第二章 優しい日々

第19話



 千桜との縁談は、婚約という段階で落ち着くに至った。


 正式な祝言をあげる日まで、蓮華は、小鳥遊家の家令から淑女としての指導を受けることとなる。


 小鳥遊家の朝は、巴家と異なりとても静かだ。

 蓮華は基本的に毎日、千桜と向かい合って朝食をとる。その間、とくに会話らしいものはなく、千桜も蓮華も黙々と箸を進めるのみだ。


 蓮華には、‟何もしない‟というこの生活がどうにも、肌になじまない。千桜の着替えの手伝いを申し出たが、淡泊に却下された。


(これでは、何のお役にも立てていないわ)


 千桜が手早く身支度を整えると、蓮華は玄関先まで見送りに出る。品格ある軍人の制服。ひとつに結わえられたしなやかな髪。桜色の左眼は、横に流している前髪で今日も隠れている。


 千桜は、左眼をひた隠しにしているわけではないようだった。むしろそうしたいのならば、四六時中眼帯をつけるところだ。


 だが、千桜はそこまではしない。あくまでもはじめて目にする者を驚かせぬようにと見せていないだけ。それから、眼のことでいちいち騒がれるのも鬱陶しいのだという。


 蓮華は、傀儡のごとき虚ろな目で千桜を見つめた。千桜の視界に、蓮華の姿が映り込む。


「夕べは遅くまで灯りがついていたようが」


 その場にぼうっと立ちつくしていると、千桜がため息交じりに声をかける。

 蓮華ははっとして頭を下げた。思い当たる節があったのだ。


「ごっ……ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」

「いったいなぜ謝る。だがそうだな、勉強熱心なのは褒めるべきだが、ほどほどにしておけ」


 蓮華は夕べ、遅くまで読み書きの勉強をしていた。遅くまで灯りをつけていては、かえって千桜の睡眠の妨げになったのではないか、と蓮華は猛省した。


「橘から聞いている。読み書きがずいぶんとできるようになったと」

「……いえ、物覚えがわるく、橘殿にはご迷惑をおかけしております」


 千桜はよく夜更けまで文机に向き合い、小難しい書類に目を通している。蓮華はまだ漢字が思うように読めないため、何が書いてあるかは分からなかった。


「そうあまり自分を下げるな。よく努力している」

「いえ、あの……申し訳ございません」


 蓮華はなんとかして千桜の役に立ちたかった。軍人将校の妻とは、何をすべきか。


 役目を果たさねば、いつか捨てられてしまうかもしれないからだ。


 家令から預かっていた弁当を千桜に手渡す。


「蓮華」


 千桜に名を呼ばれると、蓮華は形容しがたい気持ちになる。


 弁当を受け取った千桜は鞄の中にしまい込むと、踵を返しながら横目を向けてきた。


「今夜は、なるべくはやく帰宅する」

「……はい」

「では」

「いってらっしゃいませ、旦那様」

「ああ、行ってくる」




 

 見送りを終えると、蓮華はしばらく玄関先で立ち尽くす。


(何か、何かしなくては……)


 買い与えられた着物は、蓮華にとっては上等すぎる。今すぐにでも割烹着に着替え、家中の掃除をさせてもらいたかったが、千桜はこれを許してはくれない。


 蓮華は自室に戻ると、文机の前に腰を下ろし、読み書きの勉強にいそしんだ。


「蓮華様」


 すると、襖の奥から呼びかけがある。


「はい……どうぞ」

「失礼いたします」


 襖の向こう側には家令が控えていた。


「本日は、お天気もよいことですし、縁側にてお花のお稽古にいたしましょう」


 蓮華はかしこまって姿勢を正す。


「承知いたしました。本当に、お手数ばかりで申し訳ございません」

「いいえいいえ、蓮華様は飲み込みがはやくて、むしろ助かっておりますよ」


 それでも蓮華の胸の内は鬱々としていた。何の後ろ盾のない己が、しかも世間的な恥さらしである非嫡出子の己が、本来跨いでよい敷居ではない。


 千桜も家令も親切にしてくれているが、蓮華は日々居たたまれない気持ちであった。


 日本家屋の広い廊下を進んでいく。蓮華が輿入れをしてから一週間ほど経過したが、今のところ使用人以外で小鳥遊家の人間を千桜以外に見かけていない。


(お父上やお母上とは、別居されているのかしら)


 同居しているのならば、挨拶をせねばならないところだが。いいや、己を顔を合わせたところで不快に思われるのが関の山だ、と蓮華は思い、じっと床を見つめた。


 縁側にやってくると、中庭の枝垂れ桜が蓮華を迎え入れる。


 ここでふと、蓮華は不可解な事実に気づいた。


(この桜……いつまでも花がついているのね)


 鮮やかなまでの桃色を見つめ、蓮華は考えた。桜の花びらは、開花してから一週間も経てば、そのほとんどが散ってしまうもの。

 だが、小鳥遊邸の枝垂れ桜は、輿入れから一週間経過してもなお満開咲きなのである。


「この桜は、狂い咲きの桜なのです」


 しばらく桜を見つめていた蓮華に気づき、家令がそっと声をかけてくる。


「狂い咲き……」

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