第7話

不思議なこともあるものですね。

 スミさんにはお話ししますと、にわかに驚いたように目を見開かれておりました。

「優さまがご本を貸してくださるなんて」

 本当に信じがたいようで、私の腕の中にある本をまじまじと見やります。

「はい、せっかく申し出てくださったというのに、お断りするわけにもいくまいと受け取ってしまいましたが、よろしかったでしょうか」

「そうね。あまり感心はしませんね」

 図書室をでたあと、自室に戻る途中でスミさんにお会いしました。隠しておくこともないので、ありのままお伝えしたのです。やはり案の定、歯切れ悪そうにおっしゃいます。

「けれど、今回は許しましょう。そのご好意にきちんとお応えして、これからも励むことです」

「はい、ありがとうございます」

 私は歩き去ろうとしますと、ふいにスミさんが呼び止めました。少しばかり、困ったご様子です。

「気を引き締めておきなさい。浮かれた顔をしていますよ」

「浮かれて、いましたか」

「ええ、おおいに」

 スミさんは仕方がありませんね、と言いたげに息をつかれます。

「いつものあなたに戻りなさい。今のあなたには、不安を覚えます。さあ、ゆきなさい」

 促されて、私は歩みを進めます。

 刹那、横向くスミさんのお顔が目に焼き付きました。スミさんの素のお顔です。

 目尻の皺が深くなり、そっと眼は下向きます。感情を表すならば、憂慮ともいうべきものでしょうか。スミさんは私よりもとても長く世の中というものを見てきたお方です。私は、きっとスミさんの胸に心配の種を残したのだと唐突に理解しました。私のために。なぜか私は確信をもって、感じたのです。

 申し訳ありません。私はスミさんにそう謝るべきなのかもしれません。私はスミさんを悩ませることになるでしょう。それでも、腕に伝わるこの重みを離したくはありませんでした。

 だから、黙ったままでした。何も。私は何も気づかなかった。私を迷わせる物は何もなく、ここで過ごす一日一日は何も変わりません。私は祈るような気持ちで、スミさんから顔を背けます。

 少しだけ急ぎ足になります。肩できる風は冷たく思えます。けれど、こうやって歩くべきなのです。私は、天蔵家の使用人です。他の者と同じく、こうして常にきびきびとした立ち振る舞いを心掛け、旦那様方に快適に過ごしていただくことに注意を払います。私が心を揺らさなければ、何も起きないのです。

 月子さまの面差しが目の底を掠めていきます。たおやかな百合のようなあの方にこれからお仕えしていきます。あの方の花を守るのが私の仕事なのです。若奥様となって、この天蔵家に入る月子さまをお支えする。それが求められているお役目です。

 通用口から外に出ました。空は雲で重苦しく覆われております。雨が降りそうでした。洗濯物を早めに取り込んでおこうと思い立ち、自室へと急ぎました。

仕事を終えて戻りますと、まだ消灯までは間がありました。さっそく今日優さまから渡された本を開きます。

「みやも物好きよね。疲れているというのに、また疲れることをしているの」

 もうすでに寝ようとしている佐恵子さんは呆れかえっている様子です。声からして、欠伸交じりでした。

「佐恵子さん。先に眠ってしまってもいいわ。明かりは私が消しておくから」

 そう言いますと、佐恵子さんは躊躇いなくごそごそとお布団に入ります。掛け布団からひょいと顔をのぞかせて、佐恵子さんは私をじいっと見つめていたかと思いますと、うとうとと瞼を下ろしていきました。まるで子供を寝かしつけているかのようです。佐恵子さんはとうに子供ではありませんでしたけれど。

 佐恵子さんの寝息ばかりが部屋を満たしていきます。それを見届けて、私は辞書と本とを並べてみました。

 描かれている挿絵はとても面白いのに、文字はとても難解です。文字の塊一つで一つの言葉を表しているようですが、それを辞書でひこうとしても、なかなか思い通りのところへは辿り付きませんでした。

 慣れるまでの道のりは険しいものと知りました。遠回りと知りつつも、隅に置いておいた文法の本を読みすすめておいた方がよさそうです。まったく文の仕組みでさえ、検討もつかないのですから。




 秋の日に庭を散策なさりたいということで、私は月子さまについていきます。

 時は、紅葉真っ只中です。赤い紅葉も、黄色い銀杏も、風にあおられるたびにはらはらと散っていきました。庭を蛇行しながら貫く道一面にも、枯葉が降り積もっていくのです。

「ビロオドの絨毯より素敵だわ」

「はい」

 私は、月子さまの一歩後ろを歩いていきます。月子さまの瞳はあちらこちらと飛んでいき、このように庭への賞賛を惜しげもなくおっしゃります。

「いずれはいつでもここをご覧になれるようになりますね」

「ええ。きっとそうなるのでしょうね」

 月子さまの小さな足がこつこつと石にあたって、軽い音を放ちます。ふいにその体が傾ぎました。

「月子さま」

 私は慌てて、後ろから月子さまの腕をひいて支えます。月子さまの腕は枯れ枝を掴んでいると思うほど、肉も薄く骨ばって折れてしまいそうに細かったのでした。

「ありがとう」

 でも、と月子さまは眉をひそめて、足元を見ます。草履の赤い鼻緒が切れておりました。

「いやね、こんなときに縁起が悪い」

「そんな。偶然ですよ。お怪我はありませんか」

 月子さまはそろそろと裾をほんの少しあげます。私が見る限りは大丈夫そうに見えましたが、大事に越したことはありません。

「ん。ちょっとだけ足をあげるとき、変な感じがするわ」

「でしたら、医者にみせるまでは歩かれないほうがよろしいです。月子さま、恐れ入りますが、私がおぶりますので、背中に手を回していただけますか」

 月子さまは手を口に当てて、目を丸くされます。

「まあ、あなたが」

「はい」

 私は大真面目でした。それなのに、月子さまの驚きようにこちらがおかしくなってきます。頬が緩むのを抑えつつ、私は付け加えます。

「別に特別なことではありませんよ。私の故郷では、酔っ払った亭主を村の会合から家に連れ帰ったりすることも稀ではありませんし、家事の手伝いで井戸の水汲みとかよくしているんです。私だって、米俵とか薪などを運んでいましたから。得意なんです、力仕事。安心してください」

 私はしゃがみこんで、月子さまに背中を向けます。「どうぞ」

 月子さまは後ろからでもわかるほど、朗らかな声を出されます。

「みやさん、お願いいたします」

 言葉を聞いた刹那、月子さまの暖かい吐息が耳をくすぐりました。その細い両腕が首に回されます。

「かしこまりました」

 よっこらせ、と私は月子さまを抱えて立ち上がります。鼻緒が切れた草履を右手に持ちます。

 月子さまは大変に軽いお方でした。幼い子供を抱えているのと何ら変わらぬようにさえ思えてきます。ふわふわと羽を背負っているかのようです。

「月子さまはとても軽い方なんですね」

 かすみばかり食べているようなお方。実際はそうではないと頭で知っていても、そう思わずにはいられない方なのです、月子さまというお方は。

 そして、どこまでも不安にさせられる方です。まだもう少し、体重があれば私は安堵できるというのに。

「なあに」

 月子さまは不思議そうに問い返されます。

「余計なお世話とは存じますが、健康のためにはもっとちゃんと食べてくださいね。ご家族や使用人もきっと心配されていますよ」

「そうね。いつも心配をかけてばかりね」

 ふふと月子さまは笑みを閃(ひらめ)かせました。

「みやさんにも心配をかけてしまっているわ。でも、心配をかけられることは、とても嬉しいって思うわ」

「少しだけ、わかる気がいたします」

 養父母に引き取られたころ、私は馴染めませんでした。養父母とはいつも薄い壁一枚で接しているようで、叔父と叔母が父と母になることに慣れなくて、水中で溺れているように息が詰まりました。何も気づかない幼心からできたことですが、一度だけ逃げ出したことがあります。無謀にも山に入り込んでしまって、ずいぶんと心配をかけてしまったものです。今なら、どれだけ大事にされているのか、よくわかっているというのに。

「だから、大事な人には心配をかけたくないと思うものです」

 もう二度と、そのようなことはありませんように。私はそうやって今も祈り続けているのです。

「では、私とみやさんは反対ね。私は時々、ほんの時々だけれど、心配をかけたいって思うのよ。そうすれば、大事にしてくれるということを確かめられるのだもの」

 人の心をすべて推し量れはしないけれど。その言葉を唇の先に乗せて、月子さまはふっと息をふきかけられます。言葉が天に向かっているかのように私は空を仰ぎます。

 ちらりと赤い葉が目の端をよぎりました。




玄関の扉を開けます時に、お帰りになった優さまとばったり鉢合わせました。

「アッ、優さま。ご無沙汰しております」

 気まずそうに背中の月子さまは身動ぎされます。私は頭だけ下げました。

「ご無礼を致しております、優さま。お帰りになったばかりで恐縮ですが、念の為に月子さまの足を診察していただけますか」

 優さまは私と月子さまを見やり、一度目を伏せたあと、私の前に立って、扉を開け放ちました。

「いつもの客室へ運ぶ。俺が抱えていこう」

 はたして、優さまにそのようなことをさせられません。私は首を横に振りました。

「ですが、そのようなことは私たちの仕事です。私一人でも抱えてゆけますし、それで不足でしたら、他の者も呼んでまいります」

 優さまの眉間に皺が刻まれました。

「たいしたことではない。お前は先導して、扉を開けておけ」

 私の返事は一も二もなく決まっています。

「かしこまりました」

 私は表情を隠しきれていたでしょうか。使用人を必要とされないほど、惨めなことはありません。静かにお辞儀をします。

 私たち使用人は主人に向かって頭を下げます時に、こうやって真実の感情を隠しております。隠せなくなったら、私たちは終わりなのです。

 背中の重みが消えて、月子さまが優さまの腕に収まりました。月子さまは本当にほっそりとしたお方なのです。

 月子さまはぽっと頬を赤く染めて、目をとろんとさせて、優さまを吸いつきそうなほどに見つめておりました。なんと美しいお方なのです。それに比べて私ときたら、かくも醜い。どうして私は、まっすぐ強くいられないのでしょう。

 足だけは勇ましく進んでいき、あっという間にいつも月子さまをお通ししている客室に着きます。優さまは月子さまをソファに下ろされました。

「ではまた何かご入り用でしたら、お申し付けください」

「ええ、そうするわ」

 私は誰もいない廊下に出ました。そう、幸いなことに誰もいないのです。それをいいことに扉を閉めて、ほっと安堵の息を漏らします。

 がちゃりとまた扉が開きました。ぬっと優さまの顔が突き出ます。私はどきり、と心臓の鼓動が一つ跳ね上がりました。

「扉は開けておけ」

「は、はい」

 確かに密室に婚約者とはいえ、男女が二人きりなのはよろしくないのでしょう。気を抜いていて、うっかりしてしまったようです。

「以後気をつけますので、今回はご容赦くださいませ」

「そうしてくれ」

 それから、と付け加え、ほんのわずかに顔の表情を緩められます。頬が緊張から解き放たれて柔らかくなれば、優さまも年相応の青年にお見受け致しました。

「情けない顔をするな」

 きょとんとして、私は優さまをぶしつけにも二度も見てしまいます。優さまはそれを手でうっとおしそうに跳ね除けました。

「いつものようにしれっとした顔をしておけ。そのほうが安心だからな」

「は。え」

「返事は」

「はい」

 うん、と優さまはどことなく満足そうに頷かれ、部屋の中に戻っていかれました。

 私はなんとなく、右手で頬を引っ張ってみました。案の定、痛みがじんじんとやってまいります。私はそのまま歩きながら夢じゃないのだと、何度も確かめたのでした。

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