「……さぁ? 何のことだか、あたし、分かりません」


 決定的な場面を押さえられていながら、きんようは引きった笑みをリーファへ向けた。


 何もかもを知っていると強張った表情は物語っているにもかかわらず、金櫻はあくまで『何も知りません』という主張を崩そうとはしない。そうでありながらリーファへ向けられた笑みには情けを乞う色がある。


「何でこんな酷いことするんですか? シャオジュ。この人は、あたしの上客で……」

「今更、取り繕ったところで意味なんてないよ」


 だがどんな感情を向けられようとも、リーファの心が揺らぐことはない。


「僕、君の顔に見覚えがあるんだ。三、四年前まで、ニャンニャンの腰巾着をしていたでしょう? 僕の調教現場でも、場違いなくらいにベッタリニャンニャンに貼り付いてたの、覚えてるよ」


 何も感じないまま、麗華リーファは淡々と言葉を重ねる。


 その瞬間、金櫻の顔からスルリと表情が消えた。


「姿を見かけなくなったから、てっきりされたのかと思っていたけど。まさかこんな場所に潜り込んでるなんてね」

「……何の、話です?」


 表情を取り繕うことをやめた金櫻は、さげすむような視線を麗華リーファに向けていた。その顔には『見覚えもクソもあったもんか』『あんなにいぶされた状態で、ロクに記憶なんてあるはずがない』という内心がありありと浮かんでいる。


 そうでありながら語調は先程から一切変わらず、恐怖に震える哀れな娘そのものなのだから大したものだ。


「お前が、インニンでの手引き役だったんだろう?」


 紅華ホンファ娘娘ニャンニャンにいた時、麗華リーファは常にシャンクーの中に押し込められていた。常人ならばそれだけで死んでいてもおかしくない量のワンモーリーファに常に燻され続けていた。そんな麗華リーファに記憶力や思考力が残されていたなど、誰も信じることはないだろう。


 だがその認識に反して、煙が完全に抜けた今、リーファの記憶にはそれなりのことが残されている。


 麗華リーファを痛めつけた主のことも。主の周囲に侍っていた人間達も。自分を踏み付け、足蹴にしてきた人間達も。


 曖昧な部分は、もちろんある。忘れている部分もあるだろう。


 だが娘娘ニャンニャンに入れ上げ、狂っていたこの女のことは、それなり以上に記憶に留められていた。


「僕が無事にインニンまでの道中を終えていたら、お前がメイレンとして僕とれんを引き合わせるはずだったんだろう? 随分うまくそうてん商会に潜り込んでいたんだな」


 麗華リーファが言葉を続けると、金櫻はフツリと口をつぐんだ。わずかに警戒心がにじんだ表情を見れば、リーファの発言が的を射ていたことが分かる。


 ──やっぱり、紅華ホンファが『新娘シンニャン』を送り込もうとしていた先は、商会長のゆうじんのところじゃなくて……


 標的マトに関する司令を直接聞かされることは、今までほとんどなかった。興味もなかったし、もやに阻まれた思考で何かを思えるほどの余裕は麗華リーファにはなかった。


 だが、今回だけは例外だった。


【お前が勝手に隠した、あたしの『秘剣』が見つかったらしい】


 あの甘ったるい煙が充満した闇の中で。


 煙よりも甘ったるくて、聞くだけで総毛立つような痛みを思い起こさせるあの声が己の耳元で囁いた言葉を、今の麗華リーファは鮮明に思い出すことができる。


【お前が覚えているかどうかは知らないが。お前自身が、かつてあたしに約したことだ】


 お前があの子を越える秘剣になる。だからあの子を見逃してやってくれ。


 その約束をお前が果たしたのか、確認をしなければね?


【ツケは利子も揃えて返す。常識だよな?】


 その言葉とともに、『新娘シンニャン』は棺の中に押し込められた。


「当初は媒人メイレンでさえなかったんだろ? ニャンニャンが各地にばら撒いた『ヂョンズー』のひとつに過ぎなかった。お前はたまたま当たりを引いただけ。……そうなんだろ?」


新娘シンニャン』の今回の標的マトホンファの女主が『秘剣』と呼ぶ存在。かつてのリーファが己の全てを代償にして逃がした少年。


 十年前。満月が深々と月光を注いでいたにもかかわらず、その光を蹴散らすかのように雨が降り注いでいた中。


 紅の婚礼衣装を纏っていたのは、リーファではなく彼だった。


 霜天商会の武力の頂点。


 三幇主が一人、蓮。


 あの日がなければ『リーファ』はただの『花』のままで、『シンニャン』と呼ばれることはなかった。


 婚礼衣装を纏う、幽鬼のごとき暗殺者。


 その称号は、彼のものになるはずだった。


「……何の話なのか、あたしには分かりかねます」


 麗華リーファがカマをかけるように次々と言葉を投げても、金櫻はあくまで言葉上はシラを切り続ける。だがリーファを憎々しげに見据える尖った視線は、リーファの言葉を全て肯定していた。


 ──紅華ホンファは、ずっとレンの行方を追い続けていた。


 かつての麗華リーファは、ただの世話役だった。『ワンモーリーファへの耐性が高い』という体質に目をつけられ、シャンクーの中でレンの候補達の世話をする役割を与えられていた。彼らが死なないように煙の濃度を調整し、食事を与え、世話をするというのが、リーファに与えられた役目だった。


 そんなリーファレンに成り代わって『シンニャン』、……ホンファニャンニャンが長年開発を進めていた『命令に絶対忠実な最強の暗殺人形』となったのは、己の失態を己の人生の全てで補填するという取引をホンファの頭目と交わしたからだ。


【僕がレンになる】


 何人もいたレンの候補達は、ファジャオに乗せられる頃には最後の一人になっていた。


 娘娘ニャンニャンが『この子はとっておきよ』と言って連れてきた、まだまだ小さな体躯の少年。ホンファが仕込む前から武芸の基礎があったその子は、聞こえてくる噂によると、どこぞの名のある将軍家の子供であったらしい。


 彼だけが、あの地獄を生き延びてしまった。


貴女あなたが執着していたあの子を越えるレンになる】


 レンから見れば、リーファホンファと一緒になって自身をワンモーリーファ漬けにした憎いかたきであったはずだ。事実、レンの候補達はつかの間正気に戻るたびにリーファを恐れ、ののしり、遠ざけようとした。


 そんな中で、一番幼かったあの子だけが。


 あの子だけが『君も痛いの?』と、小さな手でリーファいたわってくれた。一緒にファジャオに乗せられていたリーファに、『一緒に逃げよう』と言ってくれた。


 リーファは、レンに確実に仕事をさせるために、いわば調教役としてファジャオに乗せられていたというのに。


 あの子はそれを理解した上で、言ってくれた。


『一緒に逃げよう』と。『あんなに痛い場所にいちゃダメだよ』と。


 ……その温もりだけで、十分だった。


 あの子は、誰もあると思っていなかったリーファの心を見つけてくれた。リーファの心を思ってくれた。


 あの煙と闇に支配された世界の中で、あの子の傍にいる時だけ、自分は己の胸に彼と同じ温もりがあることを実感できた。


 だから今度は、自分の番。


レンは僕が殺した。もうこの世のどこにもいない。だから探さないで】


 ──その取り決めを守ってもらえるとは、……もちろん、思っていなかったけども。


 あの日、後に『ファジャオヨウハン』と呼ばれるようになる集団の試作体が壊滅したことを知ったホンファは、凶手として捕らえたリーファニャンニャンの前へ連行した。


 その時にリーファが口にした言葉を受けたニャンニャンは、表面上はリーファの言葉を受け入れ、死に絶えたレン達の代わりにリーファを新たな暗殺人形として仕込んだ。


 だが娘娘ニャンニャンが見せた納得は、リーファを丸め込むための、本当に表面上のものだったのだろう。リーファを徹底的にしごき上げる裏で、ニャンニャンはずっと手段を選ばず最後のレンを探し続けていたのだ。


 ──拾われた先が霜天商会じゃなかったら、きっとあの子はとうの昔にホンファに引き戻されていたか、あるいは……


 あの時、レンの試験として課されていたのは、霜天商会会長・游稔の暗殺だった。


 その標的マトに拾われたからこそここまで命を繋いでこられたなんて、なんて滑稽な話なんだろうか。


 ──でもこの因果も、もうおしまい。


 一連の黒幕の頭は金櫻だ。これまで潰してきたネズミ達も一様にそう証言している。


 ニャンニャン自身がいんねいに乗り込んでくる計画があろうとも、実行役の頭である金櫻がいなければ計画は動かせない。


 ──ここで金櫻を消して、乗り込んでくるニャンニャンも殺す。


 一大黒幇ヘイパンの女主とはいえ、ニャンニャン自身は戦闘能力を持っていないただの女だ。護衛は連れているだろうが、ホンファの本拠地にいる時に比べれば防備は薄い。


 今の麗華リーファならば、殺せる。


「お前の計画は、ここでついえる」


 麗華リーファは後ろ腰から匕首を抜くと、低く構えた。


「僕は蓮を殺さない。ホンファにも戻らない。レンにもリーファにも、もうならない」


 麗華リーファの殺意にさらされた金櫻は、顔を引きらせながらジリッと後ろへ下がる。


 だがいくら下がったところでその先にあるのは壁と窓だ。金櫻の身体能力では窓から逃げようと身を翻した瞬間に命が終わる。


「お前を殺して、姻寧に入り込んでいるネズミも全員あぶり出して殺す。……そうすれば僕は、霜天商会のリーファでいられる」


 低く宣言し、最後の瞬間を与えるために呼吸を測る。


 その瞬間、恐怖で引き攣っていたはずである金櫻の口元に、不自然な笑みが浮いた。


「ご存知ですか? 少主シャオジュ


 暗殺者としての麗華リーファの本能は、その不自然に反射的に身構える。


 その隙間にスルリと挟み込むかのように、金櫻は囁くような声音で言葉を紡いだ。


「蓮幇主ダーレンは忘れまつの後遺症で、人より五感がずっとずっと鋭いんです」

「……どういう、……っ!?」


 脈絡のない金櫻の発言の意図が分からず、リーファ胡乱うろんげな声を上げる。


 だが次の瞬間、麗華リーファの中で不自然と不自然が一本の線で繋がった。


 ──まさか、そんな……っ!?


 金櫻は表情で麗華リーファの発言を認めていながら、言葉では頑なに『被害者』の立場を貫いていた。もっと言葉でリーファを蔑み、なじることもできただろうに、それをしなかった。


 表情は、この部屋にいなければ知ることはできない。だが会話の声は、壁を隔てた向こう側からだって聞くことができる。


 今の会話を外から音だけ聞いていれば、第三者は金櫻を『被害者』だと判断するだろう。 


「あなたに拾えない音も、蓮幇主ダーレンには拾えてる」

麗華リーファっ!!」


 その瞬間、金櫻の声を掻き消すかのように荒々しく部屋の扉が開かれた。ハッと振り返ればそこには、全身をしとどに濡らした蓮が、肩を上下させながら立っている。


「っ、……!」


 麗華リーファと視線が合った瞬間、蓮は苦しそうに眉根を寄せた。


 その表情だけで、分かってしまった。


 ──聞かれていた。


 心臓が氷塊に置き換えられたかのように、胸から全身が冷えていく。


「蓮幇主ダーレンっ!」


 その冷たさは、麗華リーファの隙をついて蓮に駆け寄った金櫻が蓮の胸の中に飛び込んだ瞬間、痛みに変わった。


「助けてください、蓮幇主ダーレンっ!!」


 蓮の腕は、金櫻を庇うように金櫻の背中に回る。


 それが、蓮の答えの全てを表していた。

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