第3話名を告げない覚悟

「フロレシア王国エルネスト陛下のご命令により、この場は騎士団暗部が仕切る。怪我をしたくないものは跪き、手を上げろ。抵抗するものは容赦しない――」


 暗部のしんがりとしてエルネストは部屋に入った。真っ先に駆けつけたかったがナイゼルが頑として首を縦に振らなかったからだ。無理を押し通している自覚があったので折れた。

 呼吸を深くしホールに足を踏み入れた瞬間、エルネストは壇上に目を奪われた。右から来た敵を暗部の一人が切り倒し、左から来た敵を自身でなぎ払いながらもわずかに高い位置で立ちすくむ青年から目を離せない。


「レフィ……」


 最後に会った時子供だったレフィは、しなやかな身体に薄衣しか纏っていなかった。身体を自らの腕で抱きしめるようにして立っているのは心細さからだろうか。それでも毅然と上げられた顔は、幼い頃の印象が残っている。

 オークショナーの声を、エルネストの耳は拾っていた。『目が見えない』という言葉が真実だとわかったのはレフィが動かなかったからだ。衝撃はエルネストから手加減という言葉を失わせた。掛かってくる者は容赦なく切り倒し、レフィの側まで寄った。それなのに、あと少しというところで声を掛けることができなかった。

 剣戟の音や悲鳴にわずかに揺れる緑の瞳を見つめながら、エルネストは動揺していた。

 レフィの目に自分が映らない。そんなことをエルネストは想像したことがなかった。レフィが父王に隠されていた神殿の情報には報されていない。ということは前からではないはずだ。

 たった三歩で抱きしめられるというのに、エルネストの足は石になってしまったかのように動かなかった。


「ローレル?」


 横でエルネストを護っていた男が偽名を呼んだ。

 レフィの後ろからオークショナーを務めていた男がレフィを捕まえようと手を伸ばす。魔法が解けたかのようにエルネストの足は動いた。

 エルネストが鞘ごと敵を突き飛ばすとその先で暗部が剣を振り下ろした。


「……目が、見えないのか……?」


 レフィはエルネストが守ろうとしたことにも気づかず、断末魔に驚いて足を滑らせた。倒れた地面をなぞるように指先で確認する姿に愕然とした。その姿にエルネストは確信した。


 薄い布と宝石で扇情的に飾り立てられている身体はオメガとしての魅力を十分に満たしていた。華奢で滑らかな肌は、転んだだけで赤くなるほど繊細だった。エルネストの知っているあどけなさはどこにもなかった。

 わざと足音を立てて側に近づくと、見えないとは思えないくらい強い意志の籠った緑の視線が声をかけたエルネストにぶつけられた。


「傷物で残念だったな。さっさと置いて逃げた方が賢明だぞ」


 目が見えないのでエルネストが敵か味方かもわかっていなようだ。ぶっきらぼうな物言いは騎士団で慣れているとはいえ、エルネストを心底驚かせた。

『レフィ』と名を呼ぼうとして、エルネストは留まった。

 こめかみの上のほうに傷がある。それに触れるとレフィはビクリと身体を震わせた。


「傷が……。いつから見えないんだ?」


 安心させるように声をかけ、身体を隠すように着ていたマントを被せると、レフィの目の強さが少しだけ緩んだように見えた。

 レフィの足に巻き付けられた鎖を片手に持っていた剣の先で突くと特殊加工のほどこされた剣先は、鉄の鎖を簡単に砕いた。


「ここに来る前に……。机にぶつかって、それから見えない」


 それが誰の仕業か気づいて、エルネストは奥歯を噛みしめた。母の弟であるブローナード侯爵はレフィを憎んでいるだろう。だが、レフィにとっては迷惑な逆恨みだ。

 エルネストは迎えに行くと誓ったレフィに、名乗ることができなくなった。 


「レフィ……、と言う名か」


 わざとらしく、側に落ちていた書類を拾い上げエルネストは名を呼んだ。

 エルネストの声につられるようにして、レフィの身体から僅かにフェロモンが漂いはじめた。頭一つ分小さな身体をエルネストは抱き寄せた。レフィの頤を指先で上げると、懐かしい花の甘い香りがした。

 胸の花と同じ、ダフネの匂いだ。


「もう少しだけ……待ってて――」

「誰……?」


 エルネストはポケットから液体のはいったアンプルを取り出し、剣先で先端を切り落とした。それを口に含み、レフィに口付けて液体を流し込んだ。


「んっ! 酸っぱ――」

「会いたかった――」


 抑制剤と睡眠薬の入った薬は緊張していた身体に良く効いたのか、レフィはすぐに足元をふらつかせた。

 抱き上げた身体は温かくて、エルネストは自然と口元に笑みを浮かべた。


「ローレル。屋敷にいたものは全て捕らえました――」

「よし、一隊を残して引き揚げろ」

「そちらの方が……?」


 ナイゼルの視線からも隠すようにエルネストはレフィの顔をマントで覆った。


「私の番だ――」


 エルネストが示したアルファの本能にナイゼルは苦笑した。


「では、探していた方だったのですね。間に合って良かった」

「ああ、たとえ誰と番っていたとしても関係はないがな……」


 眠りについた身体は重くなっていたが、エルネストは誰にも触らせるつもりはなかった。


「それは……」

「私はもう止まらない。王宮に戻ればそのままレフィの発情につられるだろう。後は予定通りだ。頼めるか?」


 エルネストの身体はレフィの身体から発せられる僅かな匂いに煽られ続けている。通常なら効くはずの抑制剤だが、運命の番と呼ばれるたった一人の相手にだけは効力が弱い。同じアルファであっても運命の番ではないナイゼルがレフィのフェロモンに気付かないのがその証拠だった。


「はい! 運命の番というのは憧れですが……やっかいですね」


 ナイゼルの言いたいことはよくわかる。エルネストは薄く笑った。


「そうだな」

「私はオメガの親友を護りたくて陛下に忠誠を捧げました。陛下が最愛の番を傷つけるとは思っておりません」


 ナイゼルが本心からそう思っているとエルネストは疑っていない。ただ、今のエルネストにはえぐるような嫌みにしか聞こえなかった。

 傷なら嫌になるくらいつけてしまった、と叫びそうだ。

 『唯一の肉親である母を殺した』女の息子だ。それだけで恨まれて当然なのに、『視力を奪った男』はエルネストの叔父である。どうしてのうのうと『エルネストだよ。君を幸せにするからね』などと言えるだろうか。さらにレフィの自由を奪うのだ。鳥籠の中に隠し、自分だけを愛するように閉じ込めてしまうだろう。

 エルネストは目を閉じた。

 後ろめたさがエルネストを臆病にしてしまった。

 嘘を一度ついてしまえば、後は塗り固めるために何度も繰り返し嘘を吐かなくてはいけなくなる。人が子供である内に知るその理をエルネストは知らなかった。何故ならエルネストには子供らしく過ごせる期間などほとんどなかったから。アルファとしては弱い父も、父の権力を護るために王妃となった母も、エルネストを名前でなく『王子』と呼んでいた。『王子』としての役目を自覚した時にエルネストの子供時代は終わったのである。


『エルネスト兄様』


 幼いレフィがエルネストをそう呼んだ。王子ではなく家族として得がたい時間を与えてくれなければ、今のエルネストは存在しなかった。


「……最愛の番……」


 一番焦がれていた願いをエルネストは諦めた。

 きっとレフィは許してくれるだろう。あの時、エルネストを慰めるために自分の大事な母を悪く言った優しいレフィならば。


「レフィ様が運命の番なのでしょう?」

「そうだ。誰よりも愛している。レフィを守りたい。頼りにしている」


 目を開きナイゼルの肩を叩いた時、エルネストは名乗らないことを決めた。

 王妃という地位は目の見えないレフィに務まるものではない。レフィはきっとエルネストに王妃を娶るように勧めるだろう。そしてエルネストのためを思って身を引く。母達の出来事を繰り返さないために。


 レフィを番にしたければ、エルネストでは駄目なのだ。

 レフィとは顔も合わせたことのない見ず知らずのアルファ。混乱した会場で運命の出会いを果たし、番としてレフィを連れ去ったのは『ローレル』という男。

 名を呼ばれない寂しさをレフィへの償いにと言えば、感傷だとナイゼルは思うだろう。エルネストにとって『名を呼ばれること』がどれほど得がたいことか、誰も、レフィ本人でさえ気づいていないだろうから。

 意識のないレフィを抱いて、エルネストは姿を隠した。ナイゼルがエルネストの願いを聞いたのは三日後のことだった。

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