掌編小説まとめ(2024)
箔塔落 HAKUTOU Ochiru
秘密
16時。帰宅部の生徒はとっくに最寄り駅に着き、部活のある生徒は部室に行っている頃合いである。古い教室の錆びて硬くなった窓の鍵を力任せにかけ、カーテンを閉めてから振り返ると、曳沼が水に慣れた体を震わせる犬のようなひときわ激しい貧乏ゆすりをしたところだった。
「終わったー!」
「おつかれ。職員室行こか」
「おー」
ぼくたちは教室を出て、最後の仕事、教室の施錠をする。
ところで、出席番号が1個違いだから、といって、たやすく友人になれるわけではない。出席番号が1個違いだから、といって、相手が友人になりたい人物像をしているか、というと、必ずしもそうではないからである。もちろんこれはお互い様だ。曳沼は寡黙で、そもそもどんな人物像をしているのかつかめない。ゆえにぼくたちは友人ではなかった。共通の話題があるわけでもないから、職員室までの道のりはなかなかに気まずい。ぼくは教室の鍵をくるくると回しながら歩く。曳沼は曳沼で、枯れ葉溜まりを見つけるたびに、それを校内履きで蹴り上げながら歩いていた。
「失礼しまーす。日誌持ってきました」
「おーごくろうさま」
職員室のドアを開けると、担任は軽く手を挙げた。そして、読んでいた本に目を落とす。ぼくたちの担任は現代文担当の陰気な男で、その陰気さゆえということはまさかないだろうが、職員室の1番隅に押しやられていた。失礼します、失礼します、といちいちお断りを入れて別のクラスの担任の後ろを通りながら、担任のもとへとたどりつくと、担任はようやく本を机の上に伏せた。
ぼくが渡した鍵をぞんざいに本の横に置き、曳沼が指をはさんでいた日誌のページを開いてざっと目を走らせると、担任は陰気な男にしばしばみられる早口で、
「はい、よろしい。気をつけて帰るように」
「トーマス・ベルンハルトの『消去』ですね」
さあて、とっとと帰るぞ、と後ろを向きかけたぼくは、曳沼がなにやら担任と会話をはじめたようなので、思わず立ち止まる。日直としてひとりだけ帰るわけにもゆくまい。
「そうそう、ずっと積読にしてたんだけど、いい加減読まなきゃと思ってね。もしかして曳沼くん、読んだ?」
「はい。母が図書館勤めで借りてきてもらいました」
「ちゃんと読めた?」
曳沼は、そうですね、と一瞬間を置いた。
「読めてないと思います。面白かったけど」
「うん。大変結構。春田くんは最近なにか本を読んだかい?」
急に矛先が自分に向けられて、ぼくは反射的ににっこり笑って答える。
「読んでません!」
「それもまた結構。本なんて読むものじゃない」
ぼくはむっとした。国語教師がこんな言いぐさをするなんて、バカにされたと思ったのだ。ぼくは曳沼の手を摑むと、
「帰ろう」
といら立ちを隠さずに言う。失礼しますをくりかえしながら、窮屈な職員室を出る。
「あのさ」
扉を閉めたところで曳沼の戸惑ったような声が聞こえ、ぼくはぱっと手を離した。勝手に引っ張って来たことをとがめられると思ったのだ。
「ごめん、もっと話したかった?」」
「いや、違くて。なんで本読んでないなんて嘘言ったん?」
「……は?」
「きのう体育さぼって星新一読んでたよね? おもしろいよね、星新一」
頰に血がのぼるのを感じた。ぼくは、あーとかうーとかしばらく言っていたが、最終的には「ごめん!」と謝って、その場から駆け出した。足は決して速いほうではない。ましてや、走るのに、肩からかけた学生鞄が邪魔をする。けれども、曳沼はぼくを追いかけてはこなかった。もちろん、曳沼にぼくを追いかけるだけの理由などないからだ。たぶんいまごろ、なんだあいつと思いながら、いつもの貧乏ゆすりをしていることだろう。
ぼくの通っていた学校は池袋と目白のあいだあたりにあって、やや目白のが近い。でも、だれかと遊ぶときは当然池袋だ。ただし、この日ぼくが池袋に向かったのは、友人と遊ぶためではなかった。息を切らせてジュンク堂に入り、自動ドアのそばにいた店員さんに訊ねる。
「すみません、トーマス・ベルンハルトの『消去』」ってありますか」
店員さんは検索機を使うこともしなかった。
「申し訳ありません、そちら版元重版未定となっておりまして、当店でも在庫がない状態となっております」
言い忘れていたが、これは『消去』が合本化されて再販される前のお話だ。
「そうですか……。あの、ジュンク堂さんにないということは、おそらくほかのお店にもないですよね? 神保町とか行っても」
「おそらくないと思いますよ。古書価格も高騰しておりますので」
万策つきた、と思った。膝を地面について頭を抱えたいような気分。けれども、ぼくはここで曳沼の言っていたことばを思い出す。「図書館」。そうだ! 図書館にならあるかもしれない! ぼくは急いで地下鉄に乗り、最寄りの駅を目指す。
地下鉄に揺られながら、ようやく、自分はなぜこんなことをしているのだろう、という気持ちがぼくの中に芽生えていた。読書において一家言あるつもりもない、つまり、曳沼の後塵を拝したことが悔しいわけではない。確かに、落ち着きのない曳沼が、なにやらえたいのしれない本を読んでいることにはおどろいたが、その一方で、彼の寡黙さは、彼が読書を趣味とする者であると考えれば、納得がいくようなもののようにも思われた。で? 最寄り駅についた地下鉄からぼくは急いで降りる。階段を駆け上がって、頭のなかに「それはきっと」という6文字を思い浮かべながら改札をくぐる。けれども、あいにくと「それはきっと」に続く言葉は出てこなかった。
店じまいぎりぎりで飛び込んだ図書館に、はたして『消去』はあった。上下巻の分厚い本を鞄に押し込んで帰宅し、けれどもぼくはすぐにその本を開かなかった。風呂を浴び、夕食を食べ、自室に戻り、鞄からようやく本を出し――ひとまず宿題にとりかかる。宿題を終えるころには午後9時近くになっていた。寝間着に着替え、ぼくはにっこりする。そして、布団の中に『消去』の上巻を持ち込んで、表紙をめくった。
気がついたら朝だった。本がおもしろすぎて徹夜をしてしまったわけではない。歯が立たなさすぎて、あっという間に眠り込んでしまったのだ。幸いよだれのしみは本のページではなく枕についていて、ぼくはアラームを切って体を起こすと伸びをする。曳沼がおもしろかったという本のおもしろさが自分にはわからなかった。けれどもそれは、くやしがることではないことのように思えた。かといって、「どういうところが面白いのか」を曳沼に聞くのも何か違うような気がした。くりかえしになるが、それは勝ち負けの話ではない。だって、もっと根本的な話として、ぼくと曳沼は友人ではないのだし。ただ、自分にはよくわからない本を曳沼は愉しむ才能を持っていると知ったこと、そのことはなんだか、ぼくに充足感を与えてくれたようだ。誰かを理解する、というのは、こういうこと、あるいはこういうことの延長線上にあるような、そんな気がしたのかもしれない。だとしたら、だれかを理解するというのは、なんとおもしろいことなのかと――そう思ったのかもしれない。でも、ほんとうのところはよくわからない。確かなことは、ぼくが2週間後、曳沼とふたたび日直をするということ、ただそれだけのことなのだった。
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