第235話 終末の戦い⑧

 金色の髪の少女が、果てしない荒野を歩いている

 ボロを纏い、身なりはひどく汚らしかった


 少女は終わりなき恐怖の中で生きてきた

 或いは悪辣な大人に、或いは獰猛な猛獣に

 怯えながら過ごしてきた


 逃げ惑い、隠れ潜み、ゴミを漁り

 その先に何を求めていたのか

 それは分からない


 行く宛てもなく、痛みから逃げるように彷徨った

 しかし安住の地など何処にもない

 恐怖は付かず離れず傍にある

 いつしか逃げるのでなく立ち向かうことで

 安住の地を得ようとした


 その先に求めるものがあると信じて

 何を求めていたのかは、知れぬままに――




「フリーレ!フリーレ!」


 少年の叫ぶ声で、彼女は目を覚ました。


 崩落した断崖の麓であった。

 彼女はそこで仰向けに倒れている。虫の息で起き上がる気力すらなかった。


 体は痛みを通り越して、もはや感覚らしきものがなくなっていた。


「その声は……ヴィーザルか……?」


 首すら動かせぬままに、彼女は言った。


 ヴィーザルはフリーレの顔を覗き込むようにして、その姿を彼女に晒した。


「……フリーレ」


 大丈夫か、などとは聞かなかった。一目瞭然だからだ。

 代わりに最後に聞いておきたいと思ったことを尋ねた。


「ねえフリーレ、どうしてフリーレは逃げなかったの?」

「……」

「前に言ってたじゃないか、自分は生きる為に戦ってきただけだって。でも今度の戦いは死ぬと分かり切っていたのに、どうして……?」

「……どうしてだと思う?」


 この時のフリーレには、勇猛果敢な戦士の雰囲気はどこにもなかった。

 母親が死に目に会いに来てくれた息子と話している時のような、切なさと穏やかさだけがそこにあった。


「……隊長として、逃げ出すのは恰好つかないから?」

「違うさ……ただ、怖かっただけなんだ」

「怖かったから立ち向かったの?それって変じゃないか」

「怖かったのさ……逃げ出せば、これまでの自分が壊れる気がしたからな」


 天を見上げながら、彼女は己の想いを吐露する。


「人はただ漫然と生きているだけではダメなんだろう……心の拠り所が必要なんだ……私は今でこそ多くの仲間に恵まれたが、それはきっと、私が立ち向かう生き方を貫いてきたからだ……」

「……」

「だからひとたび逃げ出せば、すべてが崩れると思っていた……お前は、私が勇敢だから臆しないのだと思っていたか?そんなことはない……逃げ出すのが怖かったから、これまでの自分が壊れるのが怖かったから、立ち向かい続けただけなんだ……私は、とんだ臆病者だ」

「……フリーレが臆病なら、この世の誰が勇敢だっていうんだよ」


 ヴィーザルは零すように言った。

 やがてフリーレは彼の頭に、そっと手を置いた。


「……フリーレ?」

「何故生き物が、子を成すのか、今更ながらようやく分かったよ……人はいつか死ぬが、子は自分が死んだ後もこの世界を生きてくれる。自分の代わりにな……だからなんだろう」

「……」

「ヴィーザル、私の代わりに生きてくれるか?」


 彼はフリーレの手を取ると、自分の頬に押し当てるようにして言った。


「……分かったよ、フリーレ。こんな残酷な世界でも僕は生き抜いてみせる。この広い世界を旅して、フリーレが見たことのないものも、いっぱい見てくるよ」

「ふふ、そうか……それを、聞いて、安心……し、たぞ……」


 それきり彼女の口が、声を紡ぐことはなくなった。

 だらりと力無く垂れた腕を、少年は哀し気に見つめていた。



 いつまでそこで悄然としていたかは分からない。


 やがてぽつりぽつりと雨が降り始めると、彼は思い出したように立ち上がった。亡骸を背負ってよたよたと歩きながら、近くで休ませていたスレイプニルの元まで往く。


 スレイプニルの背には折れた武骨な槍が括り付けられていた。ヴィーザルが道すがらに見つけていたグングニールである。彼は崖が崩落した後、スレイプニルの元まで死に物狂いで向かうと、その背に乗ってフリーレを捜すことを懇願したのだった。まずグングニールを見つけ、そのすぐ近くでフリーレを見つけた。


 ヴィーザルは物言わぬフリーレを、同じく縄でスレイプニルの背に固定すると、自分はその手前側に来るように手綱を持ちつつ飛び乗った。


「行こう、スレイプニル」


 彼の声を受けて、スレイプニルは穏やかな足取りで進み始めた。

 蹄の音と、雨脚の音だけが、ずっと辺りに響き続けていた。


 やがて、遠くで山が空に浮かぶのが見えた。

 いや、山ではない――グラシャ=ラボラスだ。戦場に残ったエインヘリヤル第七部隊が壊滅したので、敵勢は帰還の途に着き始めたのだろう。


 豪快に翼をはためかせながら、城砦を背負った巨大な犬が空の彼方に消えていく。

 ヴィーザルはただただそれを目で追いかけていた。


(マルコシアス……覚えていろ)


 かぶりを振って、犬が消えたのとは反対方向にひたすら進み続けた。


 遅ればせながらに涙が出てきた。

 雨が降っていることに甘えて、彼は存分にそれを流し始めた。

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