3.猫はしゃべりません
カフェから自宅まで、どうやって帰ってきたのか覚えていない。
それでも気づけば、目の前にアパートの自室が広がっていた。
「……」
その場に荷物を放り出して、ふらふらしながらベッドにダイブする。
いつも掛けている伊達眼鏡が邪魔で、ベッドの隅にぽいっと投げ捨てた。
ふうっと長く息を吐いて、手近なクッションを抱き込んで丸くなると、少しは落ち着いた気分になってくる。
「……なんだったんだろう、さっきの」
なんだったんだろう、じゃないんだけれど。
……取り敢えず、簡単に整理してみよう。
カフェに行った。
焔さんに会った。
焔さんの図書館で働かないかと誘われた。
その図書館は、異世界にあると、いう。
ただ、それだけのことだ。整理終わり。
「いやいやいや……」
自分で自分の思考に、弱々しいツッコミを入れる。それだけのこと、じゃないよ。
異世界ってなんだ。つまりは、そこが一番に混乱している部分である。
ごろり、反対側に寝返りを打つ。
彼が話していた仕事の内容は、私でもできそうというか、どう考えても図書館の仕事って感じではなかった。……まぁ、焔さんも秘書っていってたし。
仕事をもらえるということについては、嬉しい。あんなに本好きの人の図書館なんて興味はあるし、普段は好きなことをしていていいっていうのも……ちょっとそれでいいの?って気はするけれど、魅力的だ。
でも、だ。
またごろりと、反対側に寝返りを打つ。
異世界ってなんだ。異世界って。そこがどうにも、飲み込めないでいる。
しかしあの時の彼は、嘘を言っているようには見えなかった。
――『あと一歩を踏み出すかどうか、それは全部、君次第だ』
彼の最後の言葉が、心の片隅に引っかかってむずむずする。
「……異世界なんて、あるわけないじゃない……」
ごろりと仰向けになって、持ち上げた腕で目元を覆った。
しゃらんと小さな音がして目を向ける。視界に入ったのは、去り際に焔さんにつけられたブレスレットだ。
「……きれい」
華奢な細かい鎖が3連になっていて、飾り気がないのに一カ所だけ、綺麗な紅い色の石がついていた。これ、宝石かな?
もだもだ考えていても思考がまとまらないし、どうしようもなさそうだ。
とりあえず、お風呂にでも入ろう……。
むくりと起きて、お風呂に入るなら、とブレスレットを外そうと……
「……え?」
これ、留め金がない?
「んん……?」
しゃらしゃらしたブレスレットは手首にぴったり寄り添っているのに、どこにも留め金が見当たらないのだ。
「おかしいな、なにこれ」
外れないのは、ちょっとどうしよう。借り物みたいだし……。
最初は恐る恐るだったのが、だんだん雑にあちこち引っ張ったりし始めてしまう。
何度目かに、紅い石の部分を引っ張ってみたときだった。
「……ああもう!いてえな!」
「ひっ?!」
いきなり何?!
突然、どこからともなく響く声に変な悲鳴を上げて飛び上がった。
ひとり暮らしの部屋で、こんな近くで誰かの声なんて、するはずがない。
背後の壁まで後ずさりして、慌てて部屋の中を見渡すけれど、どこにも人影なんてない。
「や、やだなに?」
情けなく声が震える。テレビもついていなければ、スマホだってさっき放り出した鞄の中だ。
がたがたと情けなく震える身体をぎゅっと抱きしめる。心臓がばくばくと大きな音を立てている。
「もしかして、おばけ……」
「んなわけあるか」
「ひぃっ?!」
また、自分以外の声がした。少し低めの、男の人の声だ。
ゆ、幽霊とか……やだむりだこわい!
震えながら硬直する私に、またその声が聞こえる。
「あー、こっちだこっち」
いやいや、幽霊と目を合わせちゃいけないって何かの本で読んだし。
こっちって言われて、そっち向くのは死亡フラグなのでは……。
「っ……!」
思考の隅で、そんな冷静なようで混乱した声を聞いたと思った、その時。
ふと視界に映り込んだ紅い光を目で追ってしまう。
ブレスレットについていたあの紅い石が光っていて、そこから出た光がもやもやと集まり塊になっていた。驚いて凝視している間に、それは猫の形になる。
一瞬、だったのかもしれない。
目の前に、つやつやの毛並みの、綺麗な黒猫が現われていた。
輝く紅い瞳が、ブレスレットの石と同じ色だ。
しなやかに尾を揺らした黒猫は、此方を見上げて口元を開く。
「面白い顔してるな、娘っ子」
そして耳に届いたのは、にゃあではなくさっきの低い声。
「へ」
「間抜けた顔して。これがあいつの友人ねぇ」
くっくっと喉の奥で笑うような音が聞こえる。こちらに寄ってきた猫が、後ろ足で立ち上がり私の膝に前足をおいて――あろうことか、器用に頬杖をついて、にやりと眼を細めた。
「よぉ、お前がリリーだろ。俺様はアルトだ。ま、よろしく」
……これは、明らかに。
「……あの、もしかして、なんだけど」
「ん?」
「さっきからしゃべってるの、貴方じゃないよね?」
「はあ? 何言ってんだお前。俺様がしゃべってるに決まってるだろ」
猫って、溜息つけたんだ。
ぱたんと、そのままベッドの上に横たわる。ぎゅうっとクッションに顔を埋めて、限界まで身体を丸めた。
「あん? おい、なんだよおい」
てしてしと、柔らかいものが頭を叩いてくるけど。もういい。
脳の処理が、追いつきません。
きっと夢だから。次に起きたら黒い猫も、ブレスレットもなくなってるはずだ。
おやすみなさい。
私は、ぽいっと思考を投げ出した。
ぬくい……。
ふわっと意識が浮上して、最初に思ったことはそれだった。
なんだかふわふわもふもふしたものが頬に触れていて、とっても温いのだ。
気持ちよくて、寝ぼけたままそれに頬ずりすると、もふもふが動いた。
「なんだ、起きたか」
てしてしと頬に柔らかいものが当たる。
「んー……」
薄目を開けて、視界に飛び込んできたのは紅い宝石。
「ったく、いきなり寝るとか……。まあ仕方ないか、突然あんな話聞いたらなぁ」
「……?」
誰だろ、この声。
「おい、起きろよ。夕飯食べないとだめだろ」
「ん……?ああ、夕飯。うん……起きる」
上体を起こして、うんと伸びをした。その膝に、黒猫が登ってきて此方を見上げる。
その猫は、口を開いてもにゃあとは言わなかった。
「目ぇ覚めたか?リリー」
「……」
「……」
見つめ合うこと、数分。
「あの、夢だったってオチは、やっぱりなしですか」
「残念だったな」
黒猫のどや顔に、静かに顔を覆った。
どうやら、この状況を受け入れなければいけないようだ。
この猫はしゃべる。それはどうしても変えられない目の前の事実だったらしい。
私の脳は諦めることにしたのか、その猫と会話をしながら、夕飯やらなにやらを済ませた。猫――アルトは、紅茶だけあればいい。と、またもや猫らしからぬことをのたまっていた。もちろん深皿にいれて渡した。
なんなんだろうこれ。
始終そんなことを考えながら、一通りやらなきゃいけないことを終えて、自分用の紅茶を用意した。温かな紅茶を一口飲んで、ふうと一息。
部屋の時計は、深夜1時を指していた。
ちらりと横を見れば、アルトは行儀良く椅子に座り、呑気に毛繕いをしている。
「……あの、それで。色々聞いてもいいかな?」
こんな時間だけど、先ほど寝てしまったせいか、目が冴えてしまっている。
恐る恐る切り出すと、アルトはこちらをみて頷いた。
「おう、何でも聞いてくれていいぞ」
「じゃあまず……アルトって何なの? なんで猫がしゃべってるの?」
「俺様は、ただの猫じゃねぇよ。あいつの使い魔だ」
「あいつって……焔さん?」
「こっちじゃそう名乗ってるな。合ってるぞ」
「……使い魔って、そんなファンタジーな……」
思わず口に出してしまった一言にも、アルトはうんうんと頷く。
「大丈夫だ。お前のその反応は、普通の人間として間違ってない」
「でも事実、猫が目の前でしゃべってるんだよなぁ」
「己の目で見た真実を、真実だと受け止められてるなら十分な器だな」
「なんだかもう驚きすぎたんだよ……」
大きく溜息を吐きながら机に突っ伏すと、軽やかに跳ねたアルトが、私の背を足場に頭の上へと乗ってきた。
「ぐえ」
「まーあれだ、あいつも、お前が混乱するだろうと思って俺様のことを寄越したんだろうな、うん」
「ええ……」
「目の前で猫がしゃべったら、お前だってちょっとは『ファンタジー』を信じる気になるだろ?」
「うう……まぁ……」
話の間にも、たまにてしてしと、アルトの肉球が頭を叩いてくる。痛くはないが、てしてし、てしてしと叩かれると少し惨めな気分になってきた。
「寝て起きてもしゃべってるし、もう信じるしかないなぁ」
「だろう?」
「……それで、焔さんが異世界の人だっていうのは?」
「本当だ」
不意に頭の上の重さが消えた。ゆっくり身を起こすと、テーブルの上でこちらを見返す、腕組みをした黒猫。
ふふんと上機嫌に、その黒猫はぴんと背筋を伸ばして言った。
「聞いて驚け。あいつは、大賢者イグニス。異世界を自由に渡り歩く、異世界一の大図書館の主だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます