第45話

婚活スタート


 私は今日は家に帰ろうと思っていたので、急いで帰る用意をする。梶先輩の家は近くていいのだけれど、私の家は電車で一時間くらいかかる。


「はー、疲れた」と運良く座れた座席で疲労を感じる。


 ここ数日の疲れがどっと押し寄せてくる。


 電車の中で出会い系アプリがどれがいいか精査する。たくさん登録すれば、それだけいろんな人とマッチできるのだろうか、と思い悩む。男性は有料で女性は無料などの本気度が高いアプリにしようと決める。プロフィール写真を載せたりしなければいけないので、電車の中で簡単には登録出来なさそうだった。


(んー。いい人と出会えるといいなぁ)とにんまりと笑う。


 理想は正社員、家庭的な男の人で、一緒に買い物に行って、料理を作ったり…と想像する相手が中崎さんの姿なのが困ってしまう。ため息が漏れる。中崎さんを忘れてるためにも早く相手を見つけなくてはいけない。


(は! 会社も辞めて、何もかも新しいスタートを始めたらいいんじゃないか)と電光石火のようなひらめきが浮かんだ。


 今の会社にいて、みんなと仲良くできないまま婚活をするより、もういっそコンビニアルバイトをして婚活に勤しんだらどうだろうか、と思った。そのアイデアがとてもいいような気がした。結婚したら、どうせ仕事を辞めて、子供が生まれたらパートをするんだから、今からコンビニバイトをしても問題ない。


 私は自宅の最寄駅に着くまで、自分の想像が素晴らしく思えて、帰宅したらすぐにアプリをダウンロードすることに決めた。


「ただいまー」と私がドアを開けると、お母さんが変な顔をしている。


「おかえりなさい。お久しぶり」と言われた。


「どうしたの?」


「あなた…大変だったんじゃない? ちょっと…大丈夫?」


「え? あ…うん。まぁ、なんとか」


「今は大丈夫そうだけど…」と心配するお母さんに梶先輩の部屋であったことを話す。


「それで中崎さんが一緒だといなくなったって?」


「うん。そうなの」


「じゃあ、中崎さんと一緒にいなさいね」


「え?」


「多分、悪霊化してるって思ってるなら、簡単には行かないわよ」


「…。そっか。でも…」


「そうか…、手を引くか」とお母さんは言った。


 それはできないと思っている。私は梶先輩に救われたのだ。みんなに嫌われていたのに、梶先輩だけは可愛がってくれた。だから今まで会社に勤められたと言っても大袈裟ではない。


「ねぇ、お母さん、どうして私はみんなに好かれないの?」


「…それはどうしてかしらね?」


 お母さんも分からないのなら、仕方ないか、とやっぱり仕事を辞める方向に向かおうと決めた。



 夜、ベッドに入って婚活アプリを選んでいると中崎さんから電話が来た。すぐに出たので「驚いた」と言われる。


「今、婚活アプリを選んでたんです」


「婚活アプリ?」


「はい。聞いてください。私は結婚して子供を産んで、育てて、パートに出ようと思うので、すぐにでも結婚しようと思います。後、会社も辞めます」ときりっとした顔で言う。


「十子ちゃん。あのさ…」と言う中崎さんの後ろから猫の鳴き声が聞こえた。


「あれ? 中崎さん…猫飼ってます?」と私は聞いた。


「え? 猫?」


「はい。にゃーって聞こえました…け…ど」


(あ、やってしまった)と私は言ってから気がつく。


 その猫は実在しない猫だ。怖がりの中崎さんに対してやってはいけないことをやってしまった。


「猫は…いないんだけど…。それって…昔飼ってたトラかな」


「トラちゃん?」


「小さい頃に飼ってた猫で…。よく懐いて可愛かったんだけど」


「そうなんですね」


(あー、また中崎さんを怖がらせてしまった)と時計を見る。


 時計は十一時を差していた。


「えっと、それでなんでしたっけ?」


「十子ちゃん。明日、家に来てくれない? 本当にトラか知りたいから」


(あー、そうですよね。トラちゃんでありますように)と私は自分の軽率なところを後悔した。


 こう言うところが嫌われるところなんだろうな、と分かった。


「伺います。きっとトラちゃんですから。大丈夫です。安心してください。ね…トラちゃんだよね」と私が言うと、中崎さんの震えが電話から伝わってくる。


 また電話越しに猫の鳴き声が聞こえたけれど、私はもう言うのを止めた。きっと返事だと思うけれど。


「十子ちゃん、明日のお昼奢って」


「あ、もちろんです」と慌てて言うと、手が滑って通話ボタンをオフしてしまった。


 すぐに折り返しかかってくる。


「そうじゃなくて…。奢ってあげるから、お願いなんだけど、寝るまで電話繋いでてくれる?」


「え?」


「そのまま寝てくれていいから」


「…いいですけど。ちょっとトイレ行ったりしますけど、いいですか?」


 わずかに笑ったような息の音が漏れる。そして咳払いをしてから、中崎さんが言う。


「ごめん。本当に。明日のお昼は奢るから」


「仕方ないなー。電源落ちても知りませんよ」


「大丈夫、それまででいいから」


 私は「変なの」と思いながら寝る準備を始めて、携帯を枕元に置く。


「中崎さん…、じゃあ…おやすみなさい」


「おやすみ」


「にゃー」


(ほら…いるのに)と思ったが言わずに瞼を閉じた。


 そして私はすぐに眠ってしまった。婚活アプリのことはすっかり忘れてしまっていた。



 翌朝、私は会社で中崎さんに会う。


「昨日はありがとう。お昼は好きなもの言って。何でもいいよ」


「なんでも…? 好きなもの!」と私は途端にハッピーな気持ちになる。


「じゃ、考えといてね」と爽やかに去っていった。


 猫のことで眠れていないんじゃないかと思っていたけれど、今朝の様子だとぐっすり寝れているようで、安心した。相変わらず、周囲の視線は痛いが気にしないことにした。だって辞めることを決めたから…と私は腹を括る。

 いつのタイミングで辞めるかは上司と相談しないといけないな、と思っていた。ふと部長を見ると、目が合う。すると手招きされた。

 

 なんだろうと近寄っていくと「ちょっと時間いいかな? 仕事忙しい?」と聞かれた。


「大丈夫です」と言って、部長と連れ立って、会議室に向かった。


(何かミスしただろうか)と顔面蒼白になる。


 廊下で梶先輩とすれ違った時に「頑張れ」と小さな声で応援してくれる。


 会議室に入ると「まあ、座って」と言われる。


「あのね。単刀直入に聞くけど、今の状況ってどう?」といきなり言われた。


「今の…ですか?」


「うん。仕事しにくいとか、楽しいとか…」


 まさか向こうから言ってくれるなんてこれは渡りに船だと思った。リストラ対象者なのかもしれない。となると、勤続年数は短いながらも、退職金上乗せか…と思わずにっこり笑ってしまった。


「はい。あの…」と言いかけると、遮って「出向のリストに君がいてね」と言い出される。


「出向?」


 思いがけない言葉に私は聞き返してしまった。


「そうなんだ。しかも遠くに」


「通えないほどですか?」


「うん? まぁ、それはともかく、おかしな人事だって抗議して、君の仕事のこと伝えたわけ。誰よりも丁寧だし、残業も喜んでやってくれるって…」


「あ…ありがとございます」


 私の知らない間に部長にまで迷惑をかけていたとは思わなかった。辞めていいってことだ、と私はぎゅっと拳を握る。


「そんなこと僕は認められない。むしろ君にはチームリーダーになってくれないかと思ってさ」


「え?」


 どうして出向がチームリーダーになるのだ、と私は目が点になった。


「君を出向させて残った人では仕事にならないだろう。コネ入社ばかりの子たちは男探しに来てて、仕事、全然進まないし。今回の人事も誰かの我儘をコネを使って、言って来たようなもんだし…。ほんと、そんなことしてたら、会社、良くならないよ」と部長はため息をつく。


 そうは言って部長も親会社からの天下りだ。


「…あの、考えさせてください。私にチームリーダーが務まる気もしないですし…」


「まぁ、メンバーがメンバーだしね」


「実は辞めようかと考えていて」と私が言うと、今度は部長が慌て始めた。


「あ、ちょっと落ち着いて欲しいんだけど。待って。今辞められたら…大変困るので、ちょっと考えるから、待って」と落ち着いて欲しいと言う部長がそわそわし出した。


 そう言うわけで、一旦、この話はお開きになった。


(男探しに来てて…)って部長が言っていたけど、私だって、同じようなものだ。


 それに今からガッツリ男探しをすると言うのに、とため息を吐いた。オフィスに戻ると、心配そうに中崎さんがこっちを見ている。


(中崎さんの件が終わるまでは…)と思って、笑いかける。


 するとすごい勢いで顔を逸らされた。ちょっとショックだった。


 午前中の仕事を終わらせて、私は約束の何でもを考えついていないことを思い出した。


「十子ちゃん、お昼行こう」と中崎さんに声をかけられる。


 もう視線が痛かろうが、どうであろうが、私は気にせずに立ち上がる。コネ入社の女性が私を飛ばすように言ったと知って、なんだかそこまで嫌われるのなら、もういいや、と吹っ切れたのだ。


「朝、部長に呼ばれてたけど、大丈夫?」


「あ…それは…まだ分からなくて」と会社内では言えない話だった。


「外、出ようか」と言ってくれる。


 私は何が食べたいのか分からなくて「コンビニ行きませんか? それ買って、公園で食べたいです」と言った。


 何よりも今は外の空気が吸いたかった。


「いいよ」


 二人でコンビニに行く。よく考えたら、昼間に行くのは初めてだった。昼食時はお店も忙しそうだった。


「私、ピザまん食べよー」とレジに並ぶ。


 手にはトマトジュースとカップに入ったシフォンケーキを持っている。中崎さんは普通にお弁当を選んでいた。


「あー、カレーまんも食べちゃおうかな」と中崎さんに聞いてみる。


「奢るからね。好きなの選んで」


「いつも…ありがとうございます」と言って、甘えることにした。


 コンビニを出ると、少し歩いて公園に向かってベンチを探す。うっかりしてると争奪戦に負けることになる。


「あ、あそこ空いてる」と私は走ってベンチまで向かった。


 振り返って中崎さんの方を見ると、秋の公園をゆっくり歩く姿がフォトジェニックで思わず見惚れてしまった。完璧な姿で、誰からも好かれる中崎さんとランチを食べるのだから、やっかみが相当あるのも仕方ないか、とぼんやり思った。


「はい」と私の選んだ中華まんを渡してくれる。


「ありがとうございます」と言って、ピザまんを頬張った。


 安定の味で足をバタバタしてしまう。


「美味しそうだね」と言われるので「一口どうぞ」と差し出す。


「普通のしか食べたことないから…」と言って、私の齧ったところを食べた。


 なんだかすごく恥ずかしくなる。


「ほんとだ、美味しい」と微笑みかけられて、ピザまんが金色に光って見える。


 私はゆっくり受け取って、そのピザまんを食べるか躊躇してしまう。


「そう言えば、朝の部長…なんて言ってたの?」と聞かれた。


「あ、多分、言っちゃだめな話だと思うので…。部署移動? 的な話ですかね」


「部署、移動?」


「でも私は辞めようかな…って思ってた矢先で。…それより、どうして朝、ぷいってしたんですか?」


「え?」


「ほら、目があったのに」と私が言うと、なぜか中崎さんは顔を赤くした。


「それは…」


 その後の言葉は秋の光に溶けてしまって、私も黄金のピザまんを手に固まってしまった。お昼時の公園はいろんな人がのんびりしている。ゆったりした時間の中で、数秒、私たちは動けなくなる。


 黄色い光が陽の傾きが夏とは違うことを教えていた。

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