プロローグ
第1話
子供の頃から高瀬の眼に映る世界には、たくさんの「推し」がいて高瀬は誰にでも素直に「大好き」を伝える人だった。
けれど、それが災いして高校生の時に恥ずかしい思いをしてしまう。
記憶はネガフィルムのように綺麗に保存されている。それは高瀬の羞恥を無視して、いつも勝手に現像された。
――それはもう、鮮明に。
高校の卒業式の日。高瀬はクラスメイトの
そのときは間違いなく、
クラスで一番、無愛想な写真部の男が推しだなんて、変な話だけど。
真夏の日差しは、年中薄暗い事務所の中までは届かない。
そんな季節感のない事務所にサングラスをかけた男が、ドアを無作法に開けて入ってきた。
(へぇ……背、高ェな、モデル志望かよ)
男は狭いフロアで高瀬を見つけると、まっすぐに机に向かってきてカバンから手のひら位の大きさの紙を出した。
テレビ局に行けば、こんな下っ端のAD山ほどいるって格好だ。
その辺のコンビニで買ったような白シャツと履き潰したデニムパンツ。デザインとして穴が空いているわけじゃなくて、おそらく本当に履き潰して穴を開けている。服の適当さに反して、靴だけはなぜか良いものを履いていた。ハイカットの無骨なデザインのトレッキングシューズ。髪は最近カットに行っていないのか、襟足部分を机の上に転がっていそうなゴムでまとめていた。それが本人のファッションセンスやこだわりでないことは、一目で分かった。間違いなく
高瀬は訪問者の姿を上から下まで観察して、良いモノを持っているのに、もったいないと思った。磨けば絶対に光る素材だ。目の前の人間を分析して、商品として売れるか売れないかで考えてしまうのは職業病だった。
「あー、ごめん。うち若い女の子と、AV女優しか募集してないから、男性モデルは、取ってな……」
「これ『SNNファイブ』のミカちゃんだよね」
高瀬の勤め先である芸能事務所に入ってきた男は、モデル志望なんかではなく仕事の敵だった。よくよく観察すれば肩にかけているカバンは、カメラマンがよく使っている機材バッグ。初見でADのようだと感じた自分の観察眼は、ある意味正しかったらしい。
都内の雑居ビルの二階にある弱小芸能事務所。高瀬は型番の古いパソコンを前に、自分が担当しているアイドルグループのスケジュールを作っているところだった。狭い事務所内は、現在留守番の高瀬しかいない。
少ない従業員は全員出払っていた。
つまり目の前の面倒ごとは高瀬が自分でなんとかしなければいけない。
「えー。どういった、ご用件でしょうか」
「分かってるくせに。まぁミカちゃん売れてないしね。わざわざ写真撮って持ってきても、おたくも金出したりするつもりないんだろうし」
「なら、なんで来たんだよー。雑誌の記者って暇なのかぁ?」
それは非難ではなく高瀬の純粋な疑問だった。
人の不幸で飯を食っている人間に対する嫌悪感はあっても、仕事柄顔には出さないようにしている。
「仕事の大きい小さいに文句がいえる立場じゃないんだよね。ちなみに、記者じゃなくて会社に飼われてる情報屋。記事は書いてない」
「へぇ。わざわざご苦労様だなぁ」
「そ、ご苦労様なの。暑い中歩いてきたんだし、お茶くらい出してよ」
「事務所の前に自販機あるからセルフサービスね」
「愛想ないなぁ、スポーツ少年みたいな前髪して」
「切りすぎたんだよ! ヤクザの子分みたいだって事務員からは不評だよ」
高瀬は昔から美容室が苦手だ。最近行く回数を減らすためと、思いっきり前髪をざっくりやってしまい今の髪型は後悔していた。
学生の頃の自分みたいと思っていたが、短い前髪にメガネの姿が社長と並ぶとインテリヤクザにみえるらしい。事務員からは「あら、ついに社長の舎弟になったのぉ?」と言われた。
面倒な話なら、そのヤクザみたいな顔をしている社長がいるときにしてくれればよかったのにと小さく息を吐く。
「で、いま社長さんはいる?」
「あいにく、出先だよ」
詳細を説明されなくても見せられた写真から男の来社意図は分かった。弊社の商品である女の子が男と手を繋いで制服デートしている。
スキャンダル写真。
自分が担当している商品だから高瀬にも責任はあるのだろう。
――プライベートまで面倒見られるか。
と社員としての自分は思う。
ただ同時に可哀想だとも感じた。仕事をしていても、まだ十代で子供だから。せっかくアイドルの夢を抱いて事務所へ来たのだ。一回の過ちくらいは周りの大人が助けるべきだと思う。そんな人としての感情は高瀬の中にもまだ残っていた。
もちろん言うまでもなく、それが無理だと高瀬は経験則で分かっている。
高瀬が働いている会社は大手の芸能事務所ではない。地下アイドルに毛が生えた程度のアイドルグループが一番の稼ぎ頭。小さな事務所。
社長がお金をかけてフォローなんてする訳がない。
それは高瀬自身も普段から女の子に伝えていたし指導してきた。何かあったら後が無い。もっと輝きたかったら、このグループを踏み台にしてチャンスを掴み次の大舞台に行けよ、と。
アイドルになりたい女の子なら掃いて捨てるほど世の中にいるのだから、やる気がないなら、即、契約解除が会社の方針だった。
高瀬は机の上に置かれた写真を手に取った。
写真に写る男と手を繋いで歩く『ミカちゃん』は、自分がいつも見ていて知っている姿じゃなかった。まるで別人。誰にも引けを取らない可愛い女の子。
お世辞なんかじゃない。他メンバーよりもキラキラとして、センターを張れるくらいのアイドルとして写っていた。
現状は人気最下位で落ち目だとネットには書かれている。引退候補一位。
高瀬は、こんなに綺麗に撮ってもらえて、これが週刊誌に載ってアイドル人生が終わるなら納得できるんじゃないか、なんて人でなしなことを少しだけ考えてしまった。
たかがスキャンダル写真。
なのに、その一枚は異彩を放っていた。写真に惹かれて触れたいとまで思ったのは久しぶりの感覚だった。
「うちの宣材写真なんかよりも、よく撮れてるよ。あんた腕が良いんだな」
「あのなぁ……。パパラッチ写真なんて褒めてどうすんだよ。わざわざ足運んで来ても一円ももらえない。写真としての価値ゼロだぜ?」
「わざわざ来てもらって、お金の件は申し訳ないけど。その子がダメなら、次の子が何十人何百人と後ろにいる。上がっていくのは難しいけど、落ちるのは簡単で一瞬」
そして、この会社に関してはアイドルが落ちていく先まで用意している。ミカは、この先どうするんだろうか。
「――ま、どこの世界もそんなもんだよな」
高瀬とそれほど年が変わらないように見える男は、そう言って息を吐くようにして笑った。自分の手で夢を壊す相手なのに、その行く末にはさして興味がないらしい。
そんな人の不幸を飯の種にしている男に嫌悪感を抱くのに、なぜか撮られた写真だけは、素晴らしいと賞賛を送りたくなった。
「にしても上手い人間は、ほんと……何を撮っても上手いんだろうな。――うん、俺は、好きだよ、お前の……」
自分の口から自然に出てきた「好き」という言葉に既視感を覚えた。
写真から目の前の男に向き直った瞬間、時間が一気に高校生の卒業式の日まで巻き戻った。
茶色のサングラスを外した顔を高瀬は知っていた。
「――あーあ。また、告白されたし。高瀬は誰にでも、そういうこと言うのか?」
「なん、で」
過去、神様だと思った男が再び目の前に現れた。パパラッチなんて、この世で憎むべき存在に変わっている事実に、この世の不条理を感じた。
意志の強そうな目は変わっていない。アイラインでも引いているように見えるきつい目元、見ているとその世界に吸い込まれそうになる灰がかった瞳の色。高校生の時に見た神様の面影は、まだ残っていた。
人を、世界を、魅せることの出来る人だと思っていた。
「……羽鳥」
「覚えてたんだ。俺は、すぐに高瀬だって分かったぜ。お前みたいに、言いたいことだけ言って逃げるような薄情者じゃないからな」
そういって羽鳥は鼻で笑った。
「いや、あれは、違って! そうじゃない、だって羽鳥サングラスしてたし」
忘れられずに後悔とともにずっと頭の片隅にあった羽鳥との最後の会話。突然の再会。心の準備をしていなかったから、頭と口が回らない。
なにより一番に、謝罪と説明をしなければいけなかった。
「ま、高瀬は俺なんかと再会しても嬉しくないだろうし、用事終わったから帰るわ。写真の件、社長とミカちゃんに伝えといて、――悪い人間はどこにでもいるから、周りには気をつけて遊べって」
「っ、羽鳥!」
高瀬が引き止める隙もなく、羽鳥は嵐のように事務所から去っていった。机の上には、羽鳥が置いていった写真だけが残っている。
反射的に机の上の写真を手につかんで席を立つ、けれど事務所には現在高瀬しかいないし、外に出て部屋を無人にできなかった。
「あー、もう!」
立ったのに結局その場から動けないでいると、タイミングよく再び入り口のドアが開き、事務員が昼休みから帰ってきた。
「あら、さっき出ていったのお客さん? 背高いし、モデル志望かしら? でも残念ね、うち女の子しかとらないし」
「あっ、あの! 宮下さん、すみません、次、俺お昼出てきます。社長も外に出てて」
背中から「あらそう」とおっとりとした声が聞こえたが、その先の了解の声を聞き終わるまえに、財布も持たず事務所の外に飛び出していた。外にある狭い非常階段を滑り落ちそうになりながら一階まで降りる。既に羽鳥はビルの前の横断歩道を渡り、道路の向かい側にいた。
高瀬が急いで渡ろうとした瞬間、信号は赤に変わった。
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