7.初仕事は朝食から
次の日。朝の支度を済ませて、一度深呼吸してから玄関の扉を開ける。
その先は自宅の外――ではなくて、昨日も訪れたあの小さな小部屋だった。
「……よかった」
昨日のあれは全部夢だったんじゃないかと、少しだけ不安になってしまっていたから。ブレスレットをしている手で開けた扉がちゃんと職場に繋がっていて、心底ほっとしてしまった。
小部屋で制服に着替えをして、紅い布の扉を開けば、そこは彼の――焔さんの、聖域。
昨日と全く同じ、静謐な空気の中に途方もない数の本が眠っていた。
「えっと、今日はどうしたらいいかな?」
足下の黒猫に問いかけると、アルトはふむ、と器用に前足を組んで紅い瞳を細めた。
「そうだな……取り敢えず、あいつの様子見に行くか」
すたすたと迷いなく歩き始めるアルトに遅れないようについて行く。
途中で私の机周りに荷物を置いて、アルトはさらに奥へと進んでいった。いくつもの通路を通り過ぎて、いつの間にかふわふわ寄ってきた本の妖精……フィイ、だっけ?が、肩の上にもふもふと居座るままに歩き続ける。
やがて、小さな木の扉の前でアルトが足を止めた。
「ここがあいつの部屋だ」
「焔さ……じゃなかった、マスターの部屋?」
「ああ。あいつは大抵ここに籠もって、本を読んだりなんだりしてる。……たぶん今も、寝てるか本読んでるかしてるはずだ」
「それって、邪魔しちゃいけないんじゃない?」
「邪魔、は良くないけどな。お前、あいつの世話をするのも仕事なんだろう?放っておいたら食事もしないからな、あいつ死ぬぞ」
「ええ?!」
「昨日も言ったが、本当にあいつ本にしか興味がないからな。仕事はするけど、食事なんて誰かが持って行かなきゃ食べようともしない。返事がなくても部屋入っていいから、生きてるか確認したほうがいいぞ」
「ええぇ……」
確かに、一番最初に仕事をしないかと言われたときに、生活力がなんとか……って聞いた気が、しないでも、ない……?
それにしても、生きてるか確認って。いやでも、確かに引きこもりの人って生活力がないイメージが……。
そんなことをぐるぐる考えていたら、段々心配になってきた。
ちょっと声を掛けてみよう。
綺麗な彫り物のされた木製の扉を、控えめにノックしてみた。
「あの……。マスター?」
返事は、ない。
もう一度ノックして、今度は先ほどより少し大きめの声で呼びかけてみる。
「マスター、おはようございます。梨里です」
……やっぱり返事はない。
え、嘘でしょう?
ただ寝て居るだけなのかもしれないけれど。あんな話を聞いたばかりでは、返事がないと不安が募るだけだ。
足下のアルトに視線を向ければ、こくんと一つ頷かれる。
「すみません、ちょっと失礼しますね」
覚悟を決めて、そっとドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなくて、簡単に開いてしまった。
「マスター……?」
控えめに呼びかけながら、そっと隙間から中を覗いて。
ソファに上半身だけ身を預けるような中途半端な体勢の人影を見つけて飛び上がった。
「焔さん?!」
まさか本当に死んで?!
床が本まみれの部屋に駆け込んで、行き倒れている彼の肩を揺さぶる。ローブの上から触れた背と肩は、ちゃんと温かかった。
「焔さん、焔さん!」
「ぅ……うう」
がくがくと揺らす身体から呻き声が上がって、やっとほっとする。揺さぶる手を止めると、小さな声とともに身じろぎして彼の顔だけがこちらを向いた。
「……?ああ、梨里さん……」
「あ!」
驚いたショックで、思わず焔さんと呼んでしまっていた。人前じゃないしいいか……って、今はそれどころじゃなくて!
顔だけこちらに向けたまま、彼はしょぼしょぼと瞬きを繰り返した。
「もう、朝……?」
「はい、朝です」
「おいイグニス。お前また寝落ちしたのか?」
ぴょんとソファに飛び上がったアルトが、小さな前足で彼の頬をぐにぐにと踏んだ。イグニスは確か、焔さんのこちらの世界での名前、だったっけ。
自分の使い魔にぐにぐにされても、焔さんは何も気にならないらしい。へにゃりと寝ぼけた顔のまま、起き上がろうともしない。
「うーん、そう、みたい……。お腹空いたみたいで……」
「飯は?」
「しばらく食べてなかった、かも……」
「まったくこれだからお前は……」
呆れたように盛大に溜息をついて、アルトは今度は私の肩に飛びかかってくる。
「わ」
「なんか持ってくる。待ってろ。……行くぞリリー」
「私?!」
「大丈夫、すぐそこだ」
「わ、わかった!」
突然のことだけど、ぐったりしたマスターをこのままにはしておけない。
慌ただしく立ち上がる私に、倒れたままの焔さんが億劫そうに手をあげて机の上を指さした。
「梨里さん……マナジェム……持って行って……」
「え?」
「使い方はアルトに聞い……て……」
「え、焔さん?」
「……」
言うことだけ言って、ぱたりと腕が落ちる。……電池切れのようだ。
「おい、リリー。こっちだ」
アルトに呼ばれて、焔さんの机に近づく。ごちゃりと書類や本の山、宝石などで埋め尽くされた机の上、アルトが前足でちょんとこちらに押しやったのは、手のひらに収まる位の大きさの、透明な石のようだった。
手に取ってみると、ほんのり温かく感じる。金属の台座に綺麗にカットされた透き通る無色の石が填まっていて、傾けてみれば光が反射して、石の表面に何かの紋章が彫られているのも見て取れた。金具の部分には私の制服と同じ、良い生地の紅いリボンがついている。
「これ……宝石?」
「マナジェム。小型の、携帯用魔力結晶だ。いろんな使い道があるが、この世界での身分証になる。ちょっと両手で握ってみろ」
「えっと、こう?」
言われるまま、両手で包み込むように宝石を握ると、先ほどよりも少し宝石の温度が上がったように感じた。
「え」
じわりと、マナジェムが熱を持つ。ぱちぱちと小さな光の粒のようなものが、手のひらの間から弾けた。
「な、なにこれ?」
「大丈夫だから、もう少しそのままでいろ。……うん、そろそろいいか」
しばらくしてアルトが満足そうに頷くので、そっと手を開いてみる。あっと驚く声が、唇から小さく漏れた。
先ほどまで無色透明だった宝石が、透明感のある綺麗な青い色に染まっていたのだ。
深い水底を思わせるような、綺麗な青い色に目を奪われる。一瞬見惚れていた私の肩に、アルトが飛び乗ってきてぺちんと頬を叩かれた。
「いたっ」
「イグニスが飢え死にするまえに、早く行くぞ」
はっ。そうだった。
ソファの方を見ると、さっき動かなくなった姿勢のままで焔さんが行き倒れている。
私は散乱した本を踏まないように気をつけながら、ばたばたと部屋を後にした。
図書館の中というものは、基本的に走ってはいけない。
ぎりぎりの早足で通路を歩く道すがら、アルトがマナジェムについて説明してくれていた。
マナジェム。携帯用魔力結晶、というものらしい。
この世界の魔法の源である、マナ、という成分が結晶化したもので、主に貴族等の富裕層にとっての身分証として扱われているようだ。
持ち主の魔力を吸って動く魔道具で、人によって結晶の色が変わるらしい。魔力を持った人間にとっては、身分証のほか、現代でいうスマホのように通話をしたりできる、そうだ。
「結晶が色づいたってことは、お前も魔力持ちってことだ。色も濃いから、通話くらいできそうだな」
「え、魔法なんて使ったことないよ?」
「適性があるってだけだ。お前の世界には、そもそもマナがなかったしな。使えないところで育ったんだから、使えなくて当たり前だろ」
そういうもの、なのだろうか。
アルトの指示のままに通路を進んでいると、やがて本棚がなくなる場所まで来ていた。
先ほどまで、通路の先にこんな場所見えなかった。本当にここは空間が歪んでいるらしい。普段はどこを見回しても本棚が続いているから、こんな場所があったなんて知らなかった。
この場所に慣れてしまったら、距離感がおかしくなりそうだ。
本棚がなくなったその先は、ずらりと扉が並んだ通路になっていた。飾り気のない廊下に、扉だけがひっそり並んでいるのだ。壁もないところに扉だけが浮かんでいるように立っているのは、なかなかに不思議な光景だ。
「……アルト、ここは?」
「あの面倒くさがりが、いろんな場所に移動するために繋げた扉だ。右側の、手前から5番目の扉を開けろ」
「う、うん」
言われたとおりの扉を、戸惑いながら押してみる。キイ、と小さな音を立てて開いた扉の先には、どこかの廊下が見えた。
廊下の先では、何処か遠くからざわざわと人のざわめきが聞こえていた。廊下の窓の外には、旅行雑誌で見るような整えられた中庭が見える。薔薇のアーチや、白い噴水。行き交うドレスを着た人々。
「アルト……ここはどこ?」
「リブラリカの一般開放している区画だ。同じ図書館の中だよ。……っていっても、リブラリカ自体がとんでもなく広いけどな」
アルトは私の肩から降りると、とことこと廊下の先へ歩いて行ってしまう。
その後ろを追いかけていくと、大きめの扉の先に、いかにも食堂という感じの広い空間が広がっていた。
「わあ……」
広い空間に沢山おかれたテーブルには、それなりに多くの人が座っている。女性も男性もいて、それぞれ私の制服と同じような形の衣装を着ているようだった。
空間は白い大理石で出来たホールで、大きな窓から差し込んでくる日差しでとても明るい。
「職員用の食堂だ。ほら、こっち」
「あっ待って、アルト」
人混みをするすると歩くアルトは、まっすぐに一番端のカウンターに向かっていって、あろうことかそこにぴょんと飛び乗った。
「ちょ、ちょっとアルト!」
食堂という場所に動物は怒られるんじゃ。
焦ってアルトを抱き上げた瞬間、カウンターに居た女性と目が合ってしまった。
「あらまあ」
白いエプロンを着けた女性は、目を丸くして私とアルトを見ている。咄嗟に勢いよく頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!あの、えっと……」
「アルト様、お久しぶりです。それと、そこのお嬢さんは初めて見る顔です、ね?どなたかしら?」
「アルト様……え?あっ」
怒られると思っていた私は、思いがけず掛けられた言葉に戸惑う。その隙に抱き込んでいたアルトが逃げ出して、再びカウンターに飛び乗っていた。
「久しいなモニカ。こいつは、イグニスの秘書だ。リリーって呼んでくれ」
「ええ?」
「ほら、リリー。マナジェム」
「あ……!」
そっか、身分証代わりってことは、こういうときに見せれば良いのか。
不思議そうにこちらを見ている女性に青く染まったマナジェムを見せて、私はぺこりと頭を下げた。
「失礼しました、リリーと申します」
「あらあら!あらあらあら!本当に大賢者様の秘書さんなのね!」
頭を上げた瞬間、カウンターから乗り出すようにした女性に、がっしりと手を握られた。40歳くらいだろうか。優しそうな、お母さん、という印象の女性が、嬉しそうに頷いた。
「私はモニカ。この食堂の責任者をしていますの。よろしくお願いしますね!」
「は、はい!よろしくお願いします!」
握られた手が温かくてちょっと痛い。すごくはつらつとした女性にたじたじになる。
「モニカ、イグニスの朝食が欲しい」
「ああ、わかりました。今ご用意致しますね!リリーさんの分はいかがしましょう?」
「あ、えっと、私は食べてきたので……」
「そうですか、それなら温かい飲み物をご用意しておきますね、少々お待ちください」
「あ、りがとうございます……」
ばたばたと奥に向かっていったモニカは、すぐにひとつのバスケットを持って戻ってくる。
「お待たせしました、どうぞお持ちください」
「ありがとうございます」
「いいえいいえ!何かあればいつでも来てくださいね、リリー様」
「い、いえ!私はそんな、様なんてやめてください」
ぎょっとして返すけれど、モニカは笑顔で首を振った。
「そういうわけには参りませんわ。大賢者様の秘書様ですもの」
「えっと、でも!」
「リリー、いい。急ぐぞ」
「ああっアルト!……ごめんなさい、また今度!」
なんだか今日は、アルトを追いかけてばかりいる。
もう一度だけモニカに向けて頭を下げて、私はバスケットを手にくるりと踵を返した。
動作に合わせて、視線の端でふわりと制服のスカートが控えめに広がる。そんなちょっとしたことにも、また少しだけ心が躍る。
今は早く、焔さんに食事を届けないと。
アルトの後を追いかけて歩く自分に、ちらちらと食堂の人たちと視線が向けられているのには、まったく気づかずにいた。
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