第71話

Fly me to the moon


 完全に冷えたピザを食べながら、二人でテレビの前に座った。何かの映画をしていたと思うけれど、ほとんど頭に入ってこない。本当は中崎さんにくっついて映画を見たかったけれど、何だかそれもしてはいけないと言われたような気がして、三十センチほど空間をあけて座った。その空間にトラちゃんが座っている。


「中崎さん…。この人、どうしてお姉さんを探してるんですか?」


「え? この人のお姉さんなの?」


 そんな具合で、二人とも映画を見ているようで、見ていなかった。中崎さんが「違うの見る?」と聞いてくれたけど、私は「…大丈夫です」と言った。


「気を取り直して、おしゃべりしませんか?」と言うと、中崎さんは軽く笑った。


「いいよ。何話す?」


「えっと行きたい外国の話」


「行きたい外国?」


「中崎さんはどこに行きたいですか?」


「うーん。マチュピチュとか行ってみたい」


「あー、確かに見てみたいです。高山病とかなりそうですけど…。行ってみたいです」


「十子ちゃんは?」


「私は…オランダです。風車とかチューリップとか」と言うと、さらに笑われた。


「行ったことあるよ。学生の頃。でもみんな大きくて…。十子ちゃんだったら子供みたいになっちゃうかもね」


 私は驚いて、声をあげる。それからオランダ旅行の話を聞いたりして、私はぜひ行ってみたいと思った。


「森…が山じゃなくて平面だから全然暗くなくて…。だから林なのかな? 光が届いて綺麗なんだよね」


 映画を見るより、私は中崎さんとたくさん話したいと思った。オランダ行ったなんて知らなかったし、マチュピチュに興味があるなんて思いもしなかった。


「じゃあピラミッドとかも興味ありますか?」


「ある。行ってみたいけど…お墓だから怖いよね」


「あー、確かに。王様の霊は成仏してるのかな」


 話すとだんだん楽しくなってきた。中崎さんも笑っている。


「いつか一緒に行けたらいいですね」と私は叶わない約束でも未来に交わる可能性が欲しかった。


「十子ちゃんと一緒に? どこ行こう。月とか?」


 本当にどこでもいいと思った。中崎さんと一緒なら、月でも、どこでも。こんな気持ちは初めてだった。吉永さんを好きだと思っていた時と全然違う。つけっぱなしのテレビから「Fly me to the moon」が流れてくる。


「あ、シンクロ。私を月まで連れてって」と私は微笑んだ。


「いいの?」と真剣な顔で見つめられる。


 イケメンの顔を直視できなくて、やっぱり顔を手で覆って、頷いた。抱き寄せられて、私は驚いて手を外す。


「可愛い下着は興味あるけど…」と顎を上げられた。


 心臓が早撃ちをする。不安が近づいてくる。


(あ、この苦しさ…)


 またありえないくらい心臓が苦しい。


「中崎…さ」


 具合が悪くなったのをすぐに察知して、横にしてくれた。


「服…も…何も…かも…脱ぎ…たい」


 可愛い下着も苦しく感じる。


「十子ちゃん、ごめん。大丈夫? ゆっくり息吐ける?」


 厄介だ…と思いながら、私は息を吐いた。その間、ずっと背中をさすってくれる。その温かさは少しも怖くないのに…。私は涙が溢れた。


「大丈夫?」と慌てて、ティッシュを持って来てくれる。


「なか…さき…さんの…こと…好き…なのに…」とティッシュで涙を押さえる。


 可愛い下着も披露するどころか、取り去ってしまいたい。心配そうな中崎さんに「服…脱いでも…いいですか?」と言った。中崎さんは手を口に当てると、ベッドがから毛布を持ってきてくれる。それをかけてくれてベランダに出てくれた。そこまでしなくても…とは思ったけれど、毛布の中で私は着ているものを全て脱いだ。苦しくて、何もかも脱いだけど、それでも苦しい。本当に心臓を掴んで外に出したくなる。


 トラちゃんが私の上をピョンと飛んだ。


「あ…」


 そして毛布の上に乗って、私の鼻を猫パンチする。パチンと何かが弾けて、急に楽になった。


「ありがとう」


「にゃーん」とトラちゃんが鳴く。


「後で、チュールあげるね」と私は体を起こした。


 私は呼吸が楽になって、ゆっくりと息を吐いた。随分楽になった。私が起き上がっているのを見たのか、中崎さんがベランダから戻ってきた。


「十子ちゃん、大丈夫?」


「はい…」と毛布を巻き付けて答える。


「服…着れる?」


「あ…あの…。試したいことが…」


「試したいこと?」


 お願いしにくいから、私は中崎さんを手招きした。ちょっと近づきにくそうにしていたが、ゆっくり来てくれた。


「何?」としゃがんでくれる。


 私は中崎さんに抱きついた。毛布が腰まで滑り落ちる。


「…」


 固まる中崎さんだったけれど、私はもう胸が苦しくなることはなかった。


「とう…子…ちゃ…ん」


 深いため息を吐き、安堵の気持ちになる。


 でも抱きつかれた中崎さんは顔を赤くして、毛布をずり上げて、私の肌を隠した。


「どうしたの?」


「もう…後、少しです」


「え? 何が?」と背中まで毛布を巻き付けてくれる。


「私の不安に…変なものがついてたみたいです。まだ少し…怖いけど…」


「不安に?」


「はい…。やっぱりあれはとっても怖くて…。心にヒビが入って、そこに変なのに漬け込まれたみたいです」


 私が気がつかない間に…。もしかして生き霊だったかもしれない。今、トラちゃんが返したから…もしかしたら、明日…送った人は良くないことが起こるかもしれない。


「もう大丈夫?」


「あんなにひどくは…ならないと思います。しっかりしなきゃ」と私は自分に言い聞かせた。


「十子ちゃん…。あの…服…」


「あ、あ…」と私は今更恥ずかしくなった。


 裸で抱きついたのだから、下は毛布で隠されてるとはいえ下着姿どころではない。そして可愛いご自慢の下着はソファの下に落ちていた。手を伸ばして取る。


「可愛いの買ったんです」と仕方なく言ってみた。


「…うん」と中崎さんが赤い顔で同意してくれた。


「クマと…どっちがいいですか?」とついでに聞いてみる。


「…どっちでも…いいけど…せっかく買った可愛い方…。ちょっと移動してもいい? その間に、着替えてくれる?」と洗面所の方に行ってくれた。


 私はその間に着替えて、そしてチュールをトラちゃんにあげる。トラちゃんは喜んで食べてくれた。中崎さんはなかなか遠慮して出てこなかった。私はちょっとお腹が空いたので、ピザを温めてお茶でも淹れようとお湯を沸かす。お湯が沸いて、お茶を淹れた時、中崎さんは出てきた。


「十子ちゃん…」


「お茶どうぞ」


「ありがとう。あのね…。最大級の色仕掛けだったから」


「え?」


 中崎さんが顔を赤くしていうから、私も恥ずかしくなる。そんなつもりではなかったけれど、確かに大胆なことをしてしまった。


「…ごめんなさい」


「十子ちゃん」と言って、そっと抱きしめられた。


 少しも怖くなくて、私も腕を背中に回した。温かさに包まれると心地よくなる。髪を撫でられて、うっとりしているとピザの焦げた匂いがした。


「あ、トースターにピザ入れてるんです。食べようと思って」と慌てて腕を離す。


 急いでスイッチをオフにして「ちょっとだけ焦げてるけど…中崎さんも一緒に食べましょう」と言うと中崎さんは苦笑いをする。


 温め直した焦げたピザでお腹も満たされると眠気が出てくる。ソファであいかわず訳の分からない映画を眺めていたけど、中崎さんにもたれて眠ってしまった。


「十子ちゃん…洗濯物」


「あ…干します」と目を擦る。


 二人でベランダで洗濯物を干した。それがなんだか嬉しくて恥ずかしい。今日も星が見える綺麗な空だ。


「いつか月まで」と中崎さんに言うと、笑いながら頷いてくれる。


 叶わない約束をたくさんして、少し安心する。

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