冥闇
※
意識が浮上した瞬間に最初に感じたのは、全身にのしかかるような重だるさだった。
真っ先に感じたのが痛みではなかったことに細く安堵の息を吐く。同時にユルリと
どうやら今は夜明け前の時間帯であるらしい。部屋が閉め切られた外にも深い闇が広がっていることが感覚で分かる。一日の中で一番深くて静かな闇は、視覚だけでなく五感の全てを塗り潰すような深淵に満ちている。
──ここは……?
そんな暗闇の中にいながら恐慌状態に
──この香り……
薫香らしからぬ爽やかな香気は、嗅ぎ覚えがあった。おそらくこの香が
ふと
その事実に行き着いた瞬間、
──
そうでなくても蓮は『
蓮は
そこに
その可能性に、蓮は確実に気付いていたはずだ。他の誰に予測ができなくても、蓮にだけはそのことが分かっていた。
それでも蓮は、その危険を承知の上で
「……」
そこまで思い至った
たまたま今は付添人が席を外しているだけなのだろう。ここに放り込まれて放置された、というわけではない。
誰かが定期的に体を拭き、水を与え、衣を着替えさせて、悶え苦しむたびにずれる掛布をかけ直してくれていた。そうでなければ
──きっと、
蓮自身が、ずっと傍にいてくれたのだろう。
そうでなければこの部屋は、もっと薬香のにおいに塗り潰されていただろうから。
「……」
かつて
「……レン」
震える指が、頭から被いた衣をギュッと握りしめる。
「ね? ……会えば分かるって、言ったでしょう?」
ずっと切望していた。
煙に溺れ、
それでも醒めてしまえば、自分は何もかもを忘れられない。その性質を見抜いていた
月光が注ぐ晴天雨の夜。つかの間正気を取り戻したあの瞬間に、闇の中へ放り出した少年。
わずかにかき集めた正気を必死に紡いで『一緒に逃げよう』と言ってくれた声を、リーファは今でも覚えている。その声の面影を残して低くなった声が、今でも『リーファ』と名を呼んでくれたことに、夢から醒めた自分は泣きたいほどの喜びを感じている。
彼にもう一度巡り合うために、自分はここまで命を繋いできた。
同時に、自分は一生、彼に出会うべきではないことも、理解していた。
「
それでも、手放したくない。
夢はいつか醒める。
それを自分は嫌になるくらいに知っている。
彼は自分が突き放した先で、過去を綺麗に白紙に染めて幸せになっていた。リーファが
それでも。
【会いたい人がいるから、死ねない】
【その言葉を口にしたという記憶自体は、俺の中にはない。だが、その言葉を俺が口にした時に抱いたであろう覚悟は……『俺は何としてでも生き延びなきゃなんねぇ』っていう執着は、消えることなくここにある】
……それでも自分は、他ならぬ『彼』自身から、その言葉を聞いてしまった。
月光が注ぐ晴天雨の夜。真っ赤な花嫁行列の中。
何の因果か、十年前と同じ状況でつかの間正気を取り戻した自分は、あの時と同じ思いを抱えて行列の中から飛び出した。
今しかないと、本能で覚った。あの瞬間を逃せば自分は、『リーファ』を取り戻せないまま彼の前に立つことになると分かっていたから。
だから死力を尽くして、あの闇の中に飛び込んだ。かつて少年を突き飛ばした闇の中へ、今度は自分が飛び込んでいった。『必ず後から僕も行く』という約束を、十年越しに果たすために。
──醒めなければ、良かったのに。
幸せな夢を見ていた。
その夢を破ったのは、煙の向こうにいる『彼女』の手勢なのだろう。
「……」
ポロポロと、頬を涙の粒が転がり落ちていく。だが
──あの光景は、僕を叩き起こすために用意されたものだった。
彼女達は、リーファがここにいることを知っている。『
あの光景が、リーファの意識の引き金になっていることを承知していたから。
同時にあれは、『レン』の潜在意識への調査も兼ねていたのだろう。彼の中に『レン』の記憶が残っていれば、あの光景は決して反応せずにはいられないものであったから。
「蓮」
そっと、その名を呼んでみる。
「蓮、レン、……
リーファ……『
この体は、
リーファをここまで痛めつけたのは、
あの光景によって引っ張り出されてきたのは、毒花による壮絶な『調教』の記憶だった。リーファの意識を瞬時にグチャグチャにする恐怖と痛みは、
「……ねぇ、レン。それでも、僕はね」
北の繁都、
その毒花が隠し持つ『兵器』の中でも、屈指の凶刃。
茉莉花を焚きしめた血染めの花嫁装束を纏う暗殺者。
自分がそう呼ばれている存在であるということを、
それでも、なお。
「まだ、この夢の中に、いたいな」
ボロボロと涙をこぼしながら、
「『
【お前が俺に拾われる前に何者であったとしても、今のお前はもう霜天商会の
その言葉を、真実にしたい。
たとえ己がその言葉をくれた当人を殺すために用意された存在であったとしても。
その役目を放棄すれば、今まで与えられてきた存在意義を全て否定することになると分かっていても。
それでも。……それでも。
「ねぇ、蓮」
僕が『
だから。
「僕が
外衣を握りしめる指先が、力のこもりすぎで震えていた。ボロボロととめどなくこぼれ続ける涙は、止まる気配を見せない。
「僕を傍に置いて、笑いかけてくれる……?」
夜明けの気配は、まだ遠い。
自分だけを世界から切り取るかのような闇の中で、『リーファ』は独り泣き続けた。
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