マイウェイ

「ああーっと、きみ、大丈夫なのかい。具合悪いの」

 その女子高生は、高架下の冷たい砂地に腰を落としていた。

 冬の日の黄昏時、辺りの気温は氷点下近くまで下がっている。コンクリートで固められた巨大な橋脚が、ただでさえ気薄な温もりを奪っていた。 

「はい、ネコヤーはわりと大丈夫なのですよ。気にかけてくれて、ありがとうございます」

 体育座りのまま顔だけ上げた少女は、そう答えて微笑んだ。

「ネコ、やー?」

「はい、猫屋敷華恋なので、ネコヤーですね」

「ああ、なんだ、あだ名ってことか」

「ネコヤーと呼ばれると、うれしいのです。ところでなにかご用でしょうか」

「ああ、まあ、ここは俺たちみたいのがいるから、そのう、なんだ、へへへ、ゲッホゲホ」

 重くトゲトゲした咳をちらつかせながら、男は遠慮気味に話す。使い込まれた軍手の指先は、親指と人差し指の部分が切り取られていて、露になった爪が黒く汚れていた。

「ネコヤーがここにいては迷惑ですか」

 華恋が小首を傾げて、心配そうに言う。

「ま、まあ、わるくはないけどさあ、なんつうかさあ、そのう、ここってお嬢さんみたいなきれいな女の子には、どうかなあって」

 ゴワゴワしたゴマ塩頭を掻きながら、男はキョロキョロとあたりを見回した。少し離れたところに、ブルーシートや段ボールの小屋があった。ここはホームレスたちのねぐらなのである。 

「どこでも、ネコヤーは気にしませんのです」

 そういわれることが、なんとなくうれしかったし、そうではないかと期待すらしていた。男は照れ笑いをしようとしたが、あんがいと重いものとなる。

「ゲホッ、ゲホゲホ。ちょっとわるいなあ、風邪ひいちまったみたいで」

「大丈夫ですよ。お身体を、お大事にしてください」

「誰かを待っているのかい」と訊くと、華恋は小さくウンと頷いた。

「そうだ、今日はクリスマスだから、彼氏かなあ」

 女の子はやや顔を赤らめる。照れているのかと思われたが、別の理由があった。グーグーと腹の虫が啼いていた。

「えへへ、なんだかお腹がすいちゃいました」

 少女は空腹のようだ。お腹のあたりをさすって、物欲しげな目線を流したりする。

「そうだ。パンだったらあるけど」

 男の後ろには自転車が停めてある。半透明なビニール袋が空き缶でパンパンに膨れ、それが三つほど後部にくくり付けてあった。

「ちょっと待ってなよ」

 自転車の前にはカゴがあって、ほどよく黄ばんだビニール袋に食べ物が入っていた。少し動くたびに肺に痛みが刺すので、片手で胸を強くおさえている。

「これな、賞味期限がちょっとばかし過ぎてんだけど、傷んでるわけじゃないぞ。ぜんぜん食えるんだって」

 男が袋ごと持ってきたのは、コンビニの賞味期限切れのパンだ。菓子パンや調理パンが数個入っていた。それを突き出して、食える食えると怒ったように勧めた。

「でも、それはおじさんの分ですよ」

 華恋は、男の分が減るのを心配していた。

「いいんだって、こんなに食えないから。ほら、好きなのとりな」

 袋の口を大きく開いて待っている。咳が出そうになっていたが、つとめて出さないようにしていた。

「ではメロンパンをもらっていいですか。大好きなんです」

「おお、いいともいいとも。ここのメロンパンは、うめえんだよ」

 立ち上がった華恋は、袋の中から一つを取り出した。

「ありがとうございます。そして、いただきますなのです」と礼を言って、腰を下ろそうとする。

「ちょっと待てよ。そのままじゃあ尻が冷えるからな」

 自転車からそれほど大きくないブルーシートを持ってきて、その場に敷いた。自分は砂地の地面にドカッと胡座をかいた。華恋は靴を脱いで、さらに揃えてから正座をした。シートは直下の冷たさを微塵も遮らなかったが、そうしてもらえたことで、彼女の温もりはその場にわだかまることができた。

「おじさんの名前はなんですか」

 唐突な質問に、即答することが憚られた。とりあえず咳込むことで時間を稼いでいる。

「名前って、コジキにそんなもんねえよ」

 小さなドーナッツをようやく呑み込んだ男は、バツが悪そうに目線を落とした。都合の悪いことは、質問で返すことにした。

「それにしても、猫屋敷って変わった苗字だな」 

「ネコ属性なのですよ。ニャニャニャ~ン、ワンワン」

「いや、犬も混じってるじゃねえか」

「ワンコも好きなんですよ」

 そう言ってクスクスと笑うと、男も笑顔になった。最後に残ったソーセージパンを手渡して、わざとあっちのほうを向いた。

「では、半分こです」

 華恋の繊細な手によって、そのパンは半分に割られ、やや大きめなほうが男に渡された。冷たい風に当てられた手が凍えるのではないかと心配し、自分の軍手を貸してやりたい衝動にかられるが、十分すぎるほど汚れたそれを差し出すのは躊躇われた。

「おじさんは、どんなふうに呼ばれてますか」

「まあ、仲間からは山ちゃんって呼ばれてるけどな」

「では、おじさんは山ちゃんさんなのですね」

 男は否定も肯定もしなかった。

「山ちゃんさんは、お一人なのですか」

 ホームレスにとっては、あまり言われたくないたぐいの質問だった。

「まあ、いまはこんな感じだからな。友だちはいるけどよ、まあ、一人だな」

 男がジャンパーのポケットからカップ酒を取り出した。すでに半分ほどになったそれに口をつけようとするが、気落ちしたような表情で見つめる華恋に遠慮したのか、飲まないままポケットにしまった。

「ゲホ、ゲッホ、ゲエー」

 そばにいる者を不安にさせるような重苦しい咳が吐き出された。それがおさまるのを待って、華恋が立ち上がった。少し歩いてから、そっと振り返る。 

「今日はとても寒いですね。ネコヤーですね、なんだかダンスをしたくなっちゃいました」

 その踊りは唐突に始まった。

 少女にしてはボリュームのある筐体が、リズムにのって軽く跳ねていた。キレがあるダンスではなかったが、そのユルさがなんとも可愛らしくて、男は心地よくなって見ていた。

「それ知ってるよ。ずいぶん前に流行ったな。娘がよく真似してたっけ」

 ひと通り踊り終わった華恋は、ふたたび男のそばにきた。あれだけ踊ったのに、息が微塵も乱れていない。

「山ちゃんさんの娘ちゃんと一緒に踊りたいです」

「それは、無理だよ」

「どうしてですか」

 目を伏せる男の顔を、無垢な顔がのぞき込む。数十秒の沈黙が続いた。華恋は辛抱強く待ち続ける。

「どうしてって、死んだからさ」

「そうですか」

 ようやく吐き出された言葉の深刻さを、華恋はさほど気にしていないようだ。かわりに、男が激しく咳込んだ。喉をゼーゼー鳴らしながら、擦れた息を何度も何度も押し出した。最後に大きな痰を切って、やっと一息つくとこができた。

「イジメられて、自分で首つって死んじまったよ。まだ中学三年生だった。オレ、あの子が悩んでるなんて、なんも知らんかったさ」

 仕事が忙しくて娘と会話していなかった、家のことは妻に任せっぱなしだったと、よく聞くような言い訳を、ボソボソとつぶやいた。

「山ちゃんさんは、娘ちゃんを大好きでしたか」

 そう問いかけられて、男は娘のことを思い浮かべた。どれもこれもが幼いころであり、中学生に成長した姿は、ほんの僅かしかなかった。

「そんなこと言われると、わからないよ。たぶん、好きだっと思うけど」

「娘ちゃんは、お父さんが好きだったのですよ」

「そんなことは、なかったはずだ。と思う」

 幼いころは自分を慕っていたが、死ぬ直前は恨んでいたはずだと、相反する思いがあった。その考えは、ホームレスになってからますます強くなっていた。

「ずっと見てたんですよ。お父さんを」

 ホームレスの男が押してきた自転車の陰に身を隠した華恋は、前タイヤの上から顔を出して、のぞき見している格好をした。

「自分の部屋を出て階段を下りて、お父さんを見ていたのです。じー」

 少女の瞳が、ジーっと見つめていた。

「お父さん、さいきんはぜんぜん話をしてくれないけど、お疲れさんなのですか。わたし、部活に入ろうとしてけど、なんだかダメっぽいです。どうしても、人見知りしちゃうんです」

 娘の話し方に似ていると思った。小さいころからおとなしい子だった。幼稚園でも、小学校でも、いつも子どもたちの輪から離れて、一人でいたのだった。女房が、よくこぼしていたな。

「おとうさん、おとうさん。あそんで~、あそんでよ」

 人見知りだけども、あの子は父親にはよくなついていた。ソーダのアイスキャンディーが好きで、よくねだられたものだ。もっと高いのを買ってやろうとすると、ちっちゃな手が私のズボンを掴んで、イヤイヤをするのだ。当時は安かったんだよ。ケチ症な女房に似たのかな。

「お父さん、お庭でするおでん鍋は美味しかったですね、ふふふ。はんぺんがふわふわで、まるで、お空の雲を食べているような気がしちゃいました」

 古めかしい家の小さな庭だったが、たまに炭をおこして肉や魚を焼いたり、大きな土鍋でおでんを作ったんだ。はんぺんが大好きなあの子は、「いただきます」もしないで真っ先に食べていたっけ。でもな、全部食べずに必ず残してくれんだ。心のやさしい子なんだ。ほんとに、やさしいんだよ。

「お父さん、運動会は見にきてね。なんだかわたし、クラスのリレー選手に選ばれてしまいましたよ。小学校最後の運動会なのです」

 いまはそれどころじゃないんだ。取引先がつぶれてしまって、手形が決済できなくなってしまったんだ。資金繰りがつかなくて、てんてこまいなんだって。うるさいな、母さんが行くって言ってんだから、もういいだろう。

「・・・」

 あの夜から、あの子とは話をしなくなったような気がする。とにかく、会社を立て直すことに必死だったんだ。家のことなんか女房がやるものなんだ。専業主婦だからな。

「お母さんが具合悪いって言ってるよ。お父さん、お母さんが具合悪いって」

 そんなの病院に行けばいいだろう。なんだって、俺に言うんだ。会社が大変なんだぞ。生きるか死ぬかなんだ。

「そんな目で見られると、ネコヤーはなんだか怖いのです」自転車の陰から出てきた華恋は、困ったような様子だ。

 男の表情が険しくなっていた。ハッとして我に返り、やや間をおいて、しょんぼりとした。

「すまんかった」

 華恋は立ったままだ。ただし、脅えたり憤慨したりはなかった。上体を少し前に出して、話の続きを促すように小さく頷いた。傷つけていないとわかった男は、ホッとする。

「女房はすい臓がんだった。ずっと調子が悪いって言ってたのに、忙しさにかまけて気にしてやれなかった・・・、ゲホ、ゲッホ、ウゲー、ゲホゲホ、ゲホゲホ」

 乾いた寒風が呼吸器官を刺激するのか、男の咳はますますひどくなった。

「死んだよ。すぐに死んだ。入院して一か月でな。すごく、あっけなかった。人って、たやすく死ぬもんだと思ったよ」

 ハハ、と力なく自嘲すると、また大きく咳こんだ。無精ヒゲだらけの口を大きく開けて、けっして切れない病巣を吐き出そうとしていた。

「娘と二人だけになっても、仕事ばかりだった。保険金が入って、商売を続けられたんだよ。なんだかさ、女房に助けられたのに、自分の力で盛り返したと思って没頭したんだ」

 咳がどうしようもなくひどくなった。うす汚れたジャンバーがギシギシと軋み、身体をエビのように丸めて、冷たくて粉っぽい地面に転がった。

「あの子は、あの子はどうしてるだろう。どこにいるんだ。女房はどうしてるんだ」

 意識がぼんやりとしていた。現実と記憶の境界があいまいになって、男は彼岸の川に腰まで浸かっていた。赤く濁った瞳から、泡を吹くように涙がしたたり落ちている。 

「お二人とも天国ですよ。お父さんを、ずっと心配しているのです」

 娘の声が聞こえた気がした。赦しを乞うような目が、眩しそうに見上げる。

「山ちゃんさん、名まえを呼んであげて。名まえがあるでしょう」

「名前って、俺はもう、なんだか忘れてしまったんだ。もういいんだ。すべて、忘れてしまったよ」

 無精ヒゲと皺だらけの顔がくしゃくしゃになり、涙が埃で黒く汚れた。楽しいこと、悲しいこと、誇らしいこと。たくさんの追憶が錯綜するが、終わりのほうは、後悔することばかりになっていた。

「山ちゃんさんは知っていますよ。ちゃんと、知ってるんです。大丈夫なんです」

 華恋の声が娘に似ていた。霞のような意識に溺れ、男は混乱する。 

「死んだんだよ。みんな死んだんだ。だから俺は、忘れることにしたんだ。女房の名前も、あの子の名も、俺自身も忘れたんだ」

 そこまで言って、猛烈に咳き込んだ。肺の中から吐き出される息が、気管を唸りながら逆流している。それは終わりを告げる警鐘だった。

「ほら、もう少しですよ。また、みんなが一緒になるのです」

 淡い灯りが天上より差し込んできた。ほんわかとした空気につつまれて、かつて知っていた感触が恋しくてしかたなかった。男は、最後の気力を振りしぼって自らに鼓動を打ち込んだ。

「櫻子、あの子の名前は櫻子だよ。桜が満開のときに生まれたんだ。とてもきれいなさくらなんだ」

 灯りの中に少女がいた。中学生の制服を着て、はにかんでいるような笑顔で、それでいて心配そうに父親を見ていた。

 忘れてしまった、そして諦めてしまった温もりに包まれて、くたびれた身体が人生を振り返る。自分の生き方が正しいはずだと信じて、精一杯生きてきた人生を想う。たくさんの思い出がスローに、そしてアッという間に過ぎ去った。どれもが胸を締めつけるほどの情緒であり、あらゆる情動が溢れに溢れた。

 妻と娘に言わなければならないことがあると気づいた。二人が生きていた時には、けして口にすることのなかった言葉だ。

「恵美、すまなかった。おまえには迷惑ばかりかけたな。櫻子、かまってやれなくてごめんな。話を聞いてやれなくて、ごめんな」

 本心からの語りかけだった。心の引き出しに仕舞いっぱなしにしていた面影をようやく思い出して、最後にそうつぶやいた。

 妻と娘が男の前にいた。すでに息絶えて、冷えた地面にがっくりと肩を落とした亡骸を見ているわけではない。いつになく壮健で頼りがいのある男が寄り添おうとしているのだ。

「お父さん」と妻がいう。

「お父さん」と娘がいう。

 男がうなずいてみせた。


 華恋は、その時が来たことを知る。背中にある大きくて純白な翼を広げると、音もなくゆっくりと羽ばたいた。あるべき場所へと導くため、親子に先立って天へと舞い上がる。

 三人はしっかりと手をつないだ。けして切れることのない絆に安堵し、穏やかな光に包まれながら、どこまでも昇ってゆくのだった。



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