第2話

 千尋が彼を初めて見かけたのは、一昨年の晩秋だった。


 あの頃、千尋は花見の季節でもないのに、毎日公園へ出掛けていた。

 その年の夏頃から桜の木には異変が起きており、心配だった。

 木が徐々に弱っているのはわかっているのに、どうすることもできない自分がもどかしい。

 亡き父との思い出の桜が無くなってしまう。心が引き裂かれそうだった。

 そんなある日、いつものように桜の様子を見に行くと、木の下に若い男性が佇んでいた。

 この辺りではまず見かけない、山高帽を被りスーツ姿の洋装をした彼は近所の住人でない。

 端正な顔立ちをしており、育ちの良い富裕層の人間であることは一目でわかった。

 彼は鞄から道具を取り出しては、木の根本や幹に何かをしている。

 千尋は、彼が桜の木に悪さをしているのではないかと心配になった。


 それから男性は頻繁にここを訪れるようになり、彼の行動が気になる千尋は物陰からこっそり様子を伺っていたのだが……。

 冬になっても男性の訪問は続いていたが、その頃には、彼に対する不信感は一切なくなっていた。

 桜の木が、以前のような活力を取り戻してきているのがわかっていたから。



 ◇



 翌年の春、男性は公園にいた。

 彼が潤んだ瞳で見上げた先にあるのは、満開に咲き誇る一本の桜。

 桜の木は、以前と変わらぬ姿を見せていた。


「良かった……」


 こぼれ落ちそうになる涙を指先で拭うと、男性は静かに去っていく。

 遠くから自分を見つめる視線に気付かぬまま……

 

 それ以降、彼がこの場所を訪れることはなかった。



 ◇◇◇



 桜は、今年も満開に咲き誇っている。


「元気でね……」


 千尋が桜の幹に手を当て話しかけると、風が吹き抜け、桜吹雪が舞い上がった。



 ◇



 一か月後、千尋はみやこ内で鉢植え売りの仕事をしていた。

『鉢植え売り』とは、花や樹木などを鉢に植え、観賞用植物として売る仕事のこと。


 千尋がある老夫婦と知り合ったのは四月の初旬、あの花冷えの日だった。

 代八車が泥濘ぬかるみにはまり立ち往生していた老翁を助けたことがきっかけで、彼らの仕事である鉢植え売りを手伝うことになる。

 家無し仕事無しの千尋を老夫婦は家に招きいれ、以来、ここで住み込みで働いている。

 高齢のため近々商いを廃業し上方かみがたにいる息子夫婦の元へ身を寄せる前に、少しでも金銭を稼ごうと日々奮闘していた老夫婦の手助けになればとの思いからだった。


 老翁が作る鉢植えは千尋から見ても状態がよく、それなりに売れた。

 残り一つとなった鉢を載せた代八車を引いた千尋が道を進んでいると、同業者の店の前を通りかかる。

 同じ鉢植え売りといっても、千尋のように商品を売り歩く者もいれば、店を持ち軒下に商品を並べて売る者もいる。

 すぐに店の前を通りすぎようとした千尋だったが、店の前で熱心に鉢を選ぶ若い男性に目が釘付けになる。

 

 山高帽にスーツ姿の男性は、『彼』だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る