モデルの逃走劇
8
未だ熱が下がらない女に台所で見つけたリンゴをすって差し出すと、腹ペコの子供みたいな食べ方で貪っていた。
それを唖然と見つめながらも、ぽつりと呟く。
「まだ食べれそうならお粥とか作るけど」
スプーン片手にリンゴの擦りおろしを口の中に流し込んでいた女がピタリと動きを止める。
罰が悪そうに顔を顰めて視線を手元へと落とすと。
「い゛らない゛」
いや全くいらないって顔じゃないよね!?
物凄く食べたいけど無理してそう言ってるって顔だよね。
「食べられるなら食べた方が良いと思うよ」
「そんな事出来ない」
「何で?」
いやまあ、次に続く言葉は何となく把握してるんだけど。
―――俺の手を煩わせたくないとかそんな。
「あなたの手を煩わせたくない」
はい当たった。
どうしてこの女はこうなのか。
色々矛盾しすぎてて、どういう基準でそんな事を考えちゃうのか全く分からない。
俺と一緒の空間で飯を食べる事も嫌がっていたし(これは何とか説得した結果了承してくれたけど)。
かと思えば風邪がうつるから放っておいて、だけど逃げないでとか言い出すし。
本当無茶苦茶な女の子だ。
むしろ早く元気になってもらわないと逃げるに逃げられなくて困るんだけど、とは言わないでおく。そんな事を言おうものなら這いつくばってでも俺に手錠をかけてきそうだ。
「良いよ全然手間じゃないし。俺もついでに食べるから」
「あたしが作るっ」
「そんな状態じゃ危ないっしょ」
空っぽになった器を片手に立ち上がる。乱れていた布団を女にかけてやった後、室内を出て行こうとするともごもごと女が呟く。
「こんな事させて罰が当たる。」
何度も思うけど誘拐した事に関しては罰は当たらないのか、と心の中で突っ込んでおいた。
女が体調を崩してから恐る恐る入った台所は綺麗に整頓されていて、尚且つ冷蔵庫にはぎっしりと食材が詰め込まれていたから助かった。
お粥を作りながらも自分に強く言いきかせる、女が治ったらすぐに出ていこう、でないと本当にタイミングを失うぞと。
「それ食べたらちゃんと寝なよ」
卵粥を作り、女に器を手渡した。
一人暮らしをしてたから、料理はそれなりに出来たりする。けれどこんな所でそれが役に立つとは思わなかった。
女は上半身をのっそりと起き上がらせた。
額からポトリと濡れタオルが落下する。
乱れた前髪は眉上だから大して邪魔にはならないらしく、短い髪を乱暴に耳にかけると両手で恐る恐る器を手に取っていた。
俺はその横で立ったまま、余りの卵粥を食べる。
「おかわりしたかったら持ってくるから気軽に言って」
「そんなに甘えられない」
今の状況でさえ納得していないのにと言わんばかりに女が口をムっと曲げる。
器から上がる湯気が女の顔にふわふわと当たってる。
すんすんと匂いをかいで、空腹に負けたのかスプーンを掴むと「いただきます…」か細い声で律儀にそんな事を呟いて卵粥を口へと運んだ。
ずぼっと勢いよくその一口を押し込むと、暫く押し黙りーーーガッと突然凄い勢いで食べ始めた。
何日も食べてなかったみたいな食べっぷりだな。
何ともまあ見ていて気持ちが良い。
がつがつと器の中身を全てたいらげると、女はぼんやりと器の中身を見下ろした。
「食べる?まだあるよ」
「い゛らない゛」
「そこは素直になれよ」
すんごい顔だな本当に。いじけた子供のように眉根にシワを寄せ、口をこれでもかというくらいへの字に曲げている。
それだけ食欲があるのなら、明日には熱が下がるかもしれない。
俺は熱が下がった後の計画を頭の中で密かに練りながら、女が両手で包み込んでいた器を手に持った。
「持ってくるからちょっと待ってて」
「…何でこんな事する」
「何でって?」
「看病…とか、」
そんな事俺が聞きたいよ。だけどーーーだって放っておけないんだからしょうがないっしょ。
俺は小首を傾げながらも「分かんない」と素直な気持ちを口にする。
女は暫くジっと俺の様子を窺うと、もじもじと布団の端っこを指先でいじりながら小さい声で「…ありがとう」と呟いた。
上手くは言えないけれど、俺がどうしてここに残ってこの女の看病をしてるかって、たぶんきっとそういう姿を見ちゃったからだ。
女の高熱はそれから2日程続いて、ようやく3日目にして熱が下がった。
「良し」
眠っている女の額に手を当てる。熱はもうすっかり引いていて、顔色も良くなっていた。
食後に飲んだ風薬の副作用が効いたのか、女は落ちるように眠り今もまだ目覚めない。
俺は最後にもう一度女の額に置いておいた濡れタオルを変えて、今度こそ出ていくぞと腰を上げた。
ぐるりと室内を見渡してみる。コンクリートむき出しの部屋はいつ見ても何だか寂しかった。
廊下へと出ると「お願いだから行かないで」と縋るように呟いていた、女の言葉が脳裏に浮かんだ。
いやいや、無理無理。
頭をぶんぶんと横に振って、勢いでそのまま玄関へと向かう。一度も振り返らずに玄関の扉を押し開けた。
これまた殺風景なコンクリートむき出しの廊下は肩を震わせる程寒くて、足早にその場を立ち去る。
なるほどここはマンションの中だったのかと、今更ながらそれを悟ってエレベーターへと乗り込んだ。
一階のボタンを連打する。扉が開く寸前で女が飛び込んできたらどうしようと、一瞬恐怖心に支配されかけたけどそんな事も無くすんなりと扉はしまった。
「はあああ…」
――――ようやく終わった。
エレベーターの中でしゃがみ込む。
両手を顔にぎゅっと押し付けると、今更ながら身体が震えた。
でもこの震えが恐怖からのものだったのか、それとも全く違う事からのものだったのかは分からなかった。
「帰ろうっ」
とにかく帰ろう。自分のマンションに帰れば本当に何もかもから解放されるはず。
凄い体験しちゃったけど、それもまた日が経つ事に忘れていってーーーー。
ぼんやりと女との日々を思い出している自分が居て慌てる。どうなってるんだ本当に、毒されすぎだろ。
けれどそんな事を考えながらも歩いていたら、見慣れた道へと出てホっとした。
自宅マンションはすぐそこで駆け足気味で帰路を進んでいく。
そうしてたどり着いたマンションを見上げ、一息ついてから自動扉を潜った矢先だった。
「ほ、本当に会えたっ」
突然真後ろからヌっと現れた影がそう言った。
驚いて振り返るとフードを深々と被った人間が立っていて、一瞬あの女かと思ってギョっとしたけど見慣れた背格好とは少し違った。
フードから垂れ下がる髪はあの女よりも随分と長く、前のめりになっている姿がやけに不気味だった。
一瞬俺以外の別の人間にそう言ったのかと思ったけど、周りには俺以外誰も居なくて。
「もっ、モデルの柚子くんですよね」
「へっ…」
間抜けな声を発して硬直する俺の中でこれはやばいんじゃないか、逃げた方が良いんじゃないかと警告音が鳴った。
だってーーーーだってだ、その女が握りしめているのがどう見ても先の尖った包丁だったから。
その切っ先がしっかりと俺に向いていたから、これはまじでかなり超絶やばいと思う。
慌てて引いていたキャリーバックを自分の前に引っ張ってくる。こんな事をしても大したガードにはならないかもしれないけど、パニックになった頭ではこのくらいの事しか出来なかった。
「私の事知ってますか。ほら、柚子くんがモデル始めた当初からずっとファンレター送ってた」
「え…え…」
「一回も返ってきた事ないけどずっと送ってたんですよ。柚子くんが有名になっても、あんまり雑誌に出なくなっても変わらず好きで応援してました。私の支えで頑張ってくれたら良いなって思って」
な、何の話だろう。
全く理解できないで目を白黒させる。
「柚子くんのファンサイトとか知ってます?それ私が管理人してて、柚子くんのために作ったんですよ」
ああーーーーああ…うんやばいこれ。
何だか分からないけどやばい事だけはハッキリした。
慌ててトートバックからスマホを引っ張り出す。あの女の時とは違って110の番号を迷う事なく押せた。
コール音が響く中、それを耳へと押し当てようとした矢先。
「なのに!」
と、女が突然包丁を突き出してきたから「うわっ!」後ろにひっくり返ってスマホが手から離れた。
ガシャっと音をたててマンションの階段を1段2段とスマホが落ちる。
遠退いたスマホに唖然としながらも自分の腹を押さえてみる。痛みは無いーーーーけど危なかった。嘘でしょ。
仁王立ちしている女は包丁を強く握りしめながらも俺を冷たい目で見下ろしていて。
「他のモデルとご飯行ったり遊んだり、そんな時間があるなら礼の一つくらいするべきじゃないの?ファンレターの一つくらい返すべきでしょ」
「…な…何言ってんの」
「何言ってるの?それはこっちのセリフ。最近有名な女モデルと付き合ってるって本当?」
「はあ!?」
それって誰ですかと思いながらも頭に浮かぶのは彗ちゃんくらいだった。無い無い無い無い!彗ちゃん彼氏いるし、その相手カメラマンの楓さんだし手出しできない無理絶対。
それにーーーー。
「たた、ただの友達だからっ!」
浮気がバレた言い訳みたいな事を言いながら両手をぶんぶんと左右に振る。
けれど納得いかないらしい女は「嘘ばっかり!」と包丁をぎゅっと強く握りしめて距離を詰めてきた。
やばい、やばい、やばいっしょこれ。
「あたしが今までどれだけあんたに尽くしてたか!初期の頃からずっと応援してたファンをないがしろにしてモデルの女とデートして」
「だから違うってっ」
もうこれは駄目だ。慌てて立ち上がってとりあえず逃げ出そうとすると女が「待てよ!」と金切り声を上げて飛び掛かって来た。
包丁の切っ先が夕焼けに照らされてギラリと光る。これは本当に死んだかもしれないと身構えた瞬間、ダっと俺と女の間に誰かが滑り込んだ。
フードがふわりと脱げると短い髪がゆらりと揺れた。
目の前の人間が体勢を低く構えた瞬間、包丁を突き出した女が突っ込んできた。
「あぶなっ」
叫んだ俺の目の前で包丁を避けたその人間が軽く女を投げ飛ばしたのは一瞬の出来事だった。
うわっと驚いた間に投げ飛ばされた女は地面に倒れ込んでいて、手から吹き飛んだ包丁が甲高い音を立てて俺のすぐ横に落ちた。
女の背中に馬乗りになった人間をまじまじと見やる、それは紛れも無く誘拐女で。
「何してる!警察呼べ!」
「あ…はいっ」
ギロリと睨みつけられて慌てて遠のいていたスマホを取りに行く。通話は一旦切れていて、110番をもう一度急いで押したのだった。
警察が来ても何ら状況を把握出来ないまま、とりあえず犯人は逮捕された。
どうやら包丁女は以前から俺のストーカーをしていたらしく、色々尽くしてやったのに俺からの反応が一切無いどころか、ここ最近女性モデルと仲睦まじい現場を目撃し逆上した結果殺してやろうと思ったらしい。
故にあの茶封筒の犯人もこの女だった。
女が管理していると言っていた俺のファンサイトを見てみたら、それはもうゾっとするような事が沢山書かれていて驚いた。
俺が住んでいるマンションの住所やら、どこで撮られたか分からない写真やら、体調の悪い柚子くんに今日は薬を届けてきただとか、とにかくファンサイトは大荒れで最終的に殺すという言葉がずらーっと並んでいた。
意外すぎる犯人と、じゃああの誘拐犯は何だったのかという事で頭が混乱していた。
警察からの事情聴取を受けていた最中「先程の女が君を誘拐していたと言っているんだけど本当?」と問いかけられ「全くそんな事はございませんし、初対面です。」と言い張っておいた。
「…疲れた…」
もう何か色々ありすぎてへとへとなんだけど。
事情聴取から解放された頃には辺りはすっかり真っ暗だった。
警察署を出た瞬間あの誘拐女とばったりと出くわして、互いに視線を重ね合う。
女はパーカーのポケットに両手を突っ込みながらいじけたように口をへの字に曲げていた。
フードは被っておらず、子供っぽい表情がハッキリと瞳に映った。
「頭のおかしい女だと思われた」
女がポツリと呟いた。
俺は「ああそう…」と力ない一言を口にする。
「あなたの事を誘拐していたからあたしの事も捕まえて欲しいっていったら、本人がそんな事された覚えは無いって言ってるから警察を煽るような事言うのやめなさいって叱られた」
「まあ、そうなるだろうね…」
「どうして言わなかった。本当の事なのに」
「何となく理由が分かったから」
俺は止めた足を再度動かして警察署の階段を下りて、大通りへと足を向けた。
その後ろを女が当たり前のようについてくるけれど、怖い気持ちは全く無かった。
「俺の事、守ってくれようとしてた?」
たぶんそうなんじゃないだろうかという気持ちだけで、自信は無かったから振り返り様に問うてみる。
女は罰が悪そうな顔をすると「でも…許される事じゃないでしょ」といじけた子供のように呟く。
それって肯定してるのと同じだけど。
「君が居なかったら俺死んでたかもしれない…って言うかたぶん死んでたと思う」
あの瞬間現れてくれなかったら、投げ飛ばしてくれてなかったら、たぶんズブリと刺されて俺の人生終わってたと思うんだよね。
許される許されないで言えば、世間一般では許されない事だと思う。
「でも助けてもらったし、酷い事されたわけじゃないからもう良いよ」
けれど、どうして俺が危ないって事を知っていたのかは気になる。
その事について聞いてみようと歩く速度を落として女の隣に並んでみて、ふと腕に包帯が巻かれている事に気が付いた。
「ねえそれ、もしかして怪我したの!」
「え…ああ。大した事じゃない」
「大した事だよ!女の子なのに!ああ…ごめん、俺のせいだよね」
「何であなたのせいになる?あなたは被害者でしょ」
「そうだけど、でもそうじゃないって言うか」
「意味が分からない」
「いや、だからさ」
俺も何て言っていいのかは分からないけど、と女の腕を掴んだ。怪我をしていない箇所をそっと撫でる。
「ごめん本当に…守ってくれてありがとう」
男が女の子に言うセリフではないだろうけど、それでも本当に感謝していたからそう言った。
女がポケっと間抜けな表情で俺を見てくる。
静かに自らの腕に視線を落とし、俺の指先を見つめーーーーぶわわわわっと効果音でもつきそうなくらい顔を真っ赤にすると。
「触らないでっ!」
ぎゃあと悲鳴を上げて俺から飛びのいた。まるで毛を逆立てた猫みたいだ。
「ごご、ごめんっ」
でもそんなに飛びのかなくても。
「ありがとうだなんて言わないで。仮にも誘拐犯に向かって言う言葉じゃないし、あなたみたいな高貴な人間はあたしみたいなド底辺人間に触れるべきじゃないっ!穢れてしまう!」
おいそっちか、もう突っ込むのも疲れたぞ。
「何度も言うけど高貴な人間じゃないし、生まれも育ちもふっつーの人間だよ俺。」
「ち、違う…あなたは…」
そこまで言いかけた女はハっとした様子で口をつぐんで、ぶわっと隣から駆けだした。
今度は何事だと呆気に取られていたけれど、女はその勢いのまま凄い速さで俺の前から立ち去ってしまった。嵐みたいな女の子だ。
取り残された俺は暫く放心して動けず、やっと正気になった頃ふと思った事はーーーーもう会えないならもう少しちゃんと話したかったな、なんてどこの青春男子だよと突っ込みを入れたくなるような気持ちで慌てた。
「とりあえず帰ろう…」
何だかどっと疲れて身体を引きずるようにしてマンションへと帰宅した。
あの女の事が頭から離れないまま新年明けて仕事が再会しーーーーーそれから月日が流れ、季節は冬から春へと変わった。
この日撮影を始める前に、スタイリストの浅野(あさの)さんから話があると呼び止められた俺は、呆然と目の前の状況を見つめていた。
「今日からスタイリストのアシスタントとして働く事になりました。紺野 紬(こんの つむぎ)です。精一杯頑張ります、よろしくお願いします」
スタイリストのアシスタントとして入った女が淡々と自らの自己紹介をしていく様を優くんと共にぼけっと見つめ続ける。
開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。
挨拶をこなした新しいアシスタントは下げていた頭を上げると、ついっと視線を俺から外した。
俺は間抜けに口を開けたまま隣で「よろしくお願いします」と笑顔を返した優くんに続き「あ…うん…」とか細い声で返事を返した。
ぱっつんの前髪、肩までの短いダークブラウンの髪、ゆったりとしたグレーのニットの下にはキャメル色のレギンスパンツを履いていて、あのぼたぼたゆるゆるパーカー姿では無かったけれど…。
どこからどう見ても、目の前に立っていた女は誘拐女で、どんな巡りあわせなのと頭を抱えたくなりながら「よろしく…です」とぎこちなく頷いたのだった。
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