第87話

壊れた理由


「危ないよ。何してるの」と中崎さんの声がして、私は力が抜けた。


「あ…」


 私は長い時間、意識が飛んでいた気がするけれど、中崎さんに聞いたら、数十秒くらいだったと言った。


「急に黙ったかと思ったら、川に向かって走り出そうとするから」と焦った様子だった。


「中崎さんの家…わかりました。まだあるか分からないけど」と私は土手を上るように言った。


 階段を登って、土手を歩く。さっき見たアパートは老朽化していた。それでも同じ場所にあった。赤い屋根はもう色が煤けて、茶色になっている。中崎さんがそのアパートに近寄って、動かなくなった。


 私はそのアパートがかつての新しい姿に見え始めた。


 若い綺麗な女の人と小さな赤ちゃんと小さな男の子が暮らしている。三人で一緒に寝たり、ご飯を食べたりしている。しばらくは幸せそうに見えた。男の子は嬉しそうにお母さんに抱っこを強請っている。赤ちゃんをおんぶしている彼女は頑張って抱っこしていた。

 幸せそうな笑顔が弾ける。


「しょうちゃんは可愛い、可愛いねぇ」と頬ずりすると、恥ずかしそうに男の子は笑う。


「ママー大好き」

 

 小さい手がお母さんの首に巻きついた。


 赤ちゃんが歩くようになって、三人で楽しそうに追いかけっこをしている。お風呂上がりのようで、子供二人が裸でバタバタと走り回る。お母さんは困ったような笑顔で追いかける。そして三人で並んで笑いながら、眠りにつく。寝る前には同じ絵本を読んでいる。もう繰り返し読んでいるせいか、男の子は覚えてしまって、一緒に声を出して読んでいる。


「違う絵本…ないの?」と聞かれたお母さんはちょっと悲しそうに微笑んだ。


 ご飯が少なくても、子供たちは気にせず元気だった。三個入りのプッチンプリンを三人で分けて食べる。それがいつか一つを三人で分けて食べるようになった。それでも笑い合っていた。兄妹が順番に底に溜まっているカラメルを指で掬って笑顔で舐めてあっている。そんな二人を悲しそうにお母さんは眺めていた。


「ママー大好き。遊ぼう」と手を引く。


 今までとは違って、手を振り解いた。 


 夜に絵本を読むことも無くなった。二人を先に寝かせて、声も出さずに涙を流している。


「…お金が…振り込まれない」と通帳を眺めていた。


 女の子はどこか障害があるのか、頻繁に泣くことが多くなった。

 お母さんの姿は変わっていった。夜の仕事を始めたようだった。ある日、姿が見えなくなる。兄妹二人で一日、放置された。二人で泣いて、疲れ果てて寝入りするほどだった。その日、朝早く帰ってきたお母さんは二人を抱きしめて謝る。


「大丈夫?」と言ったのは男の子の方だった。


 それを聞いて号泣するお母さん。


「僕、大きくなったら頑張って、ママのために働いてあげる」


「しょうちゃん、ありがとう」と言って、抱きしめる。


 涙が男の子の肩を濡らした。


 それなのに、次第に帰って来ない頻度が増えていった。男の子が食べるものを探して、部屋の中を歩き回る。


 たまに帰ってくる度に


「大丈夫?」とお母さんに擦り寄っていく。


 お母さんの顔はもう表情がなかった。ただ大量の菓子パン、お菓子を置いている。ゴミが部屋に散乱し始めても片付けなかった。


 ついに帰って来なくなる。ドアを何時間眺めただろう。男の子はベランダから妹を置いて、外に出る。


 川沿いをひたすら歩いた。いつか川沿いを歩いたら、駅に着くとお母さんに教えられたことがあった。駅で待っていれば、お母さんに会えるかもしれない、と思った。


「おーい」とテントから出てきた男が声をかけてきた。


「何?」


「なんで、裸足なんだ?」と聞かれる。


「お母さん…いない」と言って、お腹が鳴る。


「お前も大変だな。…いいアルバイトするか?」


「アルバイト?」


「ほら、パン、やるから」と言われて、川沿いにお金が落ちてることがあるから探してくれたら、パンをあげると持ちかけた。


 コンビニの廃棄品をもらっているようだった。でもお酒はもらえない。だからお金を探しているようで、それを男の子に頼んでいたようだった。


「パン?」


「白いコイン、拾ったらやるから。まぁ、紙のお金でもいいけど、なかなか落ちないよな」と笑う。


 それから男の子の日課になった。なかなかうまくいかないが、十円でもパンを渡してくれる。男の子はもらったパンを手に家に帰る。泣いている妹にパンを分けて食べさせる。


「あーと、は?」と話しかけるけれど、妹は「うー」と言うだけだった。


 それでも毎日、毎日、川沿いに向かった。


「白いコイン、白いお金…」と言いながら、川縁を歩く。


 パンを持ち帰る。そんな暮らしをどれくらいしただろう。


 ある日、また川に行こうとしたら、妹がくっついてきて、泣き出す。仕方なく、連れていくことにした。妹もベランダの柵を越えれるように、衣装のプラスチックケースを置いて越えた。


「ここで待ってるんだよ」と言って、堤防の階段に座らせて、必死でまたコインを探した。


 男の子は地面しか見ていなかった。後ろで何が起こっているのか全く気が付かずに。


 妹は誘われるように川に入って行った。彼女はお兄ちゃんを困らせようなんて少しも思っていない。その日は初夏の日差しが暑くて、川面に光がきらきらと反射していた。足が何かに取られて倒れる。どうしていいの分からないまま沈んでしまう。


 感謝と同時に「ごめんなさい」という意識が伝わってくる。


 川で溺れた時も「助けて」とは思っていなくて、安堵感すら伝わってきた。慌ててお兄ちゃんが川に入っていく。必死で川を歩いていくうちに、妹がいると焦って足を滑らせてしまう。


 ぶくぶく。明るい日差しのせいではっきり見えた。水中で妹が笑いかけているのを。手を伸ばそうと必死にもがいた。


 そしてお兄ちゃんの手が後少しと言う時に、息絶えた。


 男の子の心が粉々に砕けたのが私に見えた。後少し、と言った時に、妹が目の前で亡くなった。今まで努力して生きてきたのに、何もかもが壊れた。自分もこのままと思った時、体を引き上げられた。


(生きたくない)と強く願った。


 幼い中崎さんが消えたのは自分で強く願ったからだった。


 私はいたたまれなくなって、その場で蹲った。


「十子…ちゃん…。何か…ぼんやり…浮かぶんだけど」と中崎さんが私の横でしゃがみ込む。


「はい」


「若い女の人の笑顔」と言って首を傾ける。


 それは幼い中崎さんが大好きだったお母さんの笑顔だった。


「どうして…」と私は涙を流した。


「え?」


 首を横に振る。どうして酷いことをしたお母さんの笑顔を思い出したんだろう…と私は思うと辛くなる。


 立ち上がって、もう一度、川沿いに向かう。この事実を私は話していいのか悩んだ。中崎さんもある程度は想像ついているだろうとは思うけれど、私は消えたいと強く願った彼の意志を無視していいのか分からない。


「知りたいですか?」


「何が見えたの?」と聞かれた。


「幼い中崎さんのことです」と言って、川を眺める。


「十子ちゃんのその泣き顔で充分、分かるよ」


「…そう…ですか」


 私は妹さんがまだそこにいる気がして探す。


(にいに…。来てくれてありがとう)


「川にまだ…」と私は呟いて、川縁に咲いていた黄色いお花を「ごめんね」と言いながら摘んだ。


(でもにいに…幸せになってない。私の分も幸せでいて)


 彼女の声に私は頷いた。


「妹さんがいます。あの日、中崎さんは溺れている妹さんに気がついて、助けに行こうとしました。でも…子供の力では無理だったんです」


「どうして…僕は気が付かなかったんだろう」


「それは…妹さんと生きていくために必死だったからです」


「え?」と驚いたように聞き返すから、私は決心して話をすることにした。


 時間をかけて、ゆっくりと説明した。どんな男の子で、お母さんが大好きで、妹のことを思っていたかを伝えた。

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