第3話

「おーい、コージンー。俺、休憩上がったから交代な~。おーい?」


 突如響く、野太い男性の声。足音が近づいてくる。私を見つめていた菱川さんが反応したところでやっと私も我に返った。そう言えばここは店内。しかも入口付近……。


「あ、ああああああの、菱川さん! 手、手っ」


 菱川さんは不思議そうにしながらも手を離した。


「手を握るのが早かったかな。……でも僕がそうしたかったんだよ。ごめんね?」

「い、いえ、嫌というわけでは……!」


 私は慌てて首を振った。でも……と思わず口にしてしまう。でも? ここまで言ったら理由を問われるに違いない。だから羞恥心と戦いながら続ける。


「人の目があるし……恥ずかしいじゃないですか」


 そして菱川さんの反応を待つ。

 菱川さんは口元を押さえて、別の手で無言のまま私の頭を撫でた。なぜ。


「お~、コージン、こんなところにって……。あれまぁ」


 棚の間からにょきっとでかい男性が現れた。すぐさまにやにや。


「おい、またナンパかよ。ごめんな、そこの店員は調子のいいことを並べたてるのが得意でさ。大体がリップサービスだから本気にしないでください」


――と、いうことは、今までの話も嘘ってこと? こちらをからかうために? 


「おい、山田……」

「いやいや、ちゃんと言っておかなくちゃいかんだろ。おまえはイケメンなんだから、勘違いさせる人も多いんだ。ここできちんと防衛線を張っておかないとなあ。……あっ」


 ぽろっと涙が出てきた。ぽろぽろとどんどこ零れていく。

 家族が死んだ時も流せなかった涙が、今になってどうして。思った以上に打ちのめされている私がいて、しゃくりあげる寸前のように口元が震えた。


――そうだよね、そんな虫のいい話なんて早々ない。全部冗談だった、という方が普通だよね。バイトのことといい、言葉をそのまま真に受けて。本当に学習しないなぁ……。


 菱川さんが困った顔をしている。そりゃそうだ。いきなり目の前で泣き始める女とか、面倒なことこの上ないだろう。

 視線をそらして、目をこすった。惨めなほどに目元から水がこぼれていた。

 恥ずかしくて、情けなかった。


「梢さん」


 そうか。一瞬でも私はこの人に救われ、会って一時間も経っていないのに、私の中で特別な立ち位置を占めてしまった。その分だけ、勝手に期待していただけだ。


「すみません、私、勝手に勘違いしていたようですね。……ご迷惑をおかけしました」


 言いたくはなかったけれど、これ以上ずうずうしく居座れるほど厚顔ではなかった。気分が上向いたところで真っ逆さまに落とされて、心の中はぐちゃぐちゃに散らかっている。この次、自分からどんな言葉が出てくるか想像できない。

 ほんの少しだけでも嬉しい気分になれたから、その気持ちだけ持って帰ろうと思った。


 踵を返そうとしたのだが、その腕をすかさず掴まれる。


「大丈夫だから。『勘違い』なんて何もしていないよ。初めから本気で言っているから」


 菱川さんは優しかった。綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出し、私の目尻のあたりにそっと当てて、涙を拭った。


「ごめんね、泣かせてしまって。僕もね、さすがに普通のお客さんに『こんなこと』はしないから。本命もひとりだけ。嘘もつかないよ。つく必要もないしね」


 菱川さんはひたと私を見つめ、安心させるように微笑んだ。

きっと今、化粧はぜんぶ流れてしまっている。薄化粧だったけど、大層ブサイクになっているに違いない。


「山田も悪いやつではなくて、あいつなりに梢さんを心配して言っただけなんだ。少し、ふざけた言い方にはなっていたけれど。あとで僕から言っておくから許してやって」

「……コージン」


 アメフト選手のようにがっちりとした身体をした男性がそろそろと近寄ってきた。菱川さんと同じエプロンをしていたものの、顔立ちも日焼けしていてごつければ、二の腕も丸太のように太い。菱川さんと並ぶとまるで坊ちゃんとボディーガード。たとえこちらを気遣うような顔で覗き込まれても委縮してしまう。


「……もしかして、空気読めない発言してた?」

「していたね。考えなしに思ったことをすぐ言っているだけだと人を傷つけることもある。僕が前々から言っていたとおりだろう? 君はもう少し様子を観察するべきだった」

「ゴメン」

「僕じゃなくて、梢さんに謝って」


 山田さんと呼ばれていたアメフトマッチョはしゅんと身体を縮こまらせながらも、しっかりと頭を下げた。


「傷つけるつもりはなかった。ごめんなさい」

「い、いえ……」

「コージンはしばらく休憩でいいよな。じゃあ……」


 しょんぼりアメフトマッチョは去っていった。店内に消えていく背中に哀愁が漂っている。


「山田は同僚だけど、昔からの友人なんだ」


 ややあってから菱川さんがそう言った。


「根は悪いやつじゃないし、案外、面白いところもあって、気が合うんだ。今はああだったけれど、山田のことも邪険にしないでいてくれるとうれしい。それと……僕のことも。僕は真剣だったけれど、梢さんにとっては僕という人間はまだまだ怪しいことに違いない。これから少しでも安心してもらえるように努めるから」

「……はい」


 ほっと菱川さんが息をつく。


 それを見て、私も安心する。

 今菱川さんが言ったこと。それは菱川さんにとっての私にも当てはまることのはずだ。それでもこの人は恐れずに私に踏み込んできてくれた。だったら。


「私も……菱川さんに安心してもらえるように、頑張ります」


 同じだけ菱川さんを信じていたい。それでは……ダメなのかな。

 言葉にするのは簡単。でも行動に移していきたい。私なりの決意表明だ。


 しっかりと目を見て話せば、菱川さんはくしゃりと笑み崩れた。……この人のことでもう一つわかった。きっと、笑顔の大盤振る舞いが好きな人だ。


「そっか。嬉しいな。じゃあ、さっそく一つ頼んでもいい?」

「わ、私にできることなら」

「うん、十分できる。……手を繋いでもいいかな」

「……どうぞ」


 そろそろと手を出してみる。しっかり握られてしまった。


 そのままずんずんと細い通路を通っていく。ちらほら見えるお客さんも全部スルー……というより客自身もあまり構って欲しくなさそうだ。しらっとした顔をしている。……有田焼の皿を舐めるように見つめているお坊さんが妙にシュールだった。


 店内を抜けた。目立たないところにある扉を開くと階段があって、そこを二階、三階、と上っていく。途中で、


「あ。エレベーターを使えばよかったかな」


 と菱川さんが呟く。すでに五階に至るところだった。目的地は六階だという。体力のない私は、六階に上った時には少し息が上がっていたし、手も少し汗ばんでいた。

 廊下の一番奥、白いプレートに明朝体で「社長室」と書かれた扉をおざなりにノックしてから入った。


「社長、お仕事中に失礼します」


 中にいたのはスーツをきっちりきた、いかにも「社長」然とした人だった。アンティーク調の家具に、やたらやわらかい絨毯に囲まれていたので、なるほど、と納得する。

 社長、ということは、この人が菱川さんのお父さんだ。


 ただ妙に気になったのは社長の大きな机の隅に座っているビスクドール……。確かに美少女ではあるけれども、どうしてここに。でも店前に能面を飾るほどの会社だから今更かも。


「公人か。何の用だ。確か今は店に立っている時間帯だろう? 隣のお嬢さんは一体どうした?」


 社長は机の上の書類を読むのから顔を上げて、値踏みするような視線を私に向ける。

 背筋が伸びる心地がした。人生で「社長さん」と呼ばれる人と間近で対面するのはこれが初めてだ。


「いえ、遅いお昼休みですよ。午前中に出張から帰ってきたばかりで。たまたま店番を手伝っていただけ。本来は休みでした。今来たのはプライベートな用件です。彼女を紹介しようと思いまして」


 菱川産興の社長は静かに書類を置き、立ち上がった。机の前に回り込んで、応接用のソファーを示して、「まあ、座りなさい」と促した。菱川さんと私がソファーに並んで座ると、菱川さんのお父さんは備え付けのポットでお茶を入れ、ことん、ことん、と三人分の湯飲みをテーブルに並べる。


「公人がお嬢さんを連れてきた、ということはこのお嬢さんと結婚するつもりか」

「はい」


 菱川さんは即答した。ものすごく早かった。びっくりした。


「これからゆっくりと仲を深めていこうと考えています。いずれ嫁に来てくれるはずですので、先に親父に話をつけておこうと思って。それと、ここにいる梢さんに僕の気持ちを知っていてもらいたくて」

「そうか」


 菱川さんのお父さんはしばらく腕を組んでじっと考えていた。やがて、こちらを見る。


「少し、君について尋ねてもいいかね」

「は、はい」


 ソファーに座っても繋がれた手が、握りこまれた。菱川さんが安心して、と言ってくれているようだ。

 私もちょっと笑ってみせると、菱川さんのお父さんに向き直る。


 名前は。年齢は。そんな質問から始まって。大学は。住所は。趣味は。色々と聞かれた。正直に答えていく。そして、やはりあの質問がふられた。


「ご家族は何をしてみえるの」


 比較的動いていた口が閉じ、一拍してから。


「両親は私の高校時代に事故で他界しました。親戚は実家近くに住んでいて、私自身はこちらで一人暮らしをしています。他に家族はいません」


 一瞬だけしん、と静まり返った社長室。私の手はもう一度きゅっと握りこまれ、菱川さんのお父さんは眉根をぐっと寄せる。


「ご両親もさぞや無念だっただろう。娘が結婚する晴れ姿を見られずに……。こういうことを聞くと、本当にやりきれない。君も、頑張ったね」

「いえ……」


 特別に頑張ってきたわけではないと思う。ただ流されて来たら、ここまで来てしまっただけ。

 でもそれを口にすれば、気の毒そうな顔をされてしまった。


「もしよかったらだが、私のことはお父さん、と呼んでくれてもいい」

「お父さん?」


 呼んでみたら、真剣な表情で頷かれる。気にいられなかったわけではないだろうけれど、これは一体どういう評価なのだろう。


 お父さん、かぁ……。私にとってはお父さんはたった一人だけだ。でも久しぶりに口にするとどこか懐かしい気持ちになる。それと同時に、自分に確かな支えができたような気がした。誰かと繋がっていられる心地よさというものかも。泣きたいほど嬉しい。


「ありがとうございます」


 それと、お父さん、と小さく付け加えてみる。嬉しいけれど、やっぱり恥ずかしさもある。これはもうしょーがない。


「公人……。ビンゴだ」

「ビンゴでした」


 その一方で、うんうんと頷きながら見ているお父さんと、軽く頭を下げた菱川さんがいた。ビンゴ……。褒め言葉なのだろうことはわかるけれど。それ言うなら「当たり」じゃないかしら。


 どうやらお父さんは独特の言語センスを持っている人らしい。


「ところで、公人。彼女とはいつ、どこで知り合ったんだい」

「知り合ったのは、今日ですね。店で話したのがきっかけです」

「んんっ! ゴホッ、ゴホッ」


 お父さんはお茶を噴き出した。無理はないと思います、お父さん。


「うん、情熱的なことはいいことだな、はっはっは……」


 たぶん、この時にお茶をすすったお父さんは、一緒に色んなものを流し込んでいたと思う。

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