第36話

「あのね、ここからはただの…エレノアとしての言葉よ」


 オズの憂いに似た月のような瞳を見ると、どうにも離れがたくなる。己の立場をわきまえ、本来であれば王都に戻り、“大地の姫君”としての役割を果たせばならぬというのに、エレノアのそれはまさしく私情であった。


 憎いはずの人間であるというのに、同胞を殺めてまでエレノアを救った。エレノアにとってはそれが悲しく、そして形容しがたくも温かかった。


「魔族の民が植物や音楽を愛でているように、あなたはきっと、心優しい。そして誰よりも本当は…傷ついている」

「…」

「人間を憎む理由をきくのは、まだ少し、怖い。だって、私は祖国を愛しているもの」


 霧に包まれた深い森の中は太陽の光が届かない。光る鱗粉を振りまき、ひらひらと飛んでいる蝶。ここには、永遠の夜の世界があった。


「でもね、あなただから……。あなたが伝えてくれたことなら、どんなことも信じたいとも、思っているの」


 オズは黙ったままエレノアを見つめた。そしてやがて、再び彼方へと目をやる。

 こみ上げてくる気持ちが何であるかをエレノアは理解できぬままであった。


「――かつて」


 ざわざわと木々が薙いでいたが、ふいに風がやむ。オズの声は森の中でよく響く。魔族の亡骸は灰となり、森の中に還っていった。


「森の深みへ追いやられた我らに、“太陽のもとでともに暮らそう”と、手を差し伸べた人間がいた」


 さらにオズは言う。


「先王は、これを信じた。争いをやめ、平和を目指そうと。民の瞳にもまた、希望が宿った」

「それは、」

「俺がまだ、力なき幼子であった頃の話だ」


 それは何十年、いや、何百年前の話であるのか。エレノアはオズの横顔をただ見つめた。


「人間は、約束をした。女神は、平和を望んでいる。だから、もう奪わぬと」

「ええ」

「先王は、求めた。生命の源を分け合うのなら、人間を食わぬことを約束すると。人間は、これに頷いた。であれば、魔族の民も客人として歓迎しよう、と」


 満月のような瞳に浮かぶのは、悲しみと怒り。果てのない闇であった。エレノアはそっとオズの手を握る。


「我らは希望に満ち、太陽の下に赴いた。――だが、待ち受けていたものは、途方もない鉄の雨であったのだ。不意をつかれた我らは、退路を断たれ、先王もろとも――無差別に殺された」


 ――ひどい、と口から洩れそうになる。

 さらにいえば、先王はおそらくオズの父君であるのだろうことは容易に推測できる。それだけでなく、同胞を斬殺された記憶はオズの闇を一層に深めていたのだ。


「甘言だった。謀られた。生き残ったのは、己のみ。あの日、我らの尊厳は踏みにじられ、すべてを失った。だから、憎い」

「…オズ」

「皆殺しにすると、誓った」

「だけど、私を助けてくれたわ」

「ああ」

「いいえ、それだけじゃない。きっと、私がこの森で迷わないようにしてくれているのは、あなたでしょう?」


 サンベルク帝国の皇女であるエレノアが謝罪をすれば事足りるものではない。だが、エレノアはオズに憎しみだけを抱いてほしくはないと思った。


(では…たとえば、どんな?)


 憎しみ以外の感情。悲しみ以外の感情。もっとあたたかな――愛情。


「私ね、生まれてから十六になるまでずっと、外に出たことがなかったの。だから恥ずかしい話、世界の素晴らしさも恐ろしさも、悲しみも、何も知らなかった」


 狭い部屋の中で過ごす日々は寂しかった。小さな窓に浮かんでいる月を眺めて、夜はしっとりと泣いていた。父や母に甘えたいなどと思ってはいけない。己は、サンベルク帝国の皇女なのだから、と。


「だけど、あの日、傷だらけのオズに出会って…たくさんの気持ちをもらったわ」

「そうか」

「ねえ、オズ」


 ――優しくしたい。

 ――あたたかな言葉をかけてやりたい。


 己の立場や使命などを取っ払って、エレノアはただの人間の女として願った。

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