序章

第1話

帝都に構えるダンスホール‟カナリア‟は眠ることを知らない。

 

 美しくさえずる愛玩鳥の名からは到底結びつかぬ華やかさが、そこにはあった。

 春の風に揺れる朧月の下、巴蓮華ともえれんげは絢爛豪華なダンスホールから抜け出し、敷地の外れにある庭園を訪れた。貴婦人たちの高らかな笑い声が遠のくと、とたんに胸が安堵する。


 小さな池のそばには、一本の枝垂れ桜が生えていた。


「……きれいだわ」


 上流階級が集う社交場とは真反対の静寂。桃色の花びらがひらり、ひらり、と風にのって揺れている。

 蓮華はそれをしばし見つめると、幼いころに母親が歌ってくれた唄を思い起こした。


「眠れぬ子よ、ねんねんころり」


 口ずさむと、今は亡きの母親の面影が浮かぶ。


「おはなのかおりで、ねんねんこ」


 優しい人だった、と蓮華は目を細める。池の湖面に朧月が浮かぶ。まるで、混沌とした世界から自分だけが切り離されたような静けさ。

 木々の揺れる音にのって、蓮華の控えめな歌声がこだまする。こうしていると、少しだけ息苦しさが和らぎ、安藤できるような気がした。


 枝垂れ桜の幹のそばで、蓮華がぼんやりと立ち尽くしていた時。


「そこに誰かいるのか」


 まるで春の風のよう。予期せず、謹厳な男の声が割って入った。蓮華ははっと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。


「も、申し訳ございません!」


 敷地の外れであれ、ここは華族が集う社交場である。ただでさえこの場にふさわしくない人間であるというのに、ましてや人目を忍んで唄を歌ってしまった。

 姉たちの耳に伝われば、下品極まりない、ときつい仕打ちを受けるだろう。


 蓮華は俯いたままこの場を去ろうと身を翻す。


(いち早く去らねば。きっと、見苦しいと思われたはず)


 さらに加えれば、上流階級の社交場では洋装が基本だが、唯一蓮華だけが和装だった。蓮華はモダンなドレスなど所持していなかったのだ。


「今に去りますので」

「――待て」


 だが、再び声がかかり、呼び止められる。蓮華は足をとめて振り返る。

 夜風にのって、ひらひらと桜が舞う。


 やがて、月明りに照らされた男の輪郭が浮かび上がった。







「──貴殿の名を教えてくれないか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る