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第3話

私は毎朝6時に起きる。

それは中学一年生の始業式から変わらない。

休みの日も6時に目が覚めないと気持ち悪いというか、もうその時間に体が慣れてしまっている。

何時に寝ても、アラームをセットしてなくても、必ず6時頃に起きてしまう。

今日は秋の平日の6時半。

まだまだ綺麗な高校の制服を着て、私はリビングで新聞を見ながらコーヒーを飲んでいた。

目の前には朝のニュース番組を見ながらお父さんがコーヒーを飲んでいて。

キッチンには朝食を作っているお母さんの姿があった。トーストの焼いたいい匂いが、リビングに広がる。


「学校はどうなんだ?」


新聞を読んでいた時、ふと、お父さんが落ち着いた声で聞いてきた。新聞からお父さんの方へと視線を変えると、お父さんも私を見つめていて。


「どうって?」


「勉強は進んでるのか?」


「うん、もうすぐテストがあるから、それに向けて勉強してるよ」


「そうか、けど、あまり無理するんじゃないぞ?」


「大丈夫」


「何かあったらすぐに言いなさい」


お父さんは軽く微笑むと、視線をまたテレビに戻した。心配性な父と母。

お母さんが作ってくれたサラダを食べている最中、リビングの扉の奥、玄関のほうからガチャンと音が聞こえた。

その瞬間、お父さんの眉間にシワが寄る。


「アイツはまた朝帰りか」


怪訝な声を出したお父さん。


「そうみたいね」


呆れた声を出したお母さんは、いつもの事だと、あんまり表情を変えなかった。

ドスドスと、階段を上がっていく音が聞こえる。


佳乃よしのはアイツみたいになるなよ」


アイツ…。

もうお父さんは、名前も呼ばない。


「うん」


家族の恥らしい〝アイツ〟。

お父さんもお母さんも、よく思ってない。

朝食を食べ終え、用も済ませ、あと5分で家を出ないと行けない時、またドスドスという階段特有の音が聞こえてきた。ガチャっと開けられた扉からリビングの中に入ってきたのは〝アイツ〟

もう両親は仕事に行き、リビングにいるのは私と〝アイツ〟だけ。


「俺の飯ある?」


眠そうに欠伸をしながら、キッチンの方へと入っていく。まだ帰ってきて着替えをしていないからか、リビングの中にフワッと香水が広がった。


「食パンならまだあったよ」


両親が出かけた隙を見計らってか、〝アイツ〟は私に話しかけてくる。両親とは会話という会話をしないけど、私とは両親がいない時は普通に会話をするから。


「焼いてくれよ」


「無理だよ、時間ない」


「はあ?めんどくせぇ」


そんな事を言いながらも、食パンの入っている封を開けて、オーブントースターの中に渋々入れていたりする。


「お兄ちゃん、朝帰り辞めなよ。2人とも心配してたよ」


「あいつらが心配するわけねぇだろ」


まあ、そうだけど。

っていうか今朝は怒っていたけど。


「…ってかシャワー浴びてきてよ、お兄ちゃん臭い」


「うっせーな、後で入るよ」


汗とかそういう匂いとかじゃなくて、香水と煙草の香りが交じるツンとした匂い。

お兄ちゃんは冷蔵庫からペットボトルに入ったアイスコーヒーを取り出すと、それをグラスにつぎシロップを入れた。髪が明るく派手な容姿。見ての通り、兄は不良の一員だったりする。


「お前さ、朝はずっとサラダ?」


「うん」


「他のも食えよ」


「だめだよ、食べれない」


何か言いたいような顔つきをするお兄ちゃんだけど、顔を逸らし、「…悪かった」と謝ってきた。


「まあ、なんかあったら電話して来いよ」


そう言ってくるお兄ちゃんは、なんだかんだ、私には優しいような気がする。


────この街は治安が悪い。

家の近くに学力が低い高校があるせいか、そういう学生があつまる。コンビニだったり、公園だったり、駅前のロータリーだったり。

だからこそお父さんは私がお兄ちゃんみたいに悪くならないように、小学校から私立に行かせた。勉強をして、一般という道から外れないように。

お兄ちゃんも途中まで私立に行っていたけれど、いつの間にか辞めていた。お兄ちゃんは不良になっていた。

お兄ちゃんが通っている高校は、西高校。

サボりすぎているお兄ちゃんが在籍しているのかさえ分からない。

治安が悪いせいか、暴走族とか、そういう団体がいるっていうのは聞いたことがある。

でも聞いただけ。

誰が1番偉いだとか、そんなものは知らない。

私とは、世界が違う人達なのだから。


「すっかり桜散ったねえ〜」


そう言ったのは、高校から仲が良くなった市川唯。唯はエスカレーター式の白鳥高校へ、高校から入ってきた子だった。途中からだというのに学力は高く美人だったこともあり、ちょっとした有名人だ。


「ほんと、今回長かったね」


「そうだよね、去年よりも1週間長かったみたいだよ」


「そうなんだ」


「明日から雨が続くらしいね」


ふふ、と笑った唯の横顔は綺麗だった。

唯の言っていたとおり、翌日は雨が降った。けれどもそれほど激しい雨っていうわけでもない。

傘をさしていれば制服も鞄も濡れることはなくて。まあ、歩けば靴の先が濡れる程度だった。

学校の帰り道、いつものように電車に乗り、運良く座れたイスに座って傘を忘れないようにとしっかりと手に持つ。

中学時代、盗難にあって以来こうして持つようになった傘は、あれから盗まれたことはない。

1番端に座っていた私は、お腹すいたなぁ……と思いながら、膝の上に乗せていた鞄を抱え戻した。──ガタンガタンと揺れていた電車が止まり、とある駅についたのかゾロゾロと電車の中に人が入ってくるのが雰囲気で分かった。

そしてドアの近く、長イスの端に座っている私の横に黒い影が落ちてくるのも分かった。

きっと、私の横に誰かが立ったのだろう。だけどそれは特に珍しいことでは無いし気にすることもなく。あと二駅、家の最寄り駅に着くまでぼんやりとしていたら──……


「おっさん、」


ガヤガヤとした電車の中で、低い声が聞こえ。その声の低さにぼんやりとしていた私の頭が覚醒していくような気がした。

私は決して〝おっさん〟ではないけど、その覚醒させた声のする方へと顔を向けた。

そこには黒い、──真っ黒の学ランを着た、黒い髪をした男性が吊革を持ち私の前に立っていた。私の前に立っているのに、視線は私よりも斜め右側に向けられていて。

その目は、なんだか不機嫌な様子だった。


「あんたの傘、この子のスカートに当たってる」


開いた薄い唇も、声トーンも不機嫌な様子で。どうしたんだろう?と思っていると、「あ、ああ、すまない」と、今度は全く違う、焦ったような声が真横から聞こえた。

聞こえた途端、なんだか黒い影の窮屈感が消えて、ぼんやりとしていた頭が急にはっきりするのが分かった。

その瞬間、あ……と、私の下半身に違和感があるのが分かり。そこに目を向ければ、私のスカートが変色するぐらいに濡れていて。


「気ぃつけろよ」


と、声の低い人が言ったと思えば、そそくさとその場から離れ、逃げるように電車の奥へと入っていく年配の男性の背中を私は無意識に見送っていた。

どうも、あの年配の男性の持っていた傘が私のスカートに当たっていたらしい。そのためにスカートが濡れてしまったのだろう。自分の傘から手を離し、ゆっくりとスカートに手を伸ばせばやっぱり濡れていて……。


「大丈夫か?あいつ逃げたけど、気になるならクリーニング代貰ってくるけど」


顔を上に向ければ、年配の男性を注意した、多分高校生らしい男性がそこにいて。今度は私に話しかけているらしかった。


「え?」


「あんたが望むなら……」


望むなら?あなたが追いかけて?クリーニング代を貰ってくると?


「いえ、大丈夫です。ぼんやりとして、鞄で足元が見えなかった私が悪いので…。気づいてくださってありがとうございます」


頭を下げれば、「あんたがいいなら」と、私ではなく窓の外に目を向けた彼。その窓の向こうは先程とは違い、雨が強くなっていた。

最寄り駅につき電車から降りて改札を出て、家に帰ろうとした時だった。電車の中に傘を忘れたことに気づいたのは。

スカートの濡れた部分を触った時に、いつも必ず持っていた傘を手放したことを思い出した。

ああ、何をやっているんだろう私は。また同じ過ちを繰り返すらしい。

所持金もなく、だんだん激しくなる雨を見つめながら、お母さんの仕事が終わる時間を頭の中で考えていた時、


「おいっ」


先程の低い声が、真後ろで聞こえた。

ゆっくりと後ろに振り向けば、年配の男性を注意してくれた、高校生の彼がいて。

軽く肩を上下させているその人は、1度、ふうと息を吐くと、呼吸が整ったようで。どうやらここまで走ってきたらしい彼の身長は高かった。さっきは座っていたから気づかなかったらしい。

なに?何か用だろうかと彼を見つめた。


「……忘れ物」


そんな彼の手の中には私が電車の中に忘れた傘があって。わざわざ忘れた傘を届けに来てくれたらしい。


「すみません、ありがとうございます…」


傘を受け取れば、「まだいて良かった」と、彼が微笑むから。さっきの鋭い目が柔らかくなったのに気づいた私は、少し口角を上げた。


「2度も助けていただいて、本当にありがとうございます。助かりました」


「いや、」


「何かお礼をしなければなりませんね」


「俺がしたくてした事だから、お礼はいらない」


「でも、わざわざ電車から降りたのではないのですか?」


「ここは俺も最寄り駅だから」


「そうなのですね。本当にお恥ずかしいのですが、今、お金を持っていなくて……、後日お礼をする、という形でも構いませんか?」


「いや、ほんとに…」


「月曜日、この時間にここで待っていても構いませんか?」


「え?」


「本当に凄く助かったのです。ありがとうございました」

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