プロローグ
プロローグ
真っ黒な背景を背にロッキングチェアに座る彼女は、手元の文庫本に視線を落としている。
垂れる漆黒の髪は左側だけ耳にかけられ、腰辺りまでストレートに伸びていた。
前髪は綺麗に眉下で切り揃えられている。
白い肌に、鮮やかな赤いアイシャドウが切れ長の目を彩り、
小さく薄い唇は赤いリップが縁取る。まるで隙などない。
そんな彼女の傍らに、銀色のまんまるお月様が浮かんでいた。
「それ、気に入りましたか?」
「えっ…あ、」
遠慮がちに声をかけられ、はたと我に返った。
昨日のことだ。
上司から「明日有給とって良いよ。たまには何も気にしないでゆっくりしておいで」と唐突に暇を出された。
そんなわけで、久しぶりに平日の真昼に街へと繰り出した。
目的があるわけでもなく、ただのんびりと、何も気にしないで、週末よりも人の少ない道を散歩していた。
そんな折、市民会館の前を通ったらたまたま開かれていた絵画展のポスターが目に入り、なんとなく足を踏み入れたのだった。
地域の婦人会が主催の一般の方のみ参加可能という小さな絵画展のようで、近くの美大に通う学生の作品や子どもがクレヨンで描いた微笑ましい家族の絵も飾られていた。
色鮮やかな絵が並ぶ中で、私は一つの絵を食い入るように眺めていた。
声をかけてくれたのは、主催者の女性だった。
還暦は超えているであろう見た目だが、背筋がまっすぐに伸びており綺麗な白髪が品の良さを表している。
「それね、急遽飾ることにしたんですよ」
横に並び一緒に絵を見上げるおばさまは、絵画展の準備中に突如現れた女性から絵を受け取ったのだと教えてくれた。
「絵のお勉強をするために海外へ行かれるとかで、ぜひ飾ってほしいとお願いされましてね。とっても綺麗なものだから、すぐに飾っちゃったわ」
ふふっとお茶目に笑う。
「本当に、なんだか惹かれてしまう絵ですね」
「そうでしょう?」と、まるで自分の絵を褒められているように自慢げで、私もつい笑ってしまった。
「この絵、なんで背景真っ黒なんですかね?」
「不思議よねぇ。でも、真っ黒なところが幻想的よね」
「はい…なんていうか、麗しいってこういう人に使うのかなぁなんて…」
言ってから「なんか恥ずかしいこと言ったかも」と口を結べば、おばさまはその物言いが気に入ったようで
「麗しい!そうね!まさにその言葉が似合うわねぇ!」と嬉しそうに笑った。
そして、口元に手を添えて少し顔を寄せると、囁くように言った。
「この人たちね、神様なんですって」
この人”たち”…?
「物静かで強かで、とても綺麗なのだそうよ。あとね銀色の髪がキラキラしていてね、もう本当にお月様そのものだったって教えてくれたのよ」
いや、いやいや、ちょっと待って。
銀色の髪?どこからどう見ても彼女の髪は黒だ。
それに、その言い方、まるで会ったことあるかのような。
困惑する私をよそに、おばさまは絵をくれたという女性が聞かせてくれた話を、まるで少女が夢見るようにうっとりと語る。
「え、あの、実在する方なんですか?」
「…難しい質問ねぇ」
難しい!?
一体どこが。
「ふふ、実は私もね、彼女に同じ質問をしたのよ。
そして彼女の答えはこう。”果ての世界で、彼女たちは実在するんです”」
「それは、難しいですね…」
むむっと眉を寄せた私に「そうでしょ?」と相槌を打つおばさまは、なんだか楽しそうだ。
「果ての世界…あの世とか?」
「あらぁ、死んでからもこぉんなに綺麗な人に会えるなんて、素敵ね~」
「だとしたら、この絵をくれた人って、」
「え、あらあら、そうね、ここに来れるわけないわねぇ」
二人で顔を見合わせて、目の前で涼しげな顔で本を読む彼女を見やる。
「でもねぇ、私この絵を見て、神様って本当にいらっしゃるんだなって思ったのよ。なんでかしらねぇ」
不思議。私も、同じことを考えた。
絵を持ってきた女性は”そういう”コンセプトで描いたんだろうと分かっているのに、実在するんじゃないかと思えてしまう。
それほどに、彼女はリアルだった。目の前にいる彼女を模写しているような。
「こんなに綺麗な方なら、私もいつか会ってみたいわ。老後の楽しみが出来たわ~」と残して、おばさまは別のお客様のもとへ去っていってしまった。
「老後…」
少女のようだとは思っていたが、老後ってあと何年生きるつもりなのだろう。いやそもそも会えるのだとしたらそれは死後だ。
「神様、かぁ」
結局、銀髪の人の謎は解けないまま、飾られる彼女をぼんやり眺める。
―――もしも、本当に神様がいるのなら。
「私も救ってくれないかなぁ…」
独り言ちた言葉は、”彼女たち”へと届くだろうか―――
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