「保、大丈夫なの?」


 少し鼻にかかった甘い声。


 彼女は窓際にいた私を払い退けると、彼に走り寄る。私は不意に突き飛ばされて思わずよろけた。


 すっかり忘れてたよ、彼女の存在。


「よう、怜子。来てくれたんだ。これ処分しといて」


 彼は昨夜着ていた服を彼女に差し出した。


「保、これ私が誕生日にプレゼントした服だよね? 破れてんじゃん。やだ、これ高かったのよ。どうしたの? 喧嘩でもした?」


「ごめん、ごめん。昨日火災現場と遭遇して、ちょっとな。また買ってくれよ」


 女性に高級ブランドの服をねだるなんて、こいつは彼女のヒモか。


 彼は私の方に視線を向けると、ニッと笑った。嫌な奴だけど、その笑顔は悪戯っ子みたいでなんだか可愛く見えた。


 私はそのイメージを打ち消すように、ブルブルと顔を左右に振る。


 憎らしい彼が可愛く見えるなんて、きっと夜勤あけで思考回路がおかしくなってるに違いない。


 彼に見つめられると、昨夜のハグを思い出して鼓動がドキドキと暴れ出す。


 私、何で意識してるの。


 彼女がいながら私にハグをした、サイテーな男なのに……。


「じゃあ、私はこれで失礼します」


「え? 入院の説明は?」


「それは、あとで他の看護師が来ますから」


「そっか。君に説明して欲しかったのにな。し、ず、く、ちゃん」


「し、し、しずくちゃん!?」


「だってさ、ほら隣の坊やもおじいちゃん達もそう呼んでるだろ」


「はっ?」


 私は思わず吾郎を見る。

 吾郎はにきびのある顔をしかめ、申し訳なさそうに頭をポリポリ掻いた。


 ……お話にならない。


「あの、私は朝野ですから。下の名前で呼ばないで下さい」


「そっか? ごめんな。雫ちゃん」


「はあ……?」


 意味わかんない!

 日本語が通じないの?

 それとも私に対する嫌がらせ?


「ほら、保、着替えなよ。一人で脱げないなら、私が手伝おうか?」


 真新しいパジャマを紙袋から取り出しながら、彼女はニヤニヤ笑った。ちょっとエロい、妖艶な笑みだ。


「そう? 怜子が手伝ってくれるのか? 俺、右手使えないし。パンツも脱がしてくれると助かるんだけど。ハハハッ」


 笑い袋みたいにバカ笑いして、本当にバカなんだから。


「いいよ。ほら、ダサい病院の寝間着なんて脱いじゃいなさい」


 何よ? あの態度。

 病院の寝間着は機能性重視なんだから。確かに見た目はダサいけど。そんないい方はないでしょう。


 朝から、めちゃめちゃイラつく。

 ほんの一瞬でもカッコイイと思ったなんて、前言撤回だ。


 あいつは、彼女のヒモで女たらし。

 あんな奴にハグされたなんて、考えただけでおぞましい。


 女性に着替えを手伝わせて、上半身裸でニヤニヤしている彼を睨みつけ病室を出る。ベッドの上で、吾郎が申し訳なさそうに両手を合わせた。


「ごめんね。雫ちゃん」


「あ、さ、の、です! 朝野」


 思わず大声で苗字を連呼し、病室のドアを閉めた。


 患者さんから、いつも下の名前で呼ばれてる。それを黙認していたのは私だ。だから吾郎は全然悪くないのに、彼と彼女のイチャイチャしている姿が癪に障り、思わず八つ当たりをしてしまった。


 夜勤あけで疲れてるのに、最悪だよ。

 あいつ、一週間も入院してるの?

 まじで、ありえないから。


 ◇


 橘総合病院を出てマンションに戻った私は、真っ先にシャワーを浴び、素肌にダボダボのTシャツを着て、ベッドに倒れ込む。


 朝の陽射しをシャットアウトするように、部屋の遮光カーテンを閉めたまま、とりあえず眠る。


 これが、夜勤あけの行動パターンだ。


 澄んだ青空みたいに明るいブルーのシーツ。白い色は病院のシーツを連想するから基本購入しない。


 数秒後、疲れからすぐに熟睡。


 ――午後二時過ぎ、やっと目覚めた私は遮光カーテンを開け、ノソノソとベッドから這い出し、洗濯機に衣類を押し込んだ。


 保と怜子って、付き合ってるのかな?

 着替えを持ってくるなんて、同棲してるの?


 パンツも穿かせるなんて、やっぱりデキてるよね?


 もしかして? 結婚しているとか?


 そうだとしたら、ありえない。

 だったら、どうして私にハグするのよ。


 浮気、不倫、遊び、セクハラ、チャラ男、女たらし、野獣、けだもの……。


 洗濯機のブザーが鳴り、洗濯物を取り出してベランダに干しながら、ずっと彼のことを考えていた。


 私、どうしてこんなに気になるの?

 どうでもいいじゃない、あんな奴……。


 あいつを意識したら、それこそあいつの思うツボだよね。


 そう思っているのに……。


 あの澄んだ目を……。

 どうしても忘れられない。


 ハグされたことを思い出し、自然と顔が火照る。


 朝野雫、もしかして最悪かも。

 こんな精神状態では、一週間も平常心が保てないよ。


 明日から……ど、ど、どうしよう。

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