1‐8始まり
稽古場に戻ってくると、話に聞いていた通り電気や空調はそのままだった。誰もいないのに過ごしやすさが保たれている稽古場に、複合施設で働いていた私はopen前の店内の様を見ていた。
けれど、いつまでも自分が置いていた環境と重ねて、受動的でいては駄目だ。
市杵さんはまだ来ていない。特別指示があったわけではないけれど、何かしていたい気持ちが膨らんで、私は床に着き脚と腕の筋を伸ばした。今日キャストさんたちがしていたストレッチを真似て、念入りに。ぐい~っと、念入りに。
「そうだ。声出しとかもしていたよね」
ストレッチもだけれど、部活の試合前にする準備運動のように、発声や滑舌練習などのウォーミングアップは各々の自由で、何をしても良さそうだった。一人一人にルーティーンがあるのかもしれない。
私は立ち上がり、お腹に両手を当てて鼻から息を吸った。口を結んだまま吐き出す。
「んーーーー」
確か、スマホのバイブレーションのように振動した音だった。
「ん~~~~あーーーーーーーー……っ、はぁ。息が、持た、ない……。もう1回……んーー」
口を結んで声を震わせて、顎を上げて喉を開いてを繰り返した。
暑い。慣れない所為か、それとも気分が高揚しているからか。ストレッチと発声練習の真似事だけで身体が温まってきた。
熱を逃すように手を団扇にして床に腰を下ろすと、廊下の方から誰かの足音が近付いてくるのが聞こえた。咄嗟に緩んだばかりの気が引き締まる。入口へ視線を向けると、察知した通りだった。
私が慌てて挨拶をしながら立ち上がると、市杵さんはうんうんうんうんと僅かに頭を揺らし、かぶっていた麦わら帽子と一緒に頷いて応えてくれた。
「お疲れ様です。
「いっ、いいえ。貴重な経験をさせて頂けて嬉しかったです」
あ、あれ? 市杵さん、なんか敬語だ。話すテンションも初めて会った時みたいに淡々としているし。
「そうですか」
「はいっ」
「では、その調子で明日からもよろしくお願いします。くれぐれも事故や怪我の無いように」
「はい!」
「早速ですが、これ」
「はい、ありがとうございます……」
市杵さんから受け取ったのは、表紙にタイトルロゴが印刷された台本だった。薄い紫色をしている。あと、付箋がされていた。
厚さも手に感じる重さもあり、ページを捲って見てみても冒頭から台詞などが綴られている。キャストさんたちが持っていた台本と同じ物のようだった。
「すみません」
そう断って市杵さんが私の持つ台本に手を伸ばし、付箋を使って一度にページの後ろの方まで捲った。
「ここからが、貴方の出演部分になります」
「はいっ。ええっと……名前とこれ……それから……え」
自分の影が落ちる台本に指を滑らせながら内容を確認していると、私の2つある内の後の台詞に目が留まった。ト書きの指示も速読しておく。
「あのっ。これってもしかして、次の演目じゃあ?」
「そうです。これまでも幕を下ろす際に、次回の公演のタイトルを言って閉めていましたが、新キャストのお披露目がある場合、その役目を新キャストに担ってもらうことにしました。その筆頭になるのが夏野さん、貴方です」
「私が……」
「キャストたちには、これまで通り座長が閉める前提で貴方の代わりに稽古をしています。なので、立ち位置やタイミングなどは心配しないでください」
「それっ。あのっ、それってつまり、座長さんは私の事情を知っているってことですよねっ?」
「はい」
やっぱり……。
「今日から貴方の出演する千秋楽まで、約1か月と3週間。これは、演技未経験で
「っはい!」
私は貼られた付箋に視線を落とし、胸に響かせた市杵さんの言葉を噛みしめた。
そして――
「もっと胸張って!」
「はい!」
秘密の稽古が始まった。
今日は簡単に、動きを通しで確認する。……とのことだったけれど、市杵さんの指導には熱が入っていた。
でもお陰で妙な恥じらいが消えた。それに演じる役が男性ということが、また私の背中を押していた。
楽しい。今までのカメレオンは他人の為だったけれど、これは違う。もちろん自分の為にというわけでもないけれど、消えたり譲ったりするカメレオンと違って、必要とされる、求められることが絶対で嬉しかった。
秘密の稽古の後、私は市杵さんが新設したばかりだという事務所に通してもらい、マネジメント契約を結んだ。
成人している私は、両親に許可を取ることなく所属を決めた。もちろん契約書の内容は、市杵さんと一語一句しっかり精査して確認した。
ちなみに、代表取締役を兼任している市杵さん以外の所属は無いらしい。つまり、正式な演者としての所属は私が最初だ。い、いいのかな私で。
契約期間は3年。3年だ。
3年……。決して長期の契約ではないようだけれど、アルバイト先も就職先も期限付きではなかったから、聞いた瞬間はっとした。
保証された3年間。けれど心のどこかで、見えない何かに未来を拘束されたような、そんな気分に陥る感覚もあった。
もう1つ決まったことは名前だ。芸名である。本名でも良いらしい。所属先は違うけれど、流星くんたちも本名で活動をしている。
でも私は性別を感じさせない名前にしたくて、市杵さんへ素直に相談してみた。
市杵さんは少し押し黙った後、近くの机にあったA4サイズのノートへと手を伸ばし、私の記入した契約書と交互に見ながら、ぶつぶつと何かを呟きながらペンを走らせた。
仕上げに丸で囲むと、ノートをひっくり返した。
書かれていたのは、せおり。
七夕生まれなことと、私の名前である琴美をもじって“
星織という漢字には、星のように輝く心と想像力を持つ人、という意味が含まれているのだそう。
きらきらし過ぎて名前負けしてしまいそうだけれど、心と想像力は自分にとってポリシーというか、大切に育んでいきたいものだったから、とても嬉しかった。
こんなの、一生の宝物だ。
「星織。座長を迎えに行くぞ」
無事に契約を終えると、もれなく市杵さんの調子も元通りになった。
名前を与えてもらったことといい、市杵さんがまるで親のような存在に思えて、くすぐったく感じた。
次に私たちが向かったのは、約束していた
「琴美ちゃんっ。こっちこっち!」
市杵さんの後に続いて個室に入ると、メインキャストさんを始め、敵や町人などの役を演じるアンサンブルさん。それから代役を務めるアンダーさんに、矢松さんや狭知さんなどのスタッフさんたちが勢揃いしていた。
テーブルには、シャンパングラスと美味しそうなパーティー料理が並べられている。
「えーではっ、お酒を頼んだ人は稽古に支障が出ない程度にっ。じゃあ夏野さん、お願いします!」
「えっ」
こういう形で人前に立つのは人生で初めてだ。まだお酒を飲める歳になったばかりで、そう思うのは変かも知らないけれど。
「せっ、僭越ながら乾杯の音頭を取らせて頂きますっ。明日からもどうぞよろしくお願いします、乾杯!」
まとまっていない。でも皆さんのとっても嬉しそな空気感に、私が馴染んでいたのがわかった。
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