口止め料サイダー

小坂あと

第1話





























 湿気を帯びた真夏の気温が肌にまとわりつく。


 汗は滲むようにぽつり、ぽつりと浮き出ては、そのまま頬を伝って顎の先から水滴となって、落ちていった。


 蝉時雨が教室内全体に鳴り響いて、音の出処は窓の外なはずなのに、耳元で鳴かれてるみたいに五月蝿い。


 誰もいない放課後の教室は、蝉の鳴き声以外は妙に静かで、この世界に私ひとりしかいないんじゃないか。そんな馬鹿げたことを思わせる。


 よく耳を澄ませば、まだ校内に残っているのであろう生徒達の声が、遠く遠くに聞こえた。


 もう夕方なのに、空は明るい。このまま日が沈む事なんて無いんじゃないか。そう思わせるくらいには、青く澄んだ空が視界の隅に広がっていた。


 そんな放課後の教室で、私は何をしてるかと言うと。


「……んふふ」


 自分の手の中にある白い布⸺体操着を見下ろして、思わず笑みが溢れた。


 ずっと前から狙ってた。


 今こそ日々の鬱憤、欲望を晴らす時が来たのだ。


 高揚感と緊張感からゴクリ、とツバを飲み込む。


 一度、軽く深呼吸。少し鼻で息をしてみれば、今日はよく匂いが分かる。

 

 鼻は詰まってない。コンディションはこの上なく万全、まさに今日この日のために鼻通りを良くしたと言っても過言ではない。


 私は息を大きく吐き出して、


「ん…」

 

 体操着に鼻をつけて、今度は大きく吸い込んだ。


「ふぁああ…めっちゃいい匂い…」


 もちろんお気づきの方もいると思うが、これは私の体操着ではない。


 この体操着の持ち主は、同じクラスのギャル。たちばなさん。


 いつもいつも学級委員長である私の言うことを聞いてくれない腹いせに……本人には何もできないので、こうして体操着を陵辱してやるのだ。


 これが度胸も勇気もない私のできる、精一杯の仕返しなのである。


 しかも今日は、6限目に体育があった。つい少し前まで着ていたこの体操着は、ほんの少しだけ柑橘系の爽やかな香りに混じって汗の匂いもする。


 しかし、まさか体操着を忘れるなんて。この私に隙を見せるとは、橘さんもまだまだだな。


 ただ体操着の匂いをひたすら嗅いでるだけの私は、それでも気が大きくなってそんな事を思う。


 それにしても…ほんといい匂い。


 香水か何かなのかな…いつもそばを通るたびに気になってたけど、こうして直接嗅ぐとその香りの良さがよく分かる。


 …ギャルのくせに。なんでこんな、清楚系みたいな匂いがするんだ。ほんのちょっとだけ、不満に思った。


 だけど、私はこの香りが大好きだ。橘さんのことは苦手だけど、これは一生嗅いでいたい。


「……もう持ち帰ろうかな」


 なんて、私が血迷った発言を呟いた時。


 ガラリ、と。


 教室の扉が開いた。


「……」

「……」

「……なにしてんの」


 数秒、時が止まる。


 止まった時間を動かしたのは、無感情で低い⸺橘さんの声だった。


「え。あ…いや、橘さんこそ、まだ帰ってなかったの」

「忘れもの取りに来た」


 戸惑いと羞恥で脳内ぐるぐるな私に、なんでもないような感情のない声が返ってくる。


 まずい。


 今手に持っている、なんなら顔を擦りつけていたこれを、橘さん本人の物だと気付かれるわけにはいかない。


「わ、忘れものって?」

「体操着」


 詰んだわ。


 あ。もうこれだめだ。


 言い逃れも何もできない状況に固まって、体操着をそっとおろして背中の後ろに持っていく。


「……不二ふじ

「う、うん?な、なに…?」

「それ、返してくんない」


 ですよね。


 バレますよね。


 今さら背中の後ろに隠したところで、そりゃ気付かれますよね。なんなら逆に怪しいですよね。


 心の中で懺悔と後悔をして、橘さんの前に体操着を差し出す。


「す…すみませんでし」

「なにしてたの」

「……」

「おい、顔そらすな」


 そりゃ顔も逸らします。こんな状況で相手の目を見て話せるほど、私は強い人間ではありません。


 くそぅ…よりにもよって、なんで本人登場なの?


 いくら後悔しても目の前に天敵である橘さんがいる事実は変わらない。変わらないので、諦めて頭を下げる。


「……匂い、嗅いでました」


 正直に言うと、「ふはっ」と橘さんが耐えかねたように笑った。


「なに?不二って、変態だったの?」


 顔を上げると、心底楽しそうな笑顔が目に映る。……くそ。悔しいけどかわいい。


「匂い嗅ぐとかウケるんだけど。なんなら直接嗅いでいいよ、ほら」


 そう言って、橘さんは悪戯っぽくブラウスのボタン部分を軽く引っ張って、胸元を見せてくる。


 ギャル、エッッッ……そんな事が頭をよぎった。


「っそ、そういうんじゃ、ないから」


 本当はめちゃくちゃ嗅ぎたい。今すぐにでもその胸元に飛びつきたい。…なんてことは出来ないので、誤魔化すように顔を逸らす。


「ははっ、冗談だって。せっかくだし、今日一緒に帰ろーよ」


 軽快で呑気な声で言って、橘さんはスクールカバンに雑な感じで体操着を詰めた。


 私は断る理由を見つけられなくて、一緒に帰ろうという提案に頷くことしかできなかった。




「いやぁ…暑いね。夕方だってのにさ」


 昇降口を出てすぐ、少し薄くなっていた青色の空を見上げながら、だるそうに橘さんが呟いた。


 私は「そうだね」と軽い返事をして、先を歩くその後ろ姿を追いかける。


 校門を出て、帰路に着く。どうやら橘さんも同じ方向らしい。


「喉乾いた。不二、なんか買ってよ」

「なん、で…私が」

「口止め料」

「は?」


 自販機を見かけた橘さんはそんな事を口にして、にっこりとこれまた悪戯な笑みを浮かべた。


「買ってくれなきゃ、体操着嗅がれてたこと…言っちゃうかも」


 …本当にやらかした、と思う。


 この先、私はこうやってパシリにされる運命なんだ…。あぁ、あの芳しい香りの代償がこんなにも大きいだなんて。知ってたら嗅がなかったのに。


 後悔先に立たず、をまさに体現したであろう私は、しぶしぶ鞄から財布を取り出して自販機の前へ向かう。


「わたし、これがいい」


 いつの間にやら私の斜め後ろに立っていた橘さんは、私がお金を入れてすぐ無遠慮に自販機のボタンを押した。…ギャルつええ。


 ガコン、と音がして、ペットボトルが落ちてくる。


「…はい、どうぞ」

「ありがと」


 それを手にとって渡すと、満足したような笑顔が返ってきた。


 橘さんが選んだのは、サイダーだ。


 プシュ、と気持ちのいい破裂音がして、蓋が開く。


 サイダーを喉に通す首元は汗が垂れていて、なんだか夏の空気とよく似合った。


「っぷはぁ、うんま!最高」


 刺激の強い炭酸の後味に目をパチクリさせながら、橘さんが笑った。


 白いわけではない健康的な肌の色と、汗と、サイダーが、夏の青い空を背景に溶け込む。


 なんだか、無邪気な笑顔が眩しく映った。


「不二も飲んでいいよ」


 ずい、と目の前にサイダーを差し出されて、私は咄嗟に両手の平を前に出した。


「っわ、私はいい」

「なんでよ。喉、乾いてないの?」


 だってそれ飲んだら間接キスじゃん!…とは言えない。変に意識してるのがバレたら、またさらに口止め料を払うことになりそうだ。


「ま、いいけど。それよりさ」


 今度はサイダーの代わりに、橘さんの顔が近づいた。


「次は、ほんとに直接嗅がせてあげる」


 耳元で、小悪魔みたいな声が響く。


 どくん、と心臓が跳ねて、五月蝿い。


 全身に熱い血が巡って、一気に体温は急上昇した。


「っな、え…?」

「楽しみにしてて」


 顔を離した橘さんは、にこりと無邪気な笑顔を見せた。


 蝉時雨がかき消されるほどうるさくなった心臓が落ち着かない。


 顔がどんどん熱くなって、赤くなっていくのが分かる。


 やばい。楽しみすぎる。


 冗談だと分かっているのに期待してしまう自分が憎いような気持ちになって、夏の蒸し暑い空気の中にため息を吐き出した。


 だけど後日、約束通り直接嗅がせてもらったのは、またの機会にでも話そう。

 

 


















 

 

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