第17話

部屋の鍵を開けて出ると、そこには黒いコートに身を包んだミツキの姿があった。そんなミツキを見て、奏は思わず顔をしかめた。


「何でそんな暑い格好しているの…?今、夏なんだけど」


 夕方とはいえ、季節は夏。熱も吸収しやすい黒と厚手のコートにより、見ているこちらが暑くなってくるようだ。しかし、ミツキは涼しげな顔で言ってのける。


「俺はどの季節もこれを着ているぞ。暑いとか、よく分からないからな」

「へー。吸血鬼に生まれて良かったですね」


 何だか悔しくて、奏は皮肉をまじえてしまう。ミツキはムッと顔をしかめた。


「おい、何だその言い方。そんな事言っているとキムチ鍋作るぞ」

「臭いの苦手なあんたがキムチ鍋なんて作れないでしょ」


 そう言いながらミツキを抜かして階段を降りる。吸血鬼が苦手なのはニンニクだけではなく、臭い物全般だっていうのはさっき調べたばかりだ。


「何で知っているんだ?」

「…え」


 揚げ足を取ってやったと思っていた矢先に、突然そんな事を問われて、奏は思わず階段を降りる足を止めた。


「何で知っているんだ?」


 背後からもう一度同じ質問をされる。奏は喉を鳴らしてゆっくりと振り返った。ミツキは奏の数段上にいるので、見下ろす形になっていてやけに迫力がある。


「何でって?」


 引きつった笑みで聞き返すと、ミツキは階段を降りてきた。奏もつられて後ろ向きのまま階段を降りる。


「普通一般人が知っているのはせいぜいニンニクが嫌いって事だけだ。なのに、奏は臭い物が嫌いと言った。何で知っているんだ?」


 無表情で降りてくるミツキが、怖い。焦って早く階段を下りようと足を上げた時―


「……あっ!!」


 階段を踏み外し、奏の視線がミツキから天井へとクルリと反転した。

 落ちると確信して、ギュッと目を瞑る奏。しかし、背中に衝撃は来ず、その代わりに反対側から思い切り手を引かれる。

 恐る恐る目を開けると、そこにはミツキが自分の腕を持っている姿。落ちそうになった奏の腕を瞬時に掴んだようだ。

 宙ぶらりんになっている反対側の手の感触に、思わずゾクリと鳥肌が立つ。このままミツキに掴まれていなければ…と思うと、奏は安堵のため息を漏らした。掴まれた腕が痛んだが、大事にならないよりはマシだ。


「…あ、ありが……ってちょっと!」


 お礼を言おうとしたが、ミツキが腕を掴んだまま階段を下り始め、今度は引っ張られる形になってしまう。


「ちょ…ちょっと、何……」


 ミツキが階段を下り切り、引っ張られる形になっていた奏も最後の一段を降りた瞬間―突然ミツキがこちらに振り返ったと思うと、奏はそのまま腕を引かれ無理やり壁に押し付けられた。背中に軽い衝撃が走る。

 何事か、と目を見張った時、奏の顔の横にミツキの手が付く。目の前には、ミツキの綺麗な顔。未だに現状を把握しきっていない奏に、ミツキはゆっくりと口元に弧を描いた。


「本当の事を言わないと……痛い目に合わせるよ?」

「…ほ、本当の事って何よ……」


 近くにあるミツキの顔を直視できず、奏は目を逸らしながら尋ねる。その様子を見て、ミツキはクスリと笑った。


「隠すのが下手だね、奏は。どうせ吸血鬼の弱点でも探していたんだろう」

「そ、そんな事無い!!」


 意地になって声を上げる。それが隠し事をしているのを証明している事になっているのだが、必死になっている奏は気付かない。

 ミツキは壁に手を当てたまま、少し考える素振りを見せてから……悪どい笑みを浮かべた。


「奏。もう日没の時間だ……」

「…え?」


 奏は思わずミツキの方を見てしまう。そして―ミツキの黒い瞳が、赤くなる瞬間を目撃してしまった。

 赤い瞳になるという事は、日没が来て完全な吸血鬼になったという事。今、奏は力を取り戻した吸血鬼…ミツキに逃げ場を奪われた状態でいる。

 奏の背中に、冷や汗がつたったのが分かった。


「さあ、奏…どうする?言って楽になるか…それとも痛い目に合うか……」


 赤い瞳のミツキが妙に優しい声で聞く。

 思わず言ってしまいそうになったが、言ったら言ったで結局痛い目に合いそうなので、奏は押し黙る事にした。


「……そう」


 無言を拒否と受け止めたミツキが大袈裟に溜め息を吐いた。そして眉を下げて残念そうに笑ってからポツリと呟いた。


「あんまりこういう手は使いたくないんだけど……仕方ないよね?」

「こ、こういう手って何……」


 両手は封じられていないので、すぐにでも払いのけてミツキを突き飛ばす事が出来る。なのに、何故か奏はそれをしなかった。いや、出来なかった。

 ミツキの血のように鮮やかな瞳に見られると、まるで金縛りにあったように動けなくなるのだ。最初はまた催眠術でもかけられたのかと思ったが、指の関節は普通に動く。

 本能が恐怖しているからか。それとも―


「奏」


 いつもより艶っぽいミツキの声が奏の鼓膜を震わせる。

 しかし、返事をする余裕も無く、奏は蛇に睨まれた蛙の如く、ミツキの端正な顔を見ている事しか出来なかった。

そんな綺麗な青白い顔が、突然距離を詰めてきた。


「!!」


 奏は無意識にミツキの胸をいつの間にか拘束を解かれていた両手で押さえ、これ以上来させまいとする。それでもミツキの力は強く、徐々に二人の距離は近付いていく。


「な、なな…何する気……?」


 これ以上近付くと鼻先がくっついてしまうんじゃないかという距離になった時、耐えられなくなった奏は視界に入りきらなくなったミツキの顔を見ながら尋ねる。ミツキは口の端を上げて笑うと、熱の籠った奏の頬に手を添えた。


「奏は何をすると思う?」


 目を半分閉じて問うミツキが何だか色っぽくて、奏は思わず顔を真っ赤にさせた。


「何って……」


 男女が顔を寄せ合うといったら。唇と唇を重ねる情景が浮かび、奏は更に顔を赤くさせる。林檎のようになってしまった奏を見て、ミツキは苦笑した。


「残念、それじゃないよ」

「……え」


 ミツキの言葉に、奏は思わずきょとんとする。そんな奏の様子がおかしかったようで、ミツキはくつくつと喉の奥で笑った。


「俺は吸血鬼だよ?やる事が違うだろ?」

「何…?」


 頭が正常に回らないので、ミツキの言いたい事が分からない。視線を逸らして必死に思考回路を動かしていると、しびれを切らしたミツキが口を開いた。


「何って、吸血だけど?」

「……!!」


 言われて、気付いた。奏の考えていた事をしようとしているにはミツキは身体を屈め過ぎだし、何より背が低いはずの奏が見下ろしている形になっている。ミツキの唇は、最初から奏の首筋を狙っていた。

 自分の勘違いを恥じて、今度は顔を羞恥で赤らめる奏。しかも、ミツキは確実に奏の想像を見抜いていた。だからこその否定発言。


「何変な事想像しているんだよ」


 そして更なる追いうち。奏は怒りと羞恥心でわなわなと震えながら叫んだ。


「そんなの、していない!!」

「フ…まあいいよ。それより奏…動揺しているから気付いていないと思うけど…今自分の身に危険が迫っているのに気付いている?」

「え……」


 言われて気付いた。他の行為と勘違いしていたから気にしていなかったが、ミツキは何て言っていたのか。


「―!!」

「あ、気付いた?」


 奏の顔色が変化したのを確認したミツキは怪しく笑った。

 吸血。あの夜の時にされそうになった事を今また再現されようとしている。奏は力いっぱいミツキの身体を押した。


「な、何言っているの…!最初に私の血は吸わないて言ったじゃない!」

「だから言ったじゃん。こういう手は使いたくないって」


 分かってないなあ、と小馬鹿にしたように話すミツキ。いつもならカチンとくる奏だが、今はミツキの身体を押すのに精いっぱいで構っている暇が無かった。

 しかし努力虚しくミツキは楽々と奏との距離を詰めていく。


「奏が正直に話してくれるなら止めてあげるよ」

「……脅しって事…?」

「人聞き悪いなあ…“交換条件”だよ。話して楽になるか、吸われて苦しい思いをするか…二択だ。どっちにする…?」

「……」


 正直話して楽になりたい。だけど、それはミツキに負けたような気がして嫌だ。奏の小さな意地が正直に言う事を阻んでいた。

 頭の中で葛藤をしていると、目の前からミツキの溜め息が聞こえた。どうやら話さないという選択をしたと思ったらしい。

 ミツキは眉を下げると口を開けてわざとらしく鋭く尖った犬歯を見せた。


「じゃあ仕方ない…奏……いただきます」


 そう言ってミツキは奏の首筋に顔を近づけた。


「い…いただきますじゃない!誰があげるか!!」


 全身の神経を腕に集中させて力を注ぎこむ。


「じゃあ言えよ。それで全てが丸く納まる」


 しかし本領を発揮している奏でさえ、吸血鬼の前では無力。距離は離れる所か、どんどんと近付いていく。それでも奏は力を緩めなかった。


「………それとこれとは話が別!!」

「はい交渉決裂―お前夕飯決定―」

「そのご飯的な表現やめて!!」


 表面では強がっていた奏だが、心中ではかなり動揺していた。

 結論的に否定的な行動をとってしまった奏は、混乱してごちゃごちゃになった頭で必死に打開策を練ろうとする。…が、ミツキの牙は目前。考えている余裕がない。

 このまま謝ってしまおうか。だが、同じ学校に転校して、屈辱的敗北を受け、更には同居生活まで強いられている。これ以上好き勝手にはされたくない。

 ミツキの吐息が奏の首筋にかかり、ブルリと身震いをする。

 危機感が奏を焦らせ、自然と視線がミツキの方へ向く。もう顔も確認出来ないくらい接近しているミツキの黒髪が頬をくすぐる

 その時、ミツキの首筋が目に入った。青白くて、まるで血の通っていないような首筋―その瞬間、身体が勝手に動いた。

 やられたらやり返せ。よく聞く乱暴な言葉だが、奏の辞書にはもっと乱暴な語句が載っていた。

 やられる前にやり返せ。奏は口を大きく開けると、勿体ぶって噛みつこうとしないミツキの首筋に噛みついた。


「痛ぇぇっ!!」


 ミツキの悲痛な叫びがすぐ横で響く。そして瞬時に奏から身体を離し、信じられないと言いたそうに目を見開きながら噛まれた首筋を押さえた。


「おま……吸血鬼に噛みつくなんて…どういう神経しているんだ!?」

「やられる前にやり返せ……これが私のモットーなんでね」


 口元を拭いながらニヤリと笑う。腕力で勝てないなら、自分の持っている武器を使うしかない。卑怯な手だが、こっちは血液が懸かっているのでそんな事気にしていられなかった。


「本当に学園一の危険人物だな、お前」


 はあ、と溜め息をつきながら首筋から手を離す。少し強く噛み過ぎたから血が出てしまったかと思ったが、血どころか歯型すらも見当たらなかった。

 銀以外の武器では傷つけられない。先程調べた言葉が奏の脳裏を過った。


「本当によくもやってくれたよなぁ…」


 顔を俯かせて低い言葉で呟くミツキに、奏は思わず構える。

 これは、かなり怒っている。無理はないか。優位に立っていたと思っていたら急に形勢逆転をされてしまったのだから。

 さて、どう切り抜けようかと奏は考える。

 腕力は勝てないから、隙をつかなければ。あちらは有利だと思っているからすぐに隙を出すはずだ。速さは前に見ているから行動を予測して避ければ―

 頭をフル回転させてミツキ対策を練る。よし、と準備万端になったその時。


「―はははっ!!」


 顔を俯かせていたミツキが、突然声を上げて笑った。

 何で笑いだすのか全く見当がつかない奏は、拳を構えたまま首を傾げる。一方のミツキは腹を押さえてまだ笑っている。


「……何がおかしいのよ」


 いつまでも笑っているミツキに苛立ちを覚えた奏が聞く。すると目に溜まった涙を指ですくいながら、ミツキが答えた。


「お前って……本当に面白いな」

「はぁ?」


 どういう事だ、と奏は眉間に皺を寄せた。


「私は何も面白い事なんて言った覚えが無いんだけど?」


 奏の不機嫌オーラに気付いたミツキは「悪い、悪い」と軽く謝ってから緩んだ口元をきゅっと引き締めた。


「いやな、女にこういう事されたの初めてだし、吸血鬼相手に物怖じしない奏が面白くてな…見ていて飽きない」

「何で私があんたに物怖じしないといけないのよ」


 奏は強気に言ってみせたが、ミツキには気付かれなかったようだが、正直何度か物怖じした記憶はある。初めて吸血鬼に会って恐怖を感じない人なんていない。けれどそれがバレたら相手の思う壺だと、奏は表情に出さなかったのだ。

 今まで幾度と強い相手と戦ってきたから。弱さを見せた瞬間負けだと学んできたから。昔からあの子を守る為に喧嘩をして―

 奏ははて、と首を傾げた。あの子とは誰だろう。奏は幼少時代から喧嘩が絶えない生活を送っていた。だが、理由のない喧嘩なんてしない。―あの子を守っていたから。

 ―思い出せない。奏の幼少時代の記憶はかなり曖昧だ。喧嘩ばかりしていた記憶はある。けれど、仲良くしていた友達の記憶はほとんどと言っていいほど無かったのだ。まるで、人為的に削がれたように。


「―奏?」


 ミツキが自分を呼ぶ声にハッと我に返る。目の前には赤い瞳の吸血鬼。この瞳を見ていると、何かを思い出しそうで―耐えられない。


「……ごめん、私もう寝る」


 奏はその瞳から逃げるように身を翻して降りた階段をまた上り始める。


「は?お前夕飯はいいのか?もしかして笑った事に怒ったのか?」

「……違う、ちょっと気分が悪くなった…」


 背後からミツキの声が聞こえたが、振り返りたくなかったので背を向けたまま呟く。


「おい、大丈夫かよ…」

「大丈夫だから、私に構わないで」


 奏のいつもと違う雰囲気に気圧されたのか、遠慮がちに心配の声を掛けるが、奏にバッサリと切り捨てられる。

 ミツキは奏の背中を追う事も無く、ただ茫然と奏の姿が階段の向こうへ消えていくのを見送った。


 奏は自分の部屋に入ると、ベッドに飛び乗る。ギシギシとスプリングが軋む音を聞きながら、ベッドの隅に置いてあるヒヨコの縫いぐるみを掴んで思い切り抱きしめた。

 自分が怖かった。幼少期の頃をほとんど覚えていない自分。そして今までそれを不思議に思わなかった自分。友達の事くらい、覚えているはずだ。誰かとおままごとをして遊んだ記憶はある。でも思い出せるのは喧嘩をした相手のみ。おままごとをした相手は、顔がぼやけていて男か女かもさえ分からない。皐と仲良くなったのは高校からなので、皐は有り得ない。

 どうして、あの子を思い出せないのだろうか。その子をずっと守っていた。なのに何で―


『―カナちゃん』


 ああ、また聞こえる。遠い日に呼ばれた私の愛称。あの子しか呼ばないというたった一つの記憶。

 ―明日両親に電話してみようか。両親なら子供の交友関係は把握しているだろうし、記憶もあるだろう。


「うーん、でも……面倒な事になりそうだなぁ……」


 そうぼやいてから目を瞑る。いつもならすぐに睡魔が襲ってくるのに、今回は全く眠気が起きなかった―

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