第18話
まっすぐ帰るのかと思ったが、まだ開いている階下のレストランに寄った。
「肉のハーフコース。
ワインは軽めの赤で」
メニューも見ずに御津川氏が注文をする。
「ラウンジでも軽い料理は出ているが、あれじゃ足りないだろ?
もっとも、緊張でろくに食べられなかっただろうけど」
注がれた、食前酒のシャンパンの入ったグラスを軽く上げ、ニヤリと彼は右の口端を持ち上げた。
「……うっ」
事実なだけに、なにも言い返せない。
ススメられて少しは摘まんだが、それよりも御津川氏に向かう熱い視線と、私に向かってくる興味津々の視線に落ち着かず、食べた気がしなかった。
「まあでも、これで李亜は俺の妻だって知れ渡ったから大丈夫だ。
レジデンスのジムやなんかもこれからは積極的に使えばいい」
「あ……」
知って、いたんだ。
レジデンスにはちょっとした公園規模の中庭の他、プール完備のジムまである。
彼からはなにも言われていなかったから、利用したくてもできずにいた。
「ありがとうございます」
「なんで李亜が礼を言うんだ?
もっと早く俺が、李亜を連れて行くなりしとけばよかったってだけの話だ」
くぃっ、とシャンパンのグラスを空け、彼が前菜のサーモンを口に運ぶ。
けれどその眼鏡の弦のかかる耳が赤くなっているのに気づいてしまった。
「……ありがとう、ございます」
私は、彼に金で買われた妻だ。
しかもまだ知り合って五日だが、彼が私を愛してくれているのはわかる。
……どうしてかはわからないけど。
そのうち私も、彼を好きになるのだろうか。
「まあ、これからはなんでも好きにすればいい。
でも……絶対に最上階にだけは行くなよ。
あそこには東峰さんが住んでいるから」
ナイフフォークを置き、彼が眼鏡の奥から私をじっと見る。
「……はい」
その真剣な目に、私も重々しく頷き返した。
今日のあれを見れば、東峰さんとは極力、関わらない方がいいのはわかる。
「あの、東峰さんってどういう方なんですか」
関心がある、というよりも今後、彼になにかしてしまわないように情報が欲しかった。
年は私と同じくらいに見えたが、そのオーラはすべての人間の上に君臨する絶対支配者そのものだ。
「言っただろ、東峰さんはヒルズのボスだ。
ここを所有している旧財閥家、東峰の次期当主。
将来、政財界を背負って立つお方だ」
そんな人にあんなことを言って、大丈夫なんだろうか。
なにか制裁など受けたりしないんだろうか。
しかし私のそんな心配をよそに、御津川氏はなんでもないように食事を続けていた。
「私ごときのために、東峰さんから反感を買うようなことを言ってよかったんですか」
「別に?
俺は、俺のものを莫迦にする奴を許さない。
たとえそれが、東峰さんだろうがな」
顔を上げた彼と目があった。
まっすぐに私を見つめる、レンズの向こうの瞳には一点の曇りもない。
「李亜は、特に大事な俺のものだ。
李亜のためならなんだってする」
伸びてきた手が、するりと私の頬を撫でて離れた。
眼鏡の奥で目尻が下がり、眩しそうに彼は私を見ている。
その顔に。
……心臓がとくん、と甘く鼓動した。
それは、とくん、とくん、とそのまま、少し速いリズムを刻み続ける。
それがなんだか……くすぐったい。
こんなの、鈴木と付き合っていたときには感じなかった。
「ほら、さっさと食ってしまえよ。
俺は明日も、仕事なんだからな」
誤魔化すように笑った、彼の顔は酔ってしまったかのように、ほのかに赤かった。
ほろ酔い気分で、レジデンスに帰る。
「一緒に風呂、入るか」
もう日課のように御津川氏が訊いてきた。
「そう、ですね……。
いい、ですよ」
「え?」
もう、断られるのが前提で寝室を出かけていた彼が足を止め、勢いよく振り返る。
「本当か!?」
一気に距離を詰めた彼から両手を取られ、さすがに酔いが覚めたかのように現実に戻った。
「あー……。
冗談です、冗談」
ヘラヘラと笑い、前言撤回を試みる。
「……なんだ。
残念」
それ以上なにも言わず、彼は今度こそ寝室を出ていった。
「うーっ」
ひとりになり、ぽすんとベッドの真ん中にダイブする。
正直に言えば酔った勢いか、御津川氏と一緒にお風呂に入っていいくらいの気持ちにはなっていた。
しかしながら期待を込めた目で見つめられ、なんかこう、……ね。
「愛してる、か」
彼はよく、私にそう言う。
大事にしてくれているのもわかる。
……でも、確実になにかを隠している。
「なにを、隠しているんだろう……」
御津川氏と知り合ってまだ五日。
それでわかり合うなんて無理に決まっている。
これから少しずつ理解していけばいいし、そうなればそのうち、話してくれるかもしれない。
「悪い人じゃないから、大丈夫だよ……」
疲れているのか、少しずつ眠気が襲ってくる。
まだ、お風呂に入っていない。
眠っちゃダメ、とは思うものの、瞼は重くなっていく。
「李亜?」
そのうち、お風呂から上がったのか、御津川氏の声が聞こえてきた。
返事をしなくちゃ、とは思うものの、もう声は出ない。
「寝たのか?
今日はきっと、疲れただろうしな」
彼が、器用に私の下から掛け布団を抜き、あたまの下に枕をセットしてそれを掛けてくれる。
「おやすみ、李亜。
俺の大事な、大事な李亜。
愛してる」
ちゅっ、と彼から落とされた口付けを最後に、心地いい眠りへと落ちていった。
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