第11話 総力戦

 地面の上には数多くの騎士や修道士達の死体が転がっていた。死体からはみ出した腸や血液が地面を濡らし、土から顔を出した新芽や雑草を赤く染め上げている。オルフェンはかつて自らが参加した隣国との戦争のときのことを思い出していた。


 前を行くティムとレンドンと距離を取ると背中の弓を下ろし、鉄の矢をたがえて戦いに備える。爆矢を使うのはもう少し後だ。少なくとも奴の動きを止めるまでは二人の援護に徹しよう。


 ティムはゼファーが空高く飛び去ったのを見届けてからメイスを握る。ゼファーの気持ちは嬉しいが、あの小さな体で戦うのは無理だ。たちまち捻り殺されてしまう。


 ティムは残りの魔力を確認した。指は一本たりとも光らない。やはりそうか。ウインドストライクの効果がなかったのは、既に魔力が枯渇していたからだった。

「レンドン、あとどのくらい魔力は残ってる?」

 レンドンが同様に確認すると、左手の薬指まで指は光った。


「あと四十パーセントだね。小さい魔法なら少なくとも数発は撃てると思う」

「そうか」

 ティムは一人歩き出すと前を向いたままレンドンに言った。「お前はそこで俺を援護してくれ。もし俺が死んだらオルフェンさんも王子も放っておいて逃げていい。そして修道院にすべてを伝えてくれ」

「……わかった」


 ティムは徐々に歩くスピードを早めると走り出した。十メートルほど先にレッドヘルムがこちらに背を向けて地べたに座り込んでいる。微妙に揺れ動くその姿から察するに何かを咀嚼している様子だった。それが何かをわかっているティムに段々怒りが込み上げてくる。

 ーー好き勝手人を喰らうのはいいが、死ぬ間際に後悔するんじゃねぇぞ。


「……『ウインドブレッシング』!」

 レンドンの補助魔法がティムを包み込むとティムの走る速度が一気に増した。ティムは翔ぶように樹木と死体の間を駆け抜けると数瞬後にはレッドヘルムの背後に到達した。

 ーー先制攻撃だ。これでも食らいやがれ!


 ティムはメイスを振り回すとレッドヘルムの右側頭部を狙った。勢いをつけた鉄槌は正確に怪物のこめかみに接近していく。ーーもらった!

 しかし攻撃は空を切り、派手な風斬り音を立ててメイスはティムの後背部まで振り回された。鉄の重みにティム自身がよろめきそうになる。


 レッドヘルムは頭を上げると無表情のままこちらを振り向いた。口の端に内蔵や腸の破片をつけたまま口中を真っ赤にし、まだくちゃくちゃと不快な音を立てながら咀嚼を続けている。その目には何の感情も感じられなかった。人間をよくある食事のいちメニューぐらいにしか感じていないーーまさしくそういう目だった。


「……てめぇ」

 ティムは後ずさりして身構える。レッドヘルムはのそりと立ち上がると四足の姿勢をとった。他のグリズリーのように人間を侮って二足で立ったりしない。四足が最もスピーディーに動くことができ、内蔵の多い腹部を守ることのできる最も隙のない姿勢だということをレッドヘルムは理解していた。


 レッドヘルムは前進して前足で攻撃してきた。ブレッシングの効果が持続中のティムは高速の打撃をすんでのところでかわす。接近したティムはレッドヘルムの顔面に二度、三度メイスを叩きつける。しかしやはりレッドヘルムはびくともしない。

 ーークソが。どれだけ分厚い頭蓋骨してやがんだ。


 一瞬、ティムの意識が別の方向に逸れたそのとき、再びレッドヘルムの前足がティムに襲いかかる。反応の遅れたティムの顔面に鋭い爪が向かってきた。ーーやべぇっ!

 しかし、後方から飛んできた複数の鉄矢がそれを阻んだ。矢が顔面に突き刺さると、レッドヘルムは二歩ほど後退した。


 なるほど、やっぱり刃物の方が通りやすいのか。ティムは一度メイスを背中の鞘にしまうと懐から一振りの短剣を取り出した。

「刃物は禁じられてるけど、まあ、緊急事態ってことで」

 すらりと鞘から抜くと刀身に美しい紋様のあしらわれた精霊の短剣クリスナイフが姿を現した。


 レッドヘルムは顔面に矢が刺さったまま目をぎらつかせながら迫ってきた。痛みを与えられて怒り狂っているようだ。ティムはしゅっ、と鋭く息を吐くと高速で移動を始める。レッドヘルムの爪をかいくぐるようにして手首や脇、胸や脇腹をすれ違いざまに切り刻んでいく。しかしレッドヘルムに意に介した様子は見られない。


 ーー今に見てやがれ。調子に乗ってるみたいだが、これはお前の意識を逸らせるための単なる布石に過ぎないんだよ。

 そのとき、レッドヘルムの爪がティムのこめかみを僅かに掠めた。

 えっ。途端にティムの速度が見る間に落ちていく。ブレッシングの効果が切れたのだ。


 嘘だろ、おい。

 こめかみから激しく出血し、呆然と立ち尽くすティムの正面からレッドヘルムの爪が迫る。やべぇ、マジで死ぬーー。


 しかしその刹那、逆向きの突風が吹いてティムを体ごとさらっていった。レッドヘルムの爪は空を切る。風に乗ったティムは十メートル近く飛ばされたのちにゆっくりと地面に着地した。


「ごっ、ごめんーー」

 息を切らしながらすぐ後ろでレンドンが謝った。大きく安堵の息を吐いたティムはゆっくりと立ち上がる。

「頼むぜ、マジで。ホントに死んだかと思ったぜ」

「ごめん」


 しかし無理もないと思った。補助魔法の持続は思った以上に体に負担がかかる。たとえ魔力が残っていたとしても、脳や心臓がそれ以上の持続を許してくれないのだ。

 早く決着つけねぇとなーーティムは血を拭うと敵の姿を見つめながら考えた。レッドヘルムは獲物を逃がした悔しさからか低い唸り声を上げている。


「レンドン、魔力はあとどれぐらいだ?」

「……二十パーセント。もう次はないと思ってもらった方がいいと思う」

 よし、腹をくくるか。そう思ったティムはオルフェンに合図を送る。オルフェンは承知した、と言うように深く頷いた。


「さて、行くか」

 レンドンの魔力がティムを包む。さっきの感じだと補助効果はもって一分半といったところだ。その間に奴の動きを止め、あのいまいましい臭い口を無理矢理にでもこじ開けなくてはならない。


「なかなかハードなミッションだぜ」

 ティムは大きく息を吸い込むと怪物の方向へと駆け始めた。見る間に近づいてくる獲物の姿を視界に捉え、レッドヘルムは嗤ったように見えた。


 怪物は右、左と丸太のような腕を連続で振るってくる。ティムは飛び退き、かい潜ってレッドヘルムの懐に入ろうとするが、そのたび敵は強烈に腕を突き上げて侵入を阻止してくる。さっきまでとは明らかに速さが違う。相当頭にきているようだ。


「指を狙え!」

 オルフェンの指示が後方から飛んでくる。なるほど、いかな巨大な猛獣でも指先だけは鍛えようがない。ティムは地面を蹴るとそれまでと動きのパターンを変えて喉を狙う素振りを見せた。すると怪物はすぐさまその動きに反応する。


 ーー馬鹿野郎が。本命はこっちなんだよ!

 攻撃のかわし際に、ティムは抉るようにクリスナイフを振るった。肉を断つ感触と共に巨大熊の指が二本、血の帯を引き連れながら宙を舞う。しかし怪物は怯む気配すら見せずにさらに怒った様子でティムに覆い被さってきた。


 初めて見せた敵の隙をティムは見逃さなかった。ティムは怪物の両腕をかい潜って懐に入ると、腹の下を何度も短剣で切り裂いていった。

「どうだ化物!この業物の切れ味はよ!」


 下腹部を切り刻まれたレッドヘルムは苦しそうに低い唸り声を上げた。それでもティムを自分の下から引きずり出そうと懸命に腕を伸ばしてくる。ティムは腹の下から抜け出すと怪物の背後を取った。跳躍し、敵の背中を登っていくその手にはいつの間にかメイスが握られている。

「……今度こそもらった!」


 レンドンの手元が激しく光った。振り上げたティムのメイスに風の魔力の威力が加算される。

「『ウインドストライク』!」

 メイスは怪物の無防備な後頭部に振り下ろされた。


 そのとき、レッドヘルムは突然両脚で立ち上がる。

「うおっ!?」ティムは思わず体勢を崩し、頭から地面へと落下していく。

「ティムっ!」


 眼前に地面が急速に接近してくる中、ティムは体を捻るとメイスを再度振り回した。

「……『ウインドストライク』っ!」

 メイスの先端は怪物の巨大な膝裏に驚くほど正確に命中した。魔力で後押しされたメイスはごりごりと筋肉を押し潰していくと、ついに間接にまで到達して骨ごと怪物の右膝部分を破壊した。


 打撃の威力で慣性の力が働き、ティムは一瞬空中に浮かんだような格好になった。

「やった!」

「へっ、どんなもーー」


 勝ち誇ろうとしたティムの全身をとてつもない衝撃が突然襲った。瞬時にレンドンとオルフェンの表情が凍りつく。

 気がつけばティムは空を見上げて倒れていた。

「……え……?」

 体を起こそうとするが痙攣するばかりでほとんど動かすことができない。見ると右腕と左足があらぬ方向へぐにゃりと曲がってしまっている。


 ウインドストライクを受けた刹那、レッドヘルムは倒れる前に体を捻り、あろうことかティムに反撃を繰り出したのだった。怪物の野生の格闘センスは痛みに怯むより先に、その瞬間を絶好の攻撃機会として捉えたのだ。


「が……ふっ」

 ティムは仰向けに吐血した。恐らくあばらは数本折れて内蔵も幾らか損傷しているだろう。たった一撃ですべてをひっくり返される理不尽さをティムは味わっていた。レッドヘルムは破壊された右脚を引きずりながらティムに近づいてくる。


「あ……ああっ……」

 レンドンは戦慄して動くことができなかった。しかし、レンドンには抵抗するだけの魔力はもはや残されていない。戦闘能力に乏しいレンドンでは助太刀に行っても一瞬で挽き肉にされてしまうだろう。ティムが殺される。レンドンは恐怖と絶望で震えた。


 オルフェンは移動を開始していた。その矢にはすでに爆矢の玉がセットされている。大きな代償は負ったがティムは怪物の機動力を奪ったのだ。まだだ。まだ奴を倒すチャンスは失われてはいない。


 太陽を遮るようにして巨大な影がティムの眼前に姿を現した。逆光でもはっきりとわかる、禍々しいその表情。粗い息がティムの顔にかかり、鼻腔を刺激する。ヒトを喰らい続け、臓腑の芯まで腐敗したような酷い臭いだった。

「……くせーよ。不細工な顔近づけんな」


 怪物が腕を一振りするとティムは枯れ木のように軽く宙を舞って吹っ飛んだ。右腕の肩に新たな深い傷跡が増えてティムは身悶える。

「ぐ……ぐおっ」

 

 レッドヘルムはのそりと近づくと再びティムを攻撃した。鮮血と肉片が辺りの地面に飛び散っていく。怪物は獲物を弄んでいた。もはや抵抗する力を失った相手をなぶり殺しにしておいてから、最後にゆっくり喰らうつもりなのだ。それは森の王としての自己顕示欲の顕れでもあった。


 血だるまになって天を見上げるティムに再びレッドヘルムが近づく。ティムがもう動けないと判断した怪物は彼の両肩を掴むと、おもむろに大きく口を開けた。血と肉で汚れた真っ赤な歯から粘り気のある唾液が糸を引いている。レンドンは両脚を震わせながらその様子を見つめる。


 怪物はふと、獲物がいつの間にか口に何かを咥えているのを見つけた。見慣れないその物体は小さく、木でできた人の指のように見えた。

 ティムは鷹笛を思い切り吹いた。高く、澄んだ音が辺りに響き渡る。次の瞬間、天から小さな影が飛来したかと思うと、物凄い速さで怪物とティムの眼前を横切っていった。


 生まれた一瞬の隙をついて、ティムは左腕を大きく怪物の口に伸ばした。クリスナイフの鋭い切っ先が口蓋部分に深く刺さると、柄の部分が突っ張り棒の役目を果たしてレッドヘルムの口は開きっぱなしになる。


「この時を待っていたぞ!」

 オルフェンは矢を目一杯に引き絞ると目標に向かって一直線に放った。矢は糸を引くような精確さで地面に平行に突き進んでいくと、怪物の口の中に吸い込まれていく。


 一瞬遅れて轟音が辺りに鳴り響いたかと思うと、先程までそこにあったレッドヘルムの頭が忽然と消え失せた。脳や頭蓋骨の破片が飛び散り、霧状に噴射された大量の血と共に大地の上にばら蒔かれる。からからと乾いた音を立ててクリスナイフが地面の上を転がっていった。そして、ついに怪物は巨体を揺るがせながら地面の上に大の字に倒れた。


「はぁ、はぁ……」

 レンドンが両手をかざしたままの格好で粗い息をついている。その前には傷だらけで満身創痍のティムの姿があった。爆発の瞬間、残った魔力を振り絞ってティムの体を自分の元へ引き戻したのだ。


「よくやったぞ、ティム!」

 駆け寄ってきたオルフェンにティムは弱々しい笑みを見せた。上空から舞い降りてきたゼファーがティムの胸の上に着地し、ピー、ピーと話しかけてくる。

「……け、結局お前の力も借りちまったな、ゼファー」


「ティム!」

 遠くからアルマが駆けつけ、ティムの傍に膝をつく。その背後にはピーターやグレン達の姿もあった。

「!……何てこと!」アルマは口に手をやるとティムのあまりの惨状に言葉を失った。


「これはいかん!早く治療せねば命にかかわるぞ!」

「しかしもう魔力の残っている修道士達がいません!」

 周囲の顔が絶望の色に染まろうとしたそのとき、頭上から大きな声がした。


「王子!無事ですか!?」

「今すぐそちらへ向かいます!どうかそこを動かないで下さい!」

 崖上からこちらを見下ろしていたのは修道院の面々だった。修道士達の間に神官の姿も見える。


「救助要請が何とか間に合ったようだな」

 ピーターは胸を撫で下ろした。アルマはティムの手を握ると涙目で彼の顔を見つめ続けている。

 グレンはアルマの横に座るとティムの顔を見て頷いた。「見事だ。そちのおかげでここにいる全員の命が助かった」


 ティムは朦朧とした目でグレンを見上げると「ま、これも俺達の仕事だから」と不敵に笑った。









 

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