第9話 楽しくなってきたわね
ぼんやりとした意識の中、寝ている自分に誰かが乗っかっているのを感じた。人間……? が、必死な声を上げながら俺の首を両手で掴んでいる。
「ふぎぃッ! ふぎぃッ! ふんぬぬぬッ!」
「……なにやってんだ!?」
「決まってるじゃない! 首絞めよ!」
「何がどうなれば首絞めに決まるんだよ!?」
スライム少女のスレアラインが俺の首を絞めていた。スライム形態ならいざ知らず、男が女に首を絞められているという今の状況は、痴情のもつれか何かにしか見えないだろう。
初めて美少女形態になってから三日、スレアラインもすっかり人間じみてきた。もっとも、まだ支えなしで歩くことは困難なようだが。
「アタシの肘関節がグネグネした時にあんたが『きも』って言ったこと許してないんだから!」
「いつの話だ!?」
「三日前よ!」
「いや、できれば言われた時にもっと主張してくれ!?」
「今朝思い出して、急に悲しくなったの!」
「悪かったって!」
相変わらず首絞めの力は弱かった。とはいえ、そろそろ俺の命が危ういかもしれない。そう思うほどには、スレアラインは力をつけ始めていた。
「ふぅ……今日はこれくらいにしといてあげる」
「お前いっつもそれだよな……?」
「あっ」
「うおッ!?」
姿勢を維持に失敗したらしい……スレアラインが倒れこんできた。やわらかな感触が、恐ろしい迫力をもって服越しに伝わってくる。
この状況は……まずい。
「破ァァァァァッ!!!」
「キャアアアアッ!!!」
俺の中で何かの間違いが起こりそうな気がして仕方がなかった。だから、俺は勢い余って全身から光を放ってしまったんだ。
「――ルクスったら、何回言ったら分かるの。いきなり『破ァ』するのやめてって言ってるじゃない」
「スレアこそ、いきなり首絞めるの何回言ったらやめるんだ」
「いきなりじゃないわよ」
「じゃあなんだよ」
「1時間くらいずっとよ」
「もっとだめだよ」
俺たちは今、当たり前のように朝食の時間を共に過ごしている。スレアラインはまだスプーンを持つのもおぼつかないので、俺が隣に座って補助をしている。
「ようやく赤ん坊になったって感じだな」
「にひひ、赤ん坊も悪くないわ」
「なに笑ってるんだよ」
「だって、赤ん坊の方が優しくしてくれるでしょ?」
質が悪いことに、スレアラインは首を動かせるようになっていた。それはつまり、やたらと可憐なその顔を至近距離で俺に向けてくるということだ。
青玉の瞳が、俺の姿を映している。
……あんまり見られると、俺も言葉を忘れてしまう。
「いいから、早く喰え」
「ちょっと、こぼれちゃうじゃない……はむ!」
「美味いか」
「まあまあね」
……こんな生活も、悪くはないかもな。
追放されて、人間に嫌気が差して、俺は人の街から消えた。行きついた先の魔界には妙なスライムがいて、俺はそいつと暮らしている。
今や人の姿になれるようになったスレアラインが、もはや人間よりも人間らしく見えてきている俺がいた。
自分の中の価値観とか、世界の見え方が変えられているようで、それが少し……俺は……怖いのか?
「ルクス、大丈夫?」
「ん……ああ」
「何か心配ごとでもあるの?」
「そうだな……どっかのスライムが、いつになったら自分一人でこぼさずにシチューを飲めるようになるのかって」
「聞いて損したわ」
「そりゃ悪かったな」
いくぶん奇妙だが穏やかな時間が流れていく。軽口を叩き合いながらも、お互いにそれを楽しんでいるのが分かっていた。
……こんなにも穏やかな時間を過ごすのはいつぶりだろうか。
「ルクス? 手が止まっているわ。早く食べさせなさい」
「……赤ん坊は喋らないからかわいいんだな」
「減らず口じゃないアタシはかわいくないって?」
「……はて?」
「ふぎぃッ!」
「あーあー、大人しくしろっての」
「今に見てなさい。アタシが自由自在に動けるようになったら、あんたなんてぼこぼこのけちょんけちょんにしてあげるんだから」
「そいつは楽しみだな。おら、喰え」
デートがしたいって話はどこへ消えたのやら。スレアは不服そうに頬を膨らませては、咀嚼しながら俺を横目で睨んでいた。
「ルクス」
「ん」
「アタシが歩けるようになったら、色んな場所に行きましょうね」
「おう」
明くる日、スレアはかろうじてスプーンを持てるようになっていた。
「ルクスルクス! 見て見て見て!」
「おう」
「すごいでしょ! スプーンを持てるようになったわ!」
「ようやくハイハイできるようになった赤ん坊ってとこか」
「……? なによ、ハイハイって」
「知らないのか。人間の赤ん坊は四つ足で歩くんだぞ」
「……! そんな大事なことをよくも黙っていたわね……!」
「いや、別に黙ってたつもりじゃ……忘れてたっていうか、今思い出したというか」
「いいわ。許してあげる。代わりにどうやって歩くのか教えて」
「……こう、腕と脚を、動かすんだよ」
「言葉じゃわからないわ。やってみて」
「嫌だよ」
「ルクスはアタシに歩けるようになってほしくないんだ」
「……はあ? なんでそうなる」
「動けないアタシの方が人形みたいでかわいいってことなんでしょ。いいわよ、ルクスはそういう自分の思い通りに動かせる操り人形が好みなのね。とても素敵だと思うわ」
「こんの……言わせておけば!」
たく……やってやらあ。俺は遠い昔に取ったであろう姿勢になる。
……なんで俺が赤ん坊を実演してんだ。
「こうだよ! こう!」
「……ふふ」
「……スレア、てめぇ」
「……面白い」
「ふざけんなよ!?」
どうやら、俺はスレアに踊らされていたらしい。何が操り人形だ。俺の方がまんまと踊らされてるじゃねえか。
「はあ。ハイハイなんてするんじゃないかった」
「あら、見たかったのは本当よ。ありがと」
「笑ったくせに」
「それはおまけ。それに、今度はアタシがやる番なんだからいいでしょ?」
「……本当にやるのか」
「当たり前じゃない。一回までなら笑っていいわ」
「思いっきり笑ってやるからな」
「じゃあ、肩かして」
「ん」
肩を貸せばスレアは立つことも難なくできるようになっている。ハイハイなんてしなくとも、そのうち歩けるようになるんじゃないか?
なんて言っても聞かないんだろうな。
「ほら、姿勢を取れ」
「ゆっくり下ろしてね。ゆっくりなんだから」
「分かってるよ」
膝から倒れこむような形で、徐々に身体を落とす。スレアが床にぶつからないように、俺は腹に手を添えた。
「いけるか?」
「いけそう」
そっと手を離すと、スレアは自分の力で身体を支えることが出来ていた。
「ルクス、すごいわこれ。自分で歩ける気がする」
「なんだと」
「ほら」
死にかけの犬みたいにハイハイしている少女がそこにはいた。そのくせ、興奮しているのか頬は赤く染まっている。
「楽しくなってきたわね」
……なんか、いけないものを見ている気がしてきた。笑ってやるつもりだったが、なんだか笑えない。
見守るしかなかった俺に、スレアが這ったまま振り返る。そして、目を輝かせながらハイハイで近寄ってきた。
「ルクス~」
まるで犬のように見上げる少女から、俺は目をそらす。
「スレア……あのさ」
「なに?」
「ハイハイやめろ」
「絶対いや」
「いや、なんか……よくないって」
「何がよ、頭突きするわよ」
「真面目に言ってんだって」
「えいッ! えいッ!」
スレアラインは新たな扉を開いたらしい。
俺はすねに柔らかい頭突きをくらいながら、天井を見上げるしかなかった。
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