもらい、これといって仲の良い友達もできないまま電車で学校に通っていた。


 中学一年のある雨の日、いつものように電車に乗って近所の駅まで揺られている中、座席の下にかわいらしいキャラクターの袋に入った棒状の物が落ちているのを見つけた。手を突っ込んで拾い上げてみると、学校の音楽の授業でおなじみのアルトリコーダーだった。学校で一括購入して配られた時にはレザーのような革のような専用のケースに入っていたが、それぞれ自分の好きな柄の袋に入れてスポーツバッグの取手部分にぶら下げるスタイルが流行っており、僕は鉄道がプリントされた袋に入れてぶら下げていた。雨の日だったこともあってせっかくのかわいいキャラクター袋は汚れていて、油性ペンで書かれている名前を見ると『白鶴中学校一年三組・神谷美鈴』とあり、同じクラスの世間一般でかわいいと分類される女子生徒のものであることがわかった。紐の結び目が解けている様子から、バッグの取手部分から外れてしまったことに気付かなかったのだろう。同じ学校の同じクラスということがわかったので、母さんに袋とリコーダーを手洗いしてもらい丁寧にアイロンまで掛けてもらって、バッグにしまった。


翌日登校して自分の席にバッグを置いてリコーダーを取り出し、一度も話をした事の無い彼女に



「あのこれ、昨日電車の座席の下に落ちているのを見つけたから……」



 モジモジ緊張しながら手渡した。




【神谷さんは前日持って帰るのを忘れ、彼女に好意を持つ変態的な何者かが間接的接触を試みて盗まれたに違いない】




 こんな女子生徒の集団憶測が飛び交っているなんて考えもせず、無防備に手渡されたリコーダーを気持ち悪そうに彼女は受け取った。



「昨日雨で床が濡れていて袋が汚れていたから、母さんが洗ってくれたんだ」



 口角をあげ、必死の笑顔で絞り出した精一杯。これに対し返ってきた女子達の言葉は



「ウソよ! 美鈴ちゃんは『学校に忘れて帰ったのに机の中に無い』って困ってたのよ?アンタ、美鈴ちゃんと間接キスしたくてこっそり持って帰ったんじゃないの?一緒にリコーダーも洗っちゃえばわからないものね、キモッ! 」



 だった。こんな反応が返って来るなんて予想だにしていなかった僕はひどく狼狽し



「いや、電車で……あの、母さんが手洗いで……」



 などとうまく喋れなくなってしまった。もともと男子はおろか、女子とお話しする機会なんて無かったし、いきなりこんな人数に凄い剣幕で捲し立てられたらどうしていいのかわからなり、パニックになっていたのだ。


 クラスの人気者である神谷さんはこれを聞いてショックのあまり机に突っ伏して泣いているし、小学校の頃からイジメられっ子で口下手だったので雰囲気に押されて黙ったまま下を向いてしまった。



「ほら、何も言い返せないってことは事実じゃない。気持ち悪いわね変態! 女子のリコーダーをこっそり持って帰って間接キスなんて、想像しただけで寒気がするわ。本当に男子って気持ち悪い、もうあっち行きなさいよ! 」



 当時の僕はただ言われるがままに言われて、自分の机に座り伏して泣くのが精いっぱいだった。中学一年生なんて制服に着られている状態の小学生みたいなものだ、中身はまだ小学生のままである。



「見て、自分がやったことを責められて泣いてるわ。気持ち悪い! 泣きたいのはこっちよ」



「美鈴ちゃんかわいそうに、先生に言って新品のリコーダー余ってないか聞いてきてあげる」



 そんな声が聞こえる中、何も悪いことをしていないのに恥ずかしくて悔しくて、泣くしかできなかった。女子から先生へ、先生から母へと連絡が入り、後日母と二人で職員室に呼び出されたのだが、救ってくれたのは彼女が毅然とした態度で



「そんなことをする子ではありません。神谷さんが前日に学校に忘れて帰ったという実証はどこにあるのですか? 電車の中でこの子がリコーダーを拾ったところを目撃した人がいるかもしれませんので調査をするなら徹底的にやりましょう。それに袋の結び目は今回の様に緩んで落としてしまわないように私が『あやつなぎ』で結んであります、ご確認頂ければわかると思いますが? 」



 キッパリ学校側に言ってくれたのと、



「竜星、あなたは何も間違ったことをしていないわ。これからもあなたが優しく正しいと思う方向を選びなさい、必ずお日様は見てくれているからね」



 そんな温かい言葉だった。その後に先生がクラスで行った聞き取り調査でも



「美鈴ちゃん『こんな雨だとバッグもリコーダーも濡れちゃうね』って言ってました」



「ボクは神谷さんが他の女子達と『明日音楽の授業で使うから持って帰って練習するんだ』ってバッグにつけてたのを見ました」



 などの証言が集まり、当の本人からも『バッグにつけた』と証拠は揃ったので、無実は証明された。しかし子どもというのは真実はさておき、面白おかしいものだけが群集心理で独り歩きしてしまうもので、いつの間にか学校で


『竜星はキモイ→キモセイ』


 こう呼ばれるようになってしまった。それからのイジメは小学校の時とは比較にならないほどエスカレートしていった。朝学校に行くと黒板に悪口が書かれ、机や椅子には油性ペンで落書きされ、授業中に輪ゴムで狙われたりトイレに行っている間に筆箱の中の鉛筆の芯を全部折られたりと、そういう場面に出くわす度に机に伏して泣いた。それでも母の言った『自分が優しく正しいと思う方向を選びなさい』をひたすら守った。



「キモセイ、やっとけよー! 」



 放課後の掃除をせずに男子が誰も居なくなっても自分が正しいと思ったから一人でも掃除を続けたし、隣の席の女子が数学の授業に間違えて家庭科の教科書を持ってきた時には、優しい方向だと思ったから教科書を黙って貸した。自分には毎日予習しているノートがあるから、授業中に先生からあてられても教科書が手元にないくらいでは全く困らなかったのだ。これで改善されればメデタシメデタシなのだが、イジメはそれからもずっと行われ、僕の心は段々と空っぽになっていった。二年生に進級するもクラス替えは行われずにイジメられ続けたある日、とうとう何も考えられなくなりフラフラとした足取りで電車を降りて改札を出ず、しばらくホームに置かれているイスに座っていた。



(もう限界だ、消えてしまいたい……)



 頭に浮かぶのはこればかり。三本目の電車を見送って四本目の電車が入ってこようとするアナウンスが流れたのと同時に、朦朧とした意識でホームのフチに向かってフラフラと歩き出したその時。温かく柔らかい手が左手を包み、同時に前に進もうとする勢いも止められた。



「どこ行くつもり? 」



 数秒だったと思う。電車がホームに到着して多くの人が電車から降り改札に向かう流れに乗って、腰辺りまである長くきれいな髪にメガネをかけた知らない女の子は手を放して改札の渦に消えていった。



(あの子、誰なんだろう)



 温かかった感触の残る左手をニギニギしながら家に帰り、いつものように予習をして布団に入るもなかなか寝つけずに、モヤモヤしながら結局眠れず布団をたたんで歯を磨いて学校へ向かう。教室に入った瞬間に湿った生臭い雑巾を投げつけられるも、僕はそれをいつものように手洗い場できれいに洗って何事も無かったかのように着席する。


 程なく先生が教室に入って来て、一時間目が始まる前のホームルームで転入生の紹介があった。



「みなさん、転入生の姫嶋柚子葉さんです。今日から皆さんのお友達になりますのでよろしくお願いします。じゃあ姫嶋さん、みんなに挨拶を」



「姫嶋柚子葉です、よろしくお願いします」




(昨日ホームで手を握ってくれた子だ! )




 お世辞にも明るい感じの女の子とはいえない、メガネを掛けた長い髪を見て昨日の不思議な体験を思い出した。彼女の席は廊下側のスリガラスに一番近いところになり、他の女子達とあまり馴染めないのか、いつも一人で本を読んでいる。昼食のときもほかの生徒が仲の良い子同士机をくっつけてワイワイ食べているのに対し、彼女は僕と同じように一人でボソボソと食べていた。すぐにでも話しかけに行きたい気持ちはあったのだけれど、クラスのみんなに茶化されるのが怖くてなかなか行けなかった。彼女が転校してきて一か月ほど経ったある日、一時間目が終わった瞬間に勇気を振り絞って彼女のもとへ向かった。



「あ、あの時はありがとう」



 彼女の机に掛け寄り精一杯の勇気を振り絞って発した言葉に対し、本から全く目を逸らすことなく静かに返事は放たれた。



「なにが? 」



「なにがって、君は僕を助けてくれたじゃないか」



「私は見たままを口にしただけ、決めたのはあなた。それだけ」



 まるで文章を棒読みしているかのような言葉を聞き、形容しがたい不思議な気持ちで自分の席に戻ろうとしたその時。登校時に投げつけられて洗って干しておいた雑巾が再び飛んできて、あろうことか彼女の頬に当たった。何故かわからないけれど生まれて初めて見境が無くなるほどの怒りに震え、投げられた方向に突進しようとするとまた左手を優しく握られる。



「私がやられたんだから、私がやり返す」



 静かにメガネを机の上に置いた後に長い髪を後ろに持ち上げて一つに束ね、手首にはめてあった茶色のゴムでとめた。そしてこちらを指さして笑っているゲスな男子たちに近づくと



「雑巾は投げるものじゃないし、あなたが触っていいものじゃない」



 自分よりも背の大きな男子に静かに言い放った。



「なんだ? おめー、キモセイとラブラブかよ! 」



 制服の袖を掴んできた男子の腕が彼女に触れた瞬間、乱暴者は空中にきれいな放物線を描いて仰向けに叩きつけられた。正直何が起こったのかよくわからなかったし、何がどうなっているのかもわからなかったというのが素直な感想だ。何事も無かったかのように静かに席に戻ってきた彼女はゴムを解いて髪を降ろし、そっとメガネを掛けて栞の部分から本を読み始める。一瞬の出来事だった。ザワザワしていたクラスの中がまるで凍り付いたかのように静まりかえり、みんなの目線はやっつけた彼女ではなく床に叩きつけられた男子に集中していた。


 二時間目のチャイムが鳴り先生が教室に入って来て



「そこの男子、なにをふざけとるか! 廊下に立ってろ」



 叩きつけられた乱暴者を教室の外に引きずり出してピシャリと扉を閉め、授業は開始された。先生が黒板の方を向いている間に廊下との境にあるすりガラスに目をやると、投げられた男子が立たされているのが視認できるのと同時に、スカートをフワリとさせて一瞬で投げ飛ばした彼女の横顔が見える。こちらの視線に気が付いたのかふと目が合うも、何事も無かったかのように彼女は前を向いてしまった。



(そういえば以前も今日も助けてもらいながら、彼女のことを何も知らないな。昼食の時にちゃんとお礼を言いに行こう)



 なんて彼女を見つめたままぼんやり考えていると、おでこに超的確にストライクで先生から白色のチョークが飛んできた。



「上杉! そんなに授業が退屈ならオマエも廊下に立っとけ」



 クスクスと笑い声の聞こえる中、彼女の視線を気にしながら廊下へ向かい、この時は目を合わせてくれることなく教室の引き戸を静かに閉める。廊下に出ると先程の暴れん坊男子からコツンと足を蹴られ睨まれたので、極力先生のいる入口に近い場所に移動して静かに立っていた。


 『廊下に立たされの刑』はこの一時間で終わり三時間目、四時間目と過ぎて昼食の時間。見渡すといつも通り、彼女は一人静かに誰とも会話することなく座っている。



「一緒に食べてもいい?」



 僕は彼女の前に自分のお弁当箱を持って行き、顔を覗き込んだ。一瞬でお弁当を食べ終わったのだろうか。プリンを開けて一口目を口に運ぼうとしていた矢先に話しかけられ、少し恥ずかしそうに俯きながら



「ええ」



 彼女は答えた。下を向いたままスプーンを口に運んでいる彼女に



「さっきの凄かった! 何が起こったのかわからなかったもの。スカートがフワッってなったと思ったら、アイツがブワンってなってバッターンって。すっごく格好良かったよ! 」



「……た?」



「え?」



「見えた?」



「え、なにが?」



「そう。いいの」



 少し安心したようにメガネを直しながらスプーンを口に運ぶ。



「姫嶋さんご飯食べるの早いねー。頑張って見習わなきゃ」



 見たままの光景を口にしたところ



「今日は炊飯器のボタン押し忘れちゃって。だから……」



「だったら、僕のお弁当半分あげるよ! まだ手を着けていないから先に食べてくれていい、一人で食べるより二人で食べた方が美味しいじゃん」



 驚いた表情でパチクリしていた彼女は、スリガラスの方に顔を向けて手を口に当てクスクスと笑った。



「ありがとう、上杉くんあの頃から何も変わってないんだね。誰にでもみんなに優しくて、それでいて自分には人一倍厳しくて。そんな風だからこの間みたいに疲れちゃったりするんだよ」



 この子は自分を知っている? 彼女の口から確かに『あの頃』という言葉が出たのを聞き逃さなかった。でも僕は彼女を知らない、というより覚えていない。



「覚えてなさそうだね、小学校の給食の時に私の代わりにお友達と喧嘩してくれたの、思い出せない? 」



「ごめん……覚えてない」



 この辺りから今までのどこか冷たく感じていた彼女の話し方や物腰は雰囲気を変え、優しく温かい感じになって話し始めた。



「ほら。乱暴者の男の子が給食の時に私のプリン持っていっちゃって泣いてたら、上杉くんも泣きながらその子の腕に噛みついて先生に怒られたじゃない。でもその時、暴れん坊に向かって行く前に、自分のプリンをそっと私に渡してくれたの。ずっとお礼を言いたかったんだけれど近所の中学校に進学したら君、いなくって。母上に探してもらったら、この学校にいることがわかったの。『どうしても転校したい! 』って言ったら父上から『条件をクリアできたら転校させてやる』って言われて、やっと転校させてもらえたんだけど、一年も掛かっちゃった」


 プリンの件で小学校の時に大暴れしたのは覚えている。相手の名前は覚えてないけど、女の子からプリンを奪って泣かせたことが許せなくて腕におもいっきり噛みついて大問題になり、その子の家まで母さんと謝りに行った。そしてそこから『アイツは噛みつくやつだ』と周囲からノケモノにされたっけ。それを覚えてくれていただけでも嬉しいし、わざわざ僕を追いかけて転校してくれるなんて感動だ。それにしても両親を『父上母上』と呼ぶなんて、彼女はいったいどんな環境で育っているのだろう?



「父上って……かなり厳しいお家なんだね。どんな条件をクリアしたの? 」



「父上の姫嶋剛毅は柔道の先生でね、私の家は道場なの。上杉くんがいるこの中学校がわかって『転校させてください』って言ったら『大人を投げて一本取れたら許す』って言われて。母上と上杉家のお母様は香月流っていう華道仲間で直ぐに学校はわかったんだけど、大人を投げるのにはかなり苦労したわ。何気に私たち、幼馴染なんだよ」


 明るい表情でプリンを食べながら、嬉しそうに話してくれている。母さんがお花を持って帰って来るのは見たことがあるけれど、幼馴染がいたのなんて知らなかった。


何より、こんな小さな体で大人を投げちゃうなんて。



(そうか! さっきクラスの男子が宙に舞ったのは彼女に投げられたからなんだ)



 ようやく糸がつながった。



「私もこの学校に来てからお友達いなくて寂しかったから、よかったらこれから仲良くしてくれたら嬉しいな」



 サラサラの髪を耳に掛けながらニッコリと微笑んだ彼女はとても可愛らしかった。



「こちらこそ、いじめられっ子でお友達いないから凄く嬉しいよ。よかったらウィンナーや卵焼きも食べて! 」



 そう言って弁当箱を差し出すと



「これからは柚子葉って呼んでね」



優しく微笑んだ。

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