〈終章〉かけがえのないもの


「もうすぐ桜の季節ですね」

「えぇ……」

「ここからなら満開の桜が見られますよ」


 朧気おぼろげな意識の中、看護師さんが話しかけてくれる。段々あやふやになる記憶は、辿々たどたどしい意識の海に……溺れていく。


 短かった人生の最期。


 蘇る花火のように舞い散った一瞬の青春は私にとって本当に、最初で最後の恋になった。


 白い天井……蛍光灯の線が、ぼやけていく。


 次の桜は、見られそうにない。


 先生とはあれきり……あの日、願った未来とは、かけ離れた未来に来てしまった。


 一緒にいたかった、出来るなら一日でも長く。


 先生……今もあの場所で、笑っているでしょうか……あの頃のように、たくさんの生徒に囲まれて、笑顔で暮らしているんでしょうね。


 私にとって先生との日々はかけがえのない大切な想い出。幸せでした……先生の記憶の中に私が残らなくても。


 先生の、これから先も長く続くその人生が幸せなものでありますよう、祈りをこの風に乗せて、逝きます。


「神崎さん! 神崎さん! 」


 もし一つだけ、願うことがあるとしたら……満開の桜があの場所に咲く時、私と先生が出逢ったあの季節に一瞬だけ、あの部屋で本を読む、生徒がいた事を思い出してください。


「神崎さん、聞こえますか! 先生! 先生、すぐ来てください、神崎さん急変です!! 」


 先生……懐かしい響き。


 桜が咲く時……一度だけでいいから。







 不思議な感覚だ。この教室の隅の席に今日は彼女が座っている気がした。いつかのように景色を眺め、もの思いにふけっている。


 2-E、かつて彼女が過ごした教室だからだろうか。あれから何年か経って彼女……史織の事をおぼえている人はもう誰もいない。


 あの部室も、もう使われてはいない。


 行かなければ。


 授業後、あの頃と同じ時間、久しぶりに走った。急げ……訳もわからずあせらされ、満開の桜には目もくれず部室へと向かう。


 「史織……」


 気づけばそう呼んでいた。心の中でずっと呼び掛けてきた、その名で。


 生徒との出逢いは、長い人生の一時ひとときを高速で行き過ぎていくような物、その流れを止める事も追う事もできない。最近は苦にもならなくなった。


 でも彼女は……彼女だけは引き留めたかった。伝えて彼女の人生をどうしたかったのかわからない。


 惑わせるな……か。


 あの後、佐藤に言われたな。


 鍵を開けると、埃臭ほこりくささに思わずむせる。窓を開けると春の匂いと陽射しが眩しい。


 ざわっと吹く春風に乗って桜の花びらが一枚、ひらりと手に降りてきた。


「先生」


 彼女の声が聞こえた気がした。


〈終わり〉

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