わたしの思い出



「わあ。花、本当に上手」


 ピアノを一曲引き終えたタイミングで、お母さんがわたしの部屋に入ってきた。


「この曲、お母さんも大好き。たしか、すごく難しい曲名の……」


「『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』」


 昔、響くんが誕生日にプレゼントしてくれた楽譜、ドビュッシーの『子供の領分』の一曲目。


「そうそう、何とか博士。その楽譜の表紙も可愛いよね。たしか、初版の復刻版とか言ってたね。響くんらしい」


「そうだったんだ?」


 改めて、楽譜の装丁を見返してみる。きっと、そのとき、わたしにも説明してくれたに違いないけど、覚えていないのが悔しい。


「そういえば……わたし、ピアノを始めた頃のこと、あんまり覚えてないんだよね。いちばん最初は、響くんが教えてくれたんでしょ?」


 今のピアノ教室に通い出す前。


「そうだね。あのときは、本当に怖かったよ。思い出すだけで、体が震え上がっちゃう」


「何? それ」


 また、お母さんがわけのわからないことを言い出した。


「や、花はね、生れつき、音楽の素質があったみたいで。ほら、音が出る鍵盤つきのおもちゃの本、よく本屋さんで売ってるでしょ? あれを買ってあげたら、まだしゃべれない頃から、歌のメロディーを真似して弾いたりできてね」


「うん。それで?」


 当然ながら、何も記憶に残っていない。


「で、響くんが来たときに、わたしが得意げに聴かせたんだよね。花、すごいでしょうって。そうしたら、そのおもちゃをすぐ取り上げて、何てことをするんだって、立ち直れないくらい、怒られて……」


「えっ?なんで?」


「なんか、音感がめちゃくちゃになるとか言ってた。それで、響くんとピアノ選びに行ったんだよ」


「あー……そっか」


 ああいうおもちゃって、中には音の設定がいいかげんだったりするものもあるから。


「その頃、響くんは東京にいたでしょ? だから、休みの日には必ず来て、はなに和音を教えてくれてたよね。覚えてない? 家にあった折り紙を使って、赤の和音とか青の和音とか、クイズみたいなことしてたの。どんどん、色の種類が増えていったよね。お母さんには、違いがさっぱりわからなかったけど。その頃から、響くんは花の才能を見抜いてくれてたんだよ」


「それ、ちょっと、覚えてるかも」


 わたしにとっては、普通に遊んでもらってた感覚でしかなかったけれど。


「わたしも遊佐くんも、最初は意味がわからなかったんだけど。そのおかげで、一年後くらいに、花に絶対音感がついたのがわかって、びっくりしたよ。響くんも花と同じで、一回聴いた音をほぼ完璧に再現できるんだって」


「知らなかった……」


 ただ、響くんに手をつないでもらったり、抱っこしてもらったりしてただけじゃなく、わたし自身が気づいてさえいなかったつながりがあったなんて。


「花と響くんは、昔から通じ合ってるからね。いいなあ。遊佐くんと響くんも両想いだし。わたしは、遊佐くんにも、響くんにも、まともに相手にしてもらえてない気がするなあ……」


「いいでしょ」


 今は、素直によろこんでおく。響くんと過ごしてきた時間の長い、お父さんやお母さんをうらやましくも思うけれど、わたしと響くんには、見えない思い出もたくさんあったんだ。


「そうそう。この楽譜をもらった日も、遊佐くんが大変だったけどね。花がこの先、響くん以外の人を好きになれなくなったらどうするんだとか言って」


「……うん。いらぬ心配して、響くんにあきれられてたよね」


 本当は、痛感していたりする。顔といい、性格といい、似ているところが多いだけあって、お父さんがわたしをいちばんよくわかっていること。


「あ、メール。響くんからだ」


「えっ?すごいタイミングだね。何だって? 響くん」


 お母さんが、わたしのiPhoneをのぞき込む。


「んーと……」


 特に用件があったわけではなく、なんとなく空き時間に送ってくれたメール。わたしの『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』が、なぜか今聴きたくなったと書いてあった。


「えっ? 『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』って、さっきの?すごい……!」


「勝手に見ないで」



 お母さんに騒がれると、台なし。


「偶然? それにしても……」


「いいの。勉強するから、出てって」


 こんな偶然くらい、当然。それでも、そのひとつひとつが、わたしにとっては特別で大切な思い出になっていくんだよ、響くん。



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