第20話

キャロルはひだまりのような笑みを浮かべる。


(心から誰かを愛する…)


 エレノアはまだその気持ちが分からない。父であるサンベルク皇帝に向ける敬愛のそれとも違うのだろう。母の胸に抱かれた記憶もないエレノアにとっては、おそらく、いまだかつて抱いたことのない感情であった。






 太陽がさんさんと降り注ぐ。エレノアは愛馬を走らせ、サンベルク帝国の国境外にあるイェリの森の前にやってきた。


(思えば私、帝国の外にいるのね…)


 エレノアはサンベルク帝国の外の世界がどうなっているのかなど考えもしなかったのだ。離宮に置いてあった書籍はサンベルク帝国内のものがほとんどであり、エレノアにとっては帝国の事物がすべてであった。


 いざこうして辺りを見回してみても、帝国の領土内と外の世界とではこれといって変わったものはなかった。内も外もない。魔族が住む世界も、人が住む世界も、区別なく混ざりあって存在しているようだ。


「今日もちゃんとオズに会えるかしら…」


 いざ森の中へと入ると、生き物のように霧が立ち込める。先ほどまで照り付けていた太陽も、うねるように生えている木々により遮断される。

 森の外は温暖であるというのにもかかわらず、中に足を踏み入れるといっきに肌寒くなる。


 愛馬は依然として怯えているようだったが、エレノアは違う意味でどきどきしていた。


 森は行く手を阻む。そして人間を決して森の外に戻さない。だが、入り組むような小道を進んでいると、不思議なことにまたあの小川の畔にたどり着くのだ。まるで導かれているかのように。


 夜のように薄暗い森の中、きらきら光る鱗粉をまとった蝶が飛んでいる。その幻想的な風景に目を奪われていると、大きなクスノキの下に美しい黒を見つけた。

 静かに瞳を閉じている魔族の男。オズだ。


「また寝てる…」


 エレノアは愛馬から降り、サンドイッチが入ったランチバックを持ってオズに近寄った。顔色もずいぶんと良好なようで安堵をした。


「起こしてしまうのは申し訳ないわね…」

「…」

「ねえ、本当に寝てる?」


 返事はない。

 顔を覗き込んでも反応がなく、エレノアはしばらくこの美しい獣の寝顔を眺めた。


(この翼……少し触ったら怒るかしら)


 エレノアはひそかにオズの黒翼に触れてみたいと思っていた。やわらかそうで、あたたかそうで、興味があったのだ。

 恐る恐る手を伸ばすと、くあ、とオズの眼が開いた。


「――何だ」


 エレノアは瞠目し、その場で固まる。伸ばしかけた手を止め、冷え冷えとしたオズの瞳に心を奪われた。


「お、起きていたのね」


 殺伐とした、けれど物寂し気な雰囲気。黒光りした漆黒は、何度見てもこの世の神秘であるようだ。エレノアは今日もオズに出会えたことがうれしくて仕方がなかった。“また明日”と約束をこぎつけたものの、人間であるエレノアの言葉をきく道理はなかったからだ。


「起きていたら、悪いのか」

「…わ、悪くないわ。その、いきなり目を開けるものだから驚いてしまって」


 けれど、オズは今のところはエレノアを食うつもりはないようであった。一昨日、昨日と比べても警戒心は解かれているようだ。

 ちらりとエレノアを一瞥すると、オズは再び目を閉じてしまった。


「よかった。傷はだいぶ治ってきたみたい」


 エレノアは荷物を地面の上に置き、オズの隣へと駆け寄る。傍らにはエレノアが手渡したマントが畳んで置かれている。

 あれほど人間のことが憎いと激憤していたオズであるのに、マントを挽き破らず、また、燃やしたりせずに置いてくれていたことがエレノアはうれしくてならなかった。


「魔族の治癒力は凄まじいけれど…あまり無理をしてはだめよ?」


 そしてエレノアは何故かこの魔族の男が気がかりでしかたがなかった。世話焼きの質ではないはずだったが、どうにも危なっかしくて放っておけないのだ。オズには、宿願のためであればいつ命を落としても構わないという気配すらあった。


「杞憂だ」

「でも」

「何故、人間のおまえが気をもむ 」


 オズがうっすらと目を開けた。きらきらした満月のような瞳を見ると、エレノアの身が粟立った。


「心配をしてはいけないの?」


 オズには、他者を視線だけでひれ伏させるほどの圧倒的な存在感がある。静かに、そしてたしかに闇の中に存在している影のような男。エレノアは、怒りで自らを奮い立たせるような生き方を、この男にはしてほしくないと思った。

 周囲に優しい者がいないのなら、エレノア自身がオズに優しくしてあげたいと望むほどに。


「それに、人間も魔族も……関係はないと思うの」

「つくづく浅慮な娘よ」

「私はただ、あなたにこれ以上傷ついてほしくない。ほんとうに、それだけ」


 汚れた包帯を取ってやるため、オズの胴体へと手を伸ばす。オズは嚙みつくことはしなかった。喉元を搔き切ることもしなかった。ただ無言で受け入れ、やがて両手を合わせて祈るエレノアを静かに眺めた。

 青白い、やわらかい光。エレノアが祈るとオズの傷口に温かさが広がる。不思議と嫌悪感を抱くことはなかった。


「――どうかこの者にご加護を」


 エレノアが祈れば、女神オーディアは答えた。たとえ魔族相手であっても等しく手を差し伸べてくれる。

 大地のしみ込んだ女神オーディアの血液が、“大地の姫君”であるエレノアの声に反応しているものだと学んでいたが、それ以外にも尊き加護を授かる方法があったようだ。


 元気になってくれてよかった。命の灯が消えなくてよかった。

 そう思う反面、自由に動き回れるほどに回復をしたら、オズはここに留まる必要はなくなる。そうすればもう二度と会話ができなくなってしまう、と途端に気落ちをしてしまいそうになった。


「ねえ、オズ」


 声をかけると、寂寂たる瞳が向けられる。決して心から気を許されているわけではないことは理解していた。けれど、少しは受け入れてもらえているのではないかと期待をする。


「よければ私、オズのこといろいろと知りたいの。好きなものとか、苦手なものとか」

「くだらぬ」

「くだらなくなどないわ! きっと…そうね。とても素敵なことよ?」

「理解ができぬ。知ったところでどうなる」


 嫌そうに眉を顰めるオズだが、エレノアは強引に迫った。どうしても知りたかったのだ。この男が何を愛し、何に恐れを抱くのか。


「私とオズのつながりが、きっと深くなるわ」


 ――どうして、これほどまでに吸い寄せられるのだろう。


「私、こんなことはじめてなの。あなたはとても綺麗で、そうね、まるで暗い夜の中の月のよう。小さい頃に何度も見上げた、あの眩しくて儚いお月さま」

「…」

「寂しい夜に、月は私のそばにいた。語りかけても何も返してはくれなかったけれど、たしかにそこにあったわ」


 子どものころ、一人で眠るベッドは寒くて寂しかった。不安で、怖くて、眠れずに泣いていると小さな窓に浮かぶ月があった。エレノアは勝手に、月と己をふたりぼっちであると考え、安堵して眠りについていたのである。


「あなたは魔族で、恐ろしい存在だと理解はしている。これが浅はかな行為であることも。けれど、どうしても…どうしても、あなたのこと、知りたい」

「食われるかもしれぬのに、か?」

「そうね、でも、当分は私を食べるつもりはないのでしょう?」

「…小生意気な娘だ」


 オズはエレノアを排斥することはなかった。美しい黒翼を休めている魔族の隣にちょこんと腰を下ろしている人間の少女。クスノキの下で流れる霧を眺めていると、エレノアは思い出したようにランチバックを持ち出した。

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