第3話

 月、火、木、土、日、バスケクラブ以外のほとんどの曜日に、巧は保冷剤をたくさん入れた袋におにぎりをたくさん詰め、麦茶もどばどば注いでまずは図書館に向かう。宿題をする、と母に言うと、しかたないなあ、と言いつつちょっと嬉しそうにおにぎりを握ってくれた。名目だけの宿題に罪悪感もあった。だけど、ほんとうに宿題するんだから、と割り切っていたらち耐えられた。そのくせ、見送る母の顔がちゃんと見れなかった。

 母がパートでいない日は、炊いてあるご飯に塩昆布とかふりかけとか梅干しとか、なんとなくいけそうな具材で巧がおにぎりを握った。たくさん握って持っていくと、瀀が「わあ」と目をきらきらさせるから嬉しい。むしろ、母がいないほうが気兼ねなく持っていけるし、気持ちが楽ちんでちょうどよかった。

 図書館の静かな雰囲気にも、ひやっとした紙の独特のにおいにも慣れて、瀀が本を読む隣で、後ろめたさからほんとうに宿題をした。瀀は、ボクシングの本を読んだり、やっぱり人体の急所の本をじっくり眺めていた。ときどきふたりで筆談することもあったし、放り投げていた宿題も進んで、すごく楽しくて、ラッキーだった。

 じっと座っているのに巧が飽きてきたころ、見計らったみたいに瀀は椅子から立ち上がる。読んでいた本をていねいにそっと棚に戻すしぐさはやっぱり瀀の持ちものとはそぐわなくて、言えないままするすると図書館を出る。水を得た魚のような巧のおしゃべりに瀀は相槌を打って、笑って、子どもっぽい笑顔に巧はひとしきり安心して、公園でおにぎりを食べて麦茶を飲んだ。

「きょうもコウちゃんがつくったの?」と尋ねた瀀の顎に米粒がついていて巧が取った。ふかふかの頬は胸がぎゅーっとなるほどこそばゆくて、へへへ、と笑うと瀀は「ありがとう」と言った。腹ごしらえしたら、巧はバスケをする。瀀も誘うと、「俺は見てる」と足をぶらぶらさせながらベンチに座っていた。

「コウちゃんはバスケじょうずだね」

 ちょうどジャンプシュートを決めたところで、瀀がベンチに腰かけたまま言う。巧がいったん手を止めて彼を見ると、太陽をまぶしそうに眺めるみたいに目を細めていた。

「すごくかっこいい。ヒーローみたい」

 そう言って、瀀は遠くの憧れに手を伸ばすみたいに笑った。おとなみたいにやわらかくて、だけどほわほわした赤ちゃんみたいに屈託がなくて、なにも着飾らない「ヒーロー」に、心臓がぶわりと浮き立つ。

「ヒーローって、オレそんなにかっこいい?」

「うん」

 即答され、心臓が焦げついたみたいに熱くなって苦しくなる。

「オレさ、プロバスケ選手になりたくて……」

「コウちゃんの夢?」

 うん。と答えたとき、すごく恥ずかしくなった。だれにも打ち明けたことがない秘密を無防備に差し出した気分で、顔が熱くなる。

「笑うなよ?」

「なんで。笑わないよ」

 笑わないよ、ともう一度念押しするように答える瀀はやっぱり、手の届かない憧れを大切にする眼差しで、巧の漠然とした夢までていねいにあつかわれている気がした。

「おまえもやろうよ、バスケ」

「俺はいいや」

「なんで?」

「見てたいから」

 子どもみたいな頬を持つくせに、おとなっぽい真剣な言いかたをするから釈然としなくて、ボールを脇にかかえて瀀に近づいた。瀀のTシャツの袖を、くいっとつまむ。瀀は「なーに?」ととても優しそうにくすくす笑って、だけどそのあとはっとしたように振り返る。以前動物のドキュメンタリーをテレビで見たことがあったけれど、危険を察知したチーターみたいな、敏感によそものを排除するひりついた表情に変わったのでびっくりした。

「シバやん……」

 この間瀀に「いっぱつけーおー」されたというシバやんと、その取り巻き三人。秘密基地だと思っていた公園に土足でざかざかと踏み入られた気分にもなったし、「見られた」というわけのわからない後ろめたさもあって鼓動がどくんと跳ねる。

「仲よさそうじゃん、おまえら友達なん?」

 にやにやとした笑いかたには、見下しと、今ならまだ許してやるよ、という勝手に定められた猶予が含まれているようで、頭がかっと熱くなる。そうだよ! と大声で言ってやりたくて口を開くと、瀀が立ち上がって巧を制す。

「友達じゃない」

 巧は、え? と口を開ける。

「友達じゃない。知らないひと。たまたま会っただけ」

 瀀は巧を見もせずきっぱり告げると、すうっと冷たい眼差しで通りすぎた。足が凍りついたみたいに動かない。熱かった頭が、思い切りしぼられたみたいに変な冷えかたをした。蝉がじょわじょわ鳴いてうるさくて、かんかん照りの太陽が暑いはずなのに、つま先からふくらはぎにかけて、どんどん冷たくなっていく。

 友達じゃない。

 つまんねーの、と唾を吐き捨てるみたいな口調でシバやんが言う。


 夏休みが、ふだん通りの日常に戻っていく。巧はクラブ以外の日やクラブのあと、自分ひとりでバスケをする日々を繰り返すだけ。それしか知らなかったときはそれでじゅうぶんだったのに、知ってしまったあとはどうして足りなくなるんだろう。覚えてしまったことを取りのぞくことが、とても難しかった。

 瀀の「友達じゃない」が、澱みたいに滞って胃のあたりをごろごろうごめく。悲しくて、悔しくて、腹が立って、やっぱり悲しかった。かっこよかったって、ヒーローみたいだって、巧の夢を笑わないって言ったくせに。おにぎり食べたらご飯粒つけて、バスケを見てたいってはっきり言って、図書館で瀀のノートにふたりでふざけたことを書いたりして、瀀だって巧と同じように楽しいのだと思っていたのに。

「あーもうシュート入んねえー!」

 この日のクラブでは、ボールがひとつもネットをくぐらない。まったくシュートが入らなくて、さらに苛立つ。

「なあ巧」

「なんだよ」

 休憩中のかずきは、この日も無駄話が大好きだった。

「浅野瀀ってさー」

 タイムリーに聞きたくない名前が出てきてどきりとする。同時に、まさかシバやんたちからなにか聞いたのだろうかと焦った。だけど、なにに焦るんだろう。

「父親がアル中で、母親は昼も夜もあんまいないんだってさ」

「……え?」

 思いもよらない言葉が舞い込んで、整理しきれない情報に頭が真っ白になる。

「浅野もさー、夜とかたまに家追い出されてるらしい」

「え、かずきそれ、なんで知って、んの?」

 なにも考えられず、とにかく動揺が声に表れないように必死につくろってしゃべる。

「母ちゃんが電話でしゃべってた。通報したほうがいいとか悪いとか、証拠もないのに、とか」

「え、あ、どういうこと?」

「あるじゃんほらー、一時保護とか?」

 イチジホゴ、なんて言葉を巧は聞いたことがなかった。

「イチジホゴって、なに」

「んー……、虐待とか? そういうのがあるといったん保護される、みたいな?」

 あまりに衝撃的なことを告げられているのに、本人はただのおしゃべりのひとつのように軽い口調だった。たとえそれが事実であったとしても、自分には無関係だと。

 ――だってオレには、シバやんもマウントも、幽霊だって関係ないし。

 あれと同じ。自分には関係ないって。かずきも巧も、べつの世界のおとぎ話くらいの感覚としか考えていない。瀀がおにぎりをむさぼるのも、公園の水道水を飲むのも、くたくたに汚れたリュックを使っているのも、使い古しみたいな百均っぽい文房具を持っているのも、自分とはちがうな、変だなって思ったのに蓋をした。楽しいところだけ、あの時間だけ、ふたりでいるときだけ。母親に瀀のことを言えなかったのも、シバやんに見つかったときも、かずきに瀀の名前を出されたときも、ほんの数ミリでも「知られたくない」が隠れていたから。

 ヒーローってなんだろう。正義の味方? ただしいことをただしく行動すること? それとも、大切なだれかを守ること? どれもこれも、今の自分とは大きくかけ離れている。

 ――友達じゃない。

 守られていたのは、オレのほうだったのに。

「帰る」

「は? このあとミニゲームだよ? 巧いなかったら困るし!」

「腹痛いってコーチに言っといて」

 巧は自分のボールをケースに入れ、リュックを引っかけて体育館をあとにした。まずは公園に行くけれど瀀はいない。図書館に行って、本棚をぜんぶ回ってもいなかった。

 アル中、と頭のなかに浮かんで背筋が寒くなる。それがどんなものかも巧にはわからないのに、とてつもなくいやな言葉で、瀀に危害を加える姿のない物体に思えてしかたない。コーポさざなみ、と脳裏によぎって足を急がせた。体育館から、公園、図書館を経由しているせいかずいぶん走っている気がする。呼吸が苦しくなって一度立ち止まった。止まると急に体が熱くなって、汗が吹き出る。Tシャツで雑にぬぐい、リュックから水筒を出して水分補給した。瀀がおいしそうに麦茶を飲んだのを思い出し、唇をぎゅっと引き結んでふたたび走り出した。

 コーポさざなみにつくと、あたりは静まり返っていた。だれかが住んでいるのかもわからないくらい、しん、じゃなくて、不気味なほどつんと空気が引き締まっている。こんなときに「幽霊」と浮かび、ぞっとする首筋に耐えた。一軒一軒表札を確認すると、二階の角から二番目の玄関に「浅野」と書いてある。ポストは錆だらけで郵便物が溢れそうだし、上がってきた階段も手すりの塗装がぼろぼろにはげて鉄がむき出しだった。見れば見るほど、巧がYouTubeで見た事故物件アパートと似ている。こんな家にほんとうに、瀀は住んでいるのだろうか。

 心臓がどくどく鳴っていた。深呼吸し、シミュレーションする。瀀くんと同じ学校の綾瀬巧です、瀀くんと同じ学校の……。よし、とゆっくり息を吐いてインターホンを押そうとすると、この部屋のなかから、どん! となにかを叩きつけたような大きな音がして肩がびくつく。どん、どん、どん。連続で聞こえ、巧は後ずさる。虐待、という言葉が瞬時に浮かび、急に指先が震え、足ががくがくした。手汗がひどくてハーフパンツに手のひらをこすりつけるのに、拭いても拭いても汗で湿ってくる。

 こわい。逃げたい。オレじゃ無理だ。巧はあたりを見渡した。だれかおとなを呼びたいのに、いつもはどこにでもいるおとなが、この日はどこにもいなかった。

 だいたい、「おとな」なんてどこにいるんだろう。

 図書館でじろりと睨んでくるひと、くしゃくしゃのノートや百均の文房具を好きになれないだろう母親、通報とか証拠とか、理由だけは立派だけど他人ごとみたいに噂話にするひと、だれもがけっして悪気も悪意もなくて、だけど自分以外の他人ごとだった。べつの世界の話。巧もその一部。

 おとなはただの「おとな」で、ヒーローじゃない。

 どん! とひときわ大きな音に、はっとして巧はドアノブを握る。こわくてしかたなくて、心臓がばくばく鳴るのに、ドアノブをひねっていた。鍵はかかっていなかったようで、ドアがずるりと開く。そうっと外側に開けてなかを覗くと、部屋のなかが薄暗くて明暗に目がしばたいた。鼻にまとわりつくつんとすえたにおいに自然と眉根が寄る。瓶や缶やゴミが散らばった床と、テーブルのの上の似たような雑然さにぼうぜんとする。畳の部屋で小さな子が床にうずくまっていて、巧は覚醒したみたいにはっとした。

「瀀!」

 顔を上げた瀀は目を見開き、すぐにぐしゃぐしゃにゆがませたあと、巧を睨みつけた。

「帰れ! 早く!」

 その声が瀀から出ているとは思えないほどびりびりしていて、巧の体がこわばる。引き戸の陰からのそりと表れた大きな男は、薄汚れたTシャツにハーフパンツ、伸びた前髪のせいで顔がよく見えないけれど、髭が生えていることはわかった。清潔感の欠片もない、にちゃにちゃした笑いかたで、巧を見る。

「あん? だれだおまえ」

 男はのそのそ歩き、巧に近づいてくる。足の裏に根が張ったみたいに動かない。は、は、とわけもなく呼吸が跳ね上がる。ぼん、と音がしてやっと意識がしゃんとした。また、ぼん、と鳴る。シンクに水が落ちた音だった。

「早く逃げろ! コウちゃんお願いだから!」

 早く!

 床にうずくまったままの瀀が、男の足に腕を巻きつけて行く手をはばもうとする。足止めを食らった男は舌を打ち、逆の足で瀀を蹴った。う、と瀀が低くうめく。まるでボールを飛ばすくらいの気軽さで、男の自分の足を使って平然と優を蹴る。巧は靴を脱ぎ、瀀に駆け寄った。

「瀀、瀀、ごめん」

 なにを謝っているのかわからないのに、ぜんぶ謝りたかった。ぜんぶ。見上げる瀀の顔には、傷のひとつもなければ痣もない。だけど服に隠れている箇所に、あの男は平気で暴力を振るうのだ。許せなかった。巧は男を睨み上げた。頭が沸騰しそうに熱かった。瀀を連れて逃げる、そう決めた瞬間、男は巧の襟を持ち、ぐっと引き上げてくる。

「コウちゃん!」

 瀀が叫んだのはわかった。だけどそのあと、自分の体がどうなったのか理解できなかった。ずいぶん昔、父親に体を持ち上げて遊んでもらった飛行機の感覚と似ていたけれど、終わりかたがまったくちがった。壁に背中を叩きつけられたのか、その直後息ができなかった。

 コウちゃん、コウちゃん、と巧に近寄る瀀の、今にも泣き出しそうな声がした。おまえこんな声出すんだ、とまったく的外れなことを考えるのに、息が詰まって声が出ない。背中が引きつるように痛んだ瞬間、大丈夫じゃない、と思った。こわくて、痛くて、なんでこんな目に遭うのだと、ここに来たことを後悔した。早く逃げたい、帰りたい、助けて、助けておかあさん。

 瞼を持ち上げると、悲惨な現状とおかしなにおいに吐き気がした。すぐ傍に泣きそうな顔で巧を見る瀀がいて、一緒に逃げたい、と強く思った。瀀、と呼ぶと、自分の声がかすれていておそろしくなった。その瞬間、瀀の目が冷たく光る。「友達じゃない」と言ったときよりはるかに鋭く、赤い火よりももっと熱くておぞましい青い火を思わせる瞳に、巧は目を見はる。

 瀀がなにかをつぶやいた。その直後勢いよく前に足を出し、男の股間を蹴る。濁点がついたような声を上げてうずくまる男の前にかがむと、瀀は鳩尾を突いた。うめきながら転がる男に向け、落ちた酒瓶をこめかみ目がけてぶつける。割れた瓶の音に巧は耳をふさいで目を閉じた。男の濁った叫び声が両耳をつんざき、瞼を開けることが叶わない。

 殺す、瀀はたしかにそう言った。ほんとうに、瀀はこの男を殺してしまうかもしれない。こわい、いやだ、助けてだれか、それしか考えられず、手をこまねくだけの自分。そのとき、にぶい音がして反射的に目を開けた。

「いってえなこのガキ、調子乗りやがって……」

 男に殴られたのか、瀀が巧の傍で倒れていた。だけどすぐに体を起こし、巧をかばうように前に出る。瀀の顔は真っ赤に腫れ、鼻血を垂らし、手の甲でぬぐった。眼差しだけはさっきのままで、ふーふーと息は荒い。男はふらふらしながら、今にも転びそうな足取りで近づいてくる。巧は体の震えが治らず、早く逃げたいとそれだけしかなかった。ぼん、とふたたびシンクに水が跳ねる音がしたとき、床に転がったまるっこいものが目についた。

 防犯ブザー。巧が瀀に渡したもの。

 ――幽霊には効かないでしょ。

 効くわけない。ここに幽霊なんかいない。

 ――すごくかっこいい。ヒーローみたい。

 かっこいいわけあるか、オレはヒーローなんかじゃない。だけど、だけど見てろよ瀀。

 巧は防犯ブザーを持ち、靴も履かずに慌てて外に出て外廊下から腹の底から叫んだ。

「助けて! 助けてくださいだれか!」

 防犯ブザーを鳴らし、鳴らしながら声を張り上げる。

「早く助けて! 子どもが殴られてる!」

 巡回中なのか、運よくパトカーが通ったのでふたたび防犯ブザーを鳴らした。止まったパトカーからふたりの警官が下りてくる。

「おまわりさん早く!」

 階段を駆け上がる警官に、巧は早くと声を出した。

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