第67話

このような時に不謹慎かもしれない。いや、無事に生き延びたからこそ、ほんの少しの時間さえも惜しくなる。


 蓮華が立ち上がろうとすると、千桜が静かに制してくる。


「渡したいものとは、これだろう」


 するとどうして、文机の引き出しから見覚えのある小袋が出てくるではないか。蓮華は訳も分からずに狼狽した。


「ど、どうしてそれを!」

「出立時に、形見だと言わんばかりにはな子から手渡された」

「は、はな子さんったら!」

「一度受け取ってしまったが、もう一度お前の手から渡してくれるか?」


 千桜は眉を下げて小さく笑った。普段は少しも口角を上げないのに、と蓮華の胸は熱くなる。


 ハンケチが入った小袋が蓮華の手元に戻される。近頃蓮華の心臓は可笑しいのだ。千桜を思うと、異常なほどに脈を打つ。


「……だ、旦那様」

「ああ」


 伝えたいことがたくさんあったはずだ。はじめて、人のあたたかさを知った。はじめて、想われることを知った。今の蓮華には、千桜に向けるこの気持ちの正体が理解できている。


「これからも、ご迷惑をたくさんおかけするかもしれません。今回の件も、私の安直さが招いたこと。本当にふがいない人間で、とてもじゃないけれど旦那様のようなご立派な男性には釣り合わないでしょう――しかし」


 どうしても、譲れない。


 ――はじめて、欲を抱いた。


「私はおそばにいたいのです。今は釣り合わなくとも、努力をして、いつか……そんな旦那様の隣に堂々と並べるような女性になりたい。そんな夢を抱いてしまっているのです」


 大正の世の混沌を象徴する楽園で、蓮華と千桜は出会った。その出会いは偶然か、それとも花の神の導きか。


「そ、その、わ、私は」

「……ああ」

「私は、小鳥遊千桜様を心から……お慕いしております」


 伝えると、千桜が優しく微笑む。顔が燃えるように熱くなったが、つられるようにして、蓮華の口元も緩んだ。


 これは、優しくあたたかい愛を知る話。


 庭先に咲く桜の花びらが、ひらひらと舞い降りた。



【完】

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